閑話 九相の様相

 

 戦場から帰っても、清威次せいじの戦争は終わらなかった。

 寝室の窓から外を覗くとトタンが視界に入る。塹壕よりはよっぽど住み良いが、お国のために戦った成果物が、こんな山麓のトタン小屋なら、戦争とはなんだったのだろうか。運悪く戦争に駆り出された兄は運よく生き残り、家督を継いだ今、心を病んだ帰還兵など息子であっても追い出したいというのが、父と母の本音だったのだろう。戦死した友の戦争は終わっただろうか。惨めに生き残らなければ、俺の戦争も終わっただろうか。機銃掃射によって一瞬で消えた彼の上半身は、今どこにあるのだろうか。異国の土では眠れまい。

 青々と茂る森の木々は、清威次の戦争を終わらせはしなかったが、心を落ち着かせる程度の効能はあった。草木皆兵なんていうが、馬鹿にしてくれたものだと思う。焼け野原に草木などあるものか。ああでも、移動のためにジャングルを通ったときは確かに自分も含めて皆周囲を警戒していた。そうだ、鳥が飛び立つ音に後ろの隊員が驚いて、丸太の橋から落ちたんだ。荷物を掴まれた自分も一緒に落ちて、上官にえらく叱られた。そのときに思い切り殴られたので、お前のせいだぞとねちっこく責めたら、故郷に帰ったら米をたくさんやるから許してくれといわれた。実家は農家だったらしい。人懐っこい、笑顔の似合う男だった。身体が大きいから、怒られるときも背の低い上官を見下ろして余計に怒られていた。身体が大きいから、戦場で的になった。真面目な性格だったから、馬鹿真面目に戦ってあっけなく死んだ。彼が死ぬ瞬間を自分ははっきりと見た。なだらかな丘のような戦場を一番に上りきったあいつは、待ち構えていた3人の敵兵に飛び掛かられて、ダメだった。銃剣で喉を刺される瞬間、彼は自分に向かって「助けて!」と叫んだ。叫んだ。叫んだ。叫んだ、のに――でも、

 急激に吐き気がこみあげてきて、清威次は窓を開けた。地面に向かって舌を突き出すと同時に汚い音を立てて胃液が流れ出てくる。もう何度も同じことをしたせいで、ゲロのかかった外壁は錆びてきている。なんて情けない男だろうか、自分は。

「堪忍や里崎さとざき、堪忍。許してくれぇ」

 床に崩れ落ち、清威次は記憶に謝る。戦争では真面目なやつから死んでいった。優しいやつから死んでいった。彼らが死んでくれたから、仲間を見殺しにする、臆病な自分なぞが生き延びてしまったのだ。

 呻くように謝る清威次の声が止んだのは、葉を揺らす音が外から聞こえたからだった。はっとして清威次は顔を上げる。サッシを掴んで立ち上がり、もう一度窓の外に目を遣る。乱立するブナの木の狭間から、一頭の鹿がひょっこり姿を現していた。赤毛に白い斑点のついた皮に、美しく伸びた角、なによりそのつぶらな黒い瞳に、一気に清威次の心は安らいだ。戦争で心を病んだ彼にとって、唯一の癒しとなるものが鹿だった。この辺りには鹿が多く、清威次が窓から外を見ているとよく顔を出す。あの宝石のような瞳をじっと見ていると、自分の罪も苦しみも、全て吸い込まれていくような気持ちがする。実際、鹿を見た日は体調が良かった。清威次はしばらく鹿を眺めていたが、鹿が森に姿を消すと、途端に腹が空いて来た。近くの村でもらった野菜と味噌があったはずだ。汁物でも作ろうと、彼は軽い足取りで寝室を出た。

 それから数週間が経ったが、やはり鹿より彼の心を癒すものは現れなかった。幸運なことに、毎日のように鹿は現れ、その度清威次の苦しみを救ってくれた。彼に、もはやあの鹿なしでは、自分は寝起きさえまともにできないと思わせるほどに。市井を追われたことを、最近ではありがたくすら思っていた。この場所でなら、自分は生きて行ける。

 ある日も清威次は寝室から窓を眺めていた。布団を敷いたすのこを窓際まで寄せて、目が覚めたら立ち上がって窓の外を眺めるのだ。はじめは椅子を置いていたが、体を起こして、歩いて椅子まで行くことも億劫になっていた。

「今日はいっちょん来んなあ……」

 困ったように清威次は呟く。鹿が庭先に現れてくれなければ、あの苦しみに一日囚われる羽目になる。祈るような気持ちで、ブナの木々を見つめるが、鹿どころか動物一匹現れやしない。

 そんな折、不意に葉の揺れる音がした。鹿か。急いで清威次は辺りを見回す。すると木々の間から一人の青年がこちらに近づいてくるのが見えた。なんだ人間か、とがっかりしたが、その容貌には目を引かれた。日本人には珍しい赤毛に、色は白く鼻筋が通った彼の姿に、清威次は一気に現実に引き戻される。仲間を殺し、鉄の雨を降らせた鬼畜にそっくりではないか! なぜ外国人がこんな田舎にいるのか、理由はさっぱり分からなかったが、そんなことはどうでもよい。あれがここにいることが問題なのだ。清威次は頭を抱えて床に蹲る。敷布団越しに伝わるすのこの硬さが急に堪え出す。

 この日から清威次は布団から出られない生活が続いた。頭の中では常に銃声と悲鳴が轟き、関節がギシギシ痛んでいた。少し気力のある日に窓を覗いても鹿も一向に現れない。鹿がなくてはこんなにも辛いのに、何時間窓辺に縋りついても彼らは現れてくれない。清威次の鹿への執着は、苦痛と共に強くなっていた。

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