休題 鹿の瑕疵か

 季節が変わり冬になると、体の痛みは一気に酷くなる。鹿狩りを始めた猟師の銃声が聞こえる度、死んだ仲間の無残な身体が蘇った。

――痛い、痛い、痛い。

 動けないのだから医者にかかることもできない。しかし、医者にかかってもこの痛みが引くことはないと清威次は分かっていた。この痛みは記憶だ。自分の中で未だ続く戦争が、この痛みを引き起こしているのだ。奥の奥から疼くこの痛みは鹿にしか癒せない。だというのに、今も外で鹿を撃つ音が聞こえる。空襲も来ないようなド田舎の、安息地で戦争を終えた者どもが、鹿を殺している! 怒りと苦痛でどうにかなりそうな清威次が葉音に気づいたのは奇跡だったかもしれない。その音を聞けば、清威次はどれだけ身体が痛かろうとも体を起こす。かじりつくようにサッシを掴んで立ち上がる。

 鹿が、いた。

 赤茶色の毛に、黒曜石のような真っ黒な瞳。生え変わりの時期が来たのか、角は落ちているが確かに鹿がいた。それは地獄に垂らされた一筋の蜘蛛糸だった。御仏の垂らしたかの糸は二度とは垂らされず、今を逃せば地獄から逃れる手段を永遠に失う。清威次は弾かれたように寝室を出た。向かった先は台所だ。冷蔵庫などないこのあばら家には、氷室代わりの床下収納があった。もっとも清威次はそこをただの物置のようにつかっているが、とにかく彼は薄い爪でカリカリと床を掻き、浮いた扉を放り投げる。ひやりとした空間に手をつっこみ麻袋を取り出す。紐を解くと中には軍用拳銃と数発分の銃弾が入っていた。それは里崎の遺品でもあり、戦後自分がこっそり持ち帰ったものだった。当時は友を見捨てた自戒のためにと持って帰ったつもりだったが、清威次は拳銃を手に握るとにやりと笑った。瞳孔の開いた目はぎらぎらと鈍く光っており、まるで飢えた獣のようだ。清威次は拳銃に弾を込めると、ふらふらした足取りで外に出た。

 鹿はまだそこにいた。餌を探しているのか、地面に落ちた枝を足でいじっている。音もなく鹿の背後に忍び寄った清威次は、首根っこを掴むと間髪入れず、後頭部に向けて発砲した。1発で十分だった。鹿は孔から血を噴いて地面に伏す。

――やった、やった!

 興奮で歯の奥が震えた。これでもう疼痛に悩まされることはない。この鹿を剥製にして、寝室に首を飾ろう。角がないのは少し残念だが、そんな贅沢はいっていられない。清威次は横取りされる前に、急いで死体を小屋に持ち帰った。

 剥製にしたかったが、清威次には剥製を作る知識がなかった。鹿の頭を持ち上げてしばらく考えたあと、そのまま寝室に飾ることにした。この美しい目が腐ることはないだろうし、他が腐る分にはまあいいだろうと思った。

 それから一週間が経った朝、清威次は顔になにかが滴る感覚がして目を覚ました。いよいよ肉が腐って、汁が落ちてきたのだろうか。そんなことを考えながら壁に飾った鹿の頭を見上げ、絶叫した。

 鹿の頭が、人間の頭になっていた。肉のただれたその顔には、確かに黒曜石のような瞳がはまっているが、それは鹿のものではなかった。頭皮にこびりついた赤茶色の毛は日本人のものではない。それはいつか見た、異国の青年の頭だった。

「ぎゃぁあぁ――ッ」

 なぜここに彼の頭があるのだ。それに、自分の獲った鹿はどこにいった? 青年を殺した誰かが、自分が寝ている間に頭をすげ替えにきたのだろうか。そんな馬鹿なことがあるものか。清威次が自分の身に起きていることを理解するより早く疼痛が蘇ってくる。もう座ってすらいられない。砲弾が地面で爆発する音が脳の多くに響く。逃げるように清威次は意識を失った。

 次に起きた時、人間の頭は消えていた。代わりに壁には、清威次が撃った鹿の頭が飾られていた。夢だったようだ。安心した清威次は布団に包まりまた寝た。

 人間の頭は時々現れては清威次を悩ませた。それも病状が穏やかになったときに限って、それは鹿から人に姿を変えるのだ。回復しかけた体調が、死体によって元の状態にされる。そんな気分だった。恐ろしいことに、死体は九想図くそうずを辿るように朽ちていく。戦争で幾度となく見た死体が目の前にある事実。瞼の溶けた彼の顔から、ぼろりと落ちた目玉を手のひらで受けたとき、清威次の心は完全に壊れた。青年が自分を呪う声が四六時中聞こえるようになり、毛布を被っても耳を塞いでも声は止まない。青白い手が首を絞める夢を何度も見た。

「違う。俺が撃ったのは鹿や。人やない。鹿や、鹿や、鹿や、鹿や。俺は悪ない。俺は悪ないぃいぃぃぃ」

 腐り落ちた青年の頭がこちらを睨んでいる。部屋中で瞬く無数の鹿の瞳が、赦されない罪を責め立てた。

「あ、あぁ、あ、あ……」

 数日後、失踪した青年の調査のために、清威次を尋ねた警察官が彼の遺体を発見した。寝室で倒れていた彼の顔には、おびただしい数の黒光りする石がこびりつき、背やわき腹からは鹿の角のようなものが肉を裂いて突き出していたという。




「――で、これが?」

 撤兵は全てを読み終わると、ナゲットに向かってタブレットを傾けた。

 つい一時間ほど前、撤兵はBBQから「だぁさまの機嫌が悪いの。見てきてちょうだい」といいつけられて、ナゲットの部屋を訪れていた。上裸でベッドの上に寝転がった彼の背中は不自然に隆起しており、それについて質問したところタブレットを投げつけられた。開かれているのは遺想学会のHP上にある『遺想物データベース』というページの1編らしく、読めといわれたので大人しく従った。感想としては、相変わらず遺想物に関わる話は胸糞が悪い。

「ちゃんと読んだのかい? この馬鹿」

 普段は捻って寄こされる暴言だが、今日はシンプルだ。鋭利さは変わらない分、ダメージが直に入る。撤兵は眉をひそめながらページをトップまでスクロールした。

「えー、檀林だんりんの鹿。九州某所の山麓にある廃屋の寝室。足を踏み入れただけで魂に呪いが沈着し、体から黒曜石のような石のついた鹿の角が生え、四六時中疼痛に悩まされる。これがどうしたんすか? あ、その背中のボコってなったとこに角が生えるとか?」

「そうだよ」

「あはは。ですよねーないっすよねー。え!?」

 大声を上げる撤兵にナゲットは枕に顔を埋めたまま「うるさいなあ」と不快を露わにする。

「あれだけ思われ物に触れさせてあげたのに、まだ驚くのかい。大体、あのさあ、君は僕と初めて会った日を覚えてないのかい? あのときはまだ落ちていなかったから、ボクの背中にはたしかに石の生えた角があっただろうが」

「あ、あー……いわれてみれば?」

 あったような気もするが、あのときはナゲットのことを変態コスプレ男だと思っていたので、そこまで注意していなかった。全体的に変な恰好をしていた――正確にいえば今もしている――ことは覚えているが。ナゲットは深いため息をついた。

「痛いんだ、これ。痛いっていうか、そこに書いてあるように疼くんだよ。流石の僕もこの疼痛は耐えがたい」

「はあ。それを相殺する? 思われ物はないんですか?」

「ない。一瞬関わっただけで魂に沈着するレベルだからね」

「はあ。ドンマイっす」

 本来ならば心配するところなのだろうが、症状が現実離れしている上に、日ごろの恨みがあるのでうまく心配できない自分がいた。とりあえずできることもなさそうなので「お大事に」といい残して部屋を出る。背中から

「この薄情ダメ学生!」

「恥を知れ、冷血漢!」

 と恨み節が飛んできたが、気にせず一階に戻る。キッチンで夕飯を作っているBBQの元に顔を出して事の顛末を話すと、納得した様子で頷いていた。

「ごくろうさま。機嫌の悪いだぁさまって、いつもの三倍は面倒だから関わりたくないのよね。ご褒美におかずを一個増やしておくわ」

「やった」

 キッチンには香ばしいスパイスと肉の焼けるの匂いが充満していた。「今日の夕飯は?」

「鹿肉のハンバーグよ。麓に下りたら、猟師の知り合いがくれてね」

「……鹿肉」

 撤兵は頭の中で先刻までの話を一巡させたのち、

「うまそう!」

 ほくほく顔で自室に戻った。これまでの経験が彼の神経を太くしたのなら、彼はその人生に感謝すべきかもしれない。

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