7 遮光の雲 

「はーッ……はーッ……」

 扉の隙間からこちらを覗く大熊の目は血走っている。変態じみた荒い呼吸は狭い物置に響くようで、撤兵とBBQは悲鳴を上げて抱き合う。かと思えば、BBQは撤兵を指さして、

「あ、あたしは関係ないよっ。やるならこっちの撤兵だけにしとくれ!」

「お前――っ」

 なんて薄情なんだ! 撤兵も負けじとBBQを売ろうとするが、彼の中にわずかに残った良心がこの少女を売ることを許してくれない。いや、こいつは男だ。華奢で柔らかい女の子なのは見かけだけだ。売れ、売るんだ撤兵。撤兵が自分を奮い立たせている間にも、大熊は扉に指をかけて隙間をこじ開けようとしている。蝶番のネジを必死に掴んで開けさせまいとするが、テコの原理が今になってよく分かる。大熊の指を外せるのならそれが一番いいが、彼女は刃物を持っている。指を掴もうとしたところを逆に掴まれ、グサっと行かれる可能性は低くない。

「BBQっ。お前藍子も倒してたんだから、人間くらい倒せないのかよッ」

「無茶おいいよ。あたしは今丸腰で、狭い物置の中で、相手は刃物を持っているのよ。それに藍子のときだって、マスタードじゃなきゃ勝てなかったわよ」

「なんで中身が男のお前よりマスタードの方が強いんだよっ」

「あぁ!? 今のは差別的発言よ。大学でジェンダー論でも勉強してきなさい」

「男の方がフィジカルが強いのは事実だろぉおぉ?!」

「フィジカルは女だよッ」

 不毛ないい争いをしていると、不意に隙間から差し込む光量が増えた。すると直後に「ウっ」といううめき声と共に、なにかが倒れこむようなお音がする。顔を見合わせて首を捻る二人。それから恐る恐る二人で外を覗き込めば、

「マスタードぉっ」

 この騒ぎでマスタードも目を覚ましたようだった。彼女の足元には大熊が蹲っており、刃物も一緒に転がっていた。彼女は声に気づいて物置の扉を開けるなり、マジックを見せられた犬のような顔をした。

「なによ、二人共抱き合って。そういう関係?」

「違うっ」

 同時に叫んでマスタードと撤兵はお互いを突き飛ばす。さっきまで感じていた胸の高まりは誤解だったようだ。

 三人は大熊を囲むと、一連の凶行について問いただす。

「なぜこんなことを?」

 朱咲を拾い上げてBBQが聞く。大熊は床に正座をして俯いていた。先ほどまでの狂気じみた雰囲気はすっかり萎んでいて、彼女は困惑が滲む声でぽつりと呟く。「分からないの……」

「分からない? 人様に手ぇ出そうとして、分からねえってこたぁねえだろ」

 責めるようなBBQのセリフに大熊は肩を縮こまらせる。

「ご、ごめんなさい。でも本当に分からないの……。お風呂から帰ったら、クソオヤジ――社長に部屋を整理するようにいわれて。撤兵君、だったわよね。君なら知っていると思うけれど、あの野郎――社長は昼の発表会の途中で怒って別荘に戻ったでしょう。あのあと、怒りのまま自分の部屋に行くなり荷物をぶちまけたり、机を蹴ったりしてしていて、部屋はすごい荒れようだったわ。それから間抜け狸――社長は、俺はリビングにいるからって部屋を出て行って、あたしはそのまま社長の部屋に二時間ほどいたはずなの。そこでその朱咲とかいうナイフを手に取ったら、急に、なんていうのかしら」

 とりあえず、彼女が皆川のことを激しく嫌っているのは分かった。三人は神妙な面持ちで続きを待つ。

「お風呂に行く途中で、マスタードさんと撤兵君が一緒にいるのを見かけたことを思い出して、ああ二人は付き合ってるんだって憎たらしくなったの。付き合ってるかなんて知らないのによ、おかしいわよね。でもあのときはそれが事実だって思い込んでしまって、休日返上で社長のわがままに付き合わされて、セクハラばっかり受けているすごく自分が惨めな気持ちになった。あなたたちはコーヒー牛乳かフルーツ牛乳か、なんてくだらない話題でもあんなに楽しそうだったのに、あたしといえば、学生時代こそそれなりに遊んでいたけれど、今となっては……。彼氏とも随分前に別れたし、なんでこんなことになったのかしらって。イケメンなんかいるから、釣られる女がいるのよ。カップルを生み出すイケメンなんかこの世から消えればいい……心の中にそんなドロドロしたものがあふれて、気づいたら撤兵君の部屋に行って襲っていたの」

 本当にごめんなさい。最後に項垂れるように頭を下げて大熊は口をつぐんだ。皆川いわく、朱咲は手にした者の反社会的な言動を扇動する効果を持つ。つまり掃除中に朱咲を手にした大熊は、遺想物の影響で負の感情を煽られ、撤兵を刺しに来たことになるが、それは掃除を命じた皆川に向けられなかったもんだろうか。彼と同等以上のヘイトを向けられる自分は、一体なんなのだろうか。どこか悲しい顔をする撤兵の肩に、BBQはぽんと手を置く。

「許しておやりよ、撤兵。アンタの女難が招いた結果よ」

「原因と結果が逆だろっ」

 とはいえ撤兵も大熊を警察に突き出そうなどとは思っていなかった。二十年余の人生で女性に刃物を向けられたことは数度あるが、彼女たちと違って大熊の場合は遺想物の影響による行動だ。であれば仕方ないとまではいえないが、今回の殺人未遂は不問にしても良いと思った。

「いいっすよ。俺イケメンなんで、襲われるのは慣れてます」

「撤兵君……」

 仲直りの握手を交わしたところで、撤兵はあることを思い出す。

「ていうか、玄関に皆川のオッサンがいなかったっけ? マスタード、見た?」

「いいえ」マスタードは緩く首を振って否定する。「あたしが二階から下りてきたときには、玄関に人はいなかったわ」

「そっかー」

「そういえばあの人も刃物みたいなもんを持ってた気がするわねえ」

 横入りするBBQに撤兵は頷く。見間違いならいいのだが、この別荘に刃物を持って来るなら十中八九狙いはナゲットだろう。

「ところでナゲットさんはどこにいるんだろうな。いつもみたいに眠れないなら、面白がって様子を見に来そうなもんだけど」

 撤兵がいえばメイド二人ははっとして「たしかに」と賛同した。まさか主人の存在を忘れていたのだろうか。

「十中八九あの狸親父の狙いはだぁさまだと思うけど、もしかして手遅れかしら?」

「次の就職先、考えないと」

 飄々とブラックジョークを吐く二人。直後にリビングから破砕音が聞こえてきた。四人は思わず視線を交わし合う。

「多分だぁさまよね……どうしよう」マスタードが小声でいいながら眉をひそめる。「一応用心棒だから、あたしとBBQは行くしかないわ」

「じゃあ俺と大熊さんはこっそり外に出るから、二人でなんとかしてもらって……」

「馬鹿おいいよ。あんたも来るんだよ」

「ええぇ……」

 嫌がる撤兵の耳をBBQが掴み、三人はリビングへ様子を見に行くことにした。危険が考えられるので、はじめ大熊は置いていこうとしたが、一人の方がかえって不安だと彼女も最後尾についた。

 リビングの前まで行くと、開け放たれたドアが闖入者の存在を物語っていた。細心の注意を払いつつ中を覗き込めば、こちらに背を向けてなにやら喚いている皆川と、ソファに座ってそれを聞きいているナゲットの姿があった。皆川の手にはナイフが握られていて、彼は時折それを掲げたり、空を切りつける仕草をしたが、ナゲットが怯えている気配はない。

「今なら倒せるんじゃない?」

 撤兵が尋ねるがマスタードにすぐ否定される。「無理よ」

「あたしもBBQも、今は鎖分銅を持っていないもの。万一気づかれたとき、だぁさまと皆川さんの距離じゃ間に合わないわ」

「じゃあどうすんの?」

「だぁさまがあたしたちの存在に気が浮いて、皆川と離れてくれたらいいんだけどねぇ」

「手ぇ振ったら気づかないかな?」

 音もしないし、視界でなにかが動けば気になるのが人間てものだろう。撤兵はその場で左手をぶんぶん振ってみた。するとすぐにナゲットがこちらに気づき、あろうことか手を振り返してくる。

「は!?」

 目の前の人間がいきなり手を振りだしたら、当然背後に誰かいると思うのが人間てものだろう。皆川は勢いよく廊下を振り返る。

「いつから聞いていやがった! お前らこっちに来いッ」

 刃物を突きつけて命じられれば応じる他にない。四人は立ち上がると順番にリビングに入った。

「大熊ァ……! 俺を裏切ったな、このアマ」

 撤兵の陰に隠れる大熊を、皆川は憎々し気に睨みつける。

「結局は若い男がいいのか、クソビッチめ」

 怯える大熊は増々撤兵の陰に入り込むが、撤兵としてはやめてほしい気持ちでいっぱいだ。それでも彼を皆川の方に突き出すわけにはいかないので、「偶然すよ」とぼそぼそフォローを入れる。皆川は舌打ちをしたあと、脂が滲み出そうなくらい顔をしかめながら、四人に向かってこう命じる。

「ここに学会の連中を呼べ!」

「もう皆寝てますわよ」

「うるさい、叩き起こせ! 全員の前でこいつを殺す。お前らのせいだ、全部お前らが俺を馬鹿にしたからだ!」

 BBQとマスタードは肩を竦めた。それでも要求を突っぱねることはできず、

「スマートホンは部屋よ。取りに行っていい?」

「内線があるだろ。母屋に連絡して、オーナーに全員起こすよう伝えろ」

 せっかくの別荘宿泊が大変なことになってしまった。にやけた顔でソファに座るナゲットを見ながら、撤兵は小さくため息をついた。この人、恐怖とかないのかな……。

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