6 衝撃!
ベッドの浮き沈みと小舟を揺らす波はそっくりなのかもしれない。一瞬、撤兵はこの感覚が夢なのか現実なのか分からなかった。乗った小舟が波に揺られる。いや、布団に包まった体が一定のリズムで床に沈む。かと思えば小舟が揺れる。小舟、布団、小舟、布団、小舟、布団、小舟、と繰り返した頃、体の上にずっしりした重みを感じた。それに気づいた瞬間、撤兵の意識は覚醒する。
――夜這いだッ。
なにを思春期をこじらせた男子中学生のようなことを、と思うのはお門違いである。撤兵はなにも見聞した知識で確信したのではない。これまでの凄惨かつ卑猥な体験で以て、この環境でこの重みを感じるには、夜這い以外の状況はあり得ないと断じるのだ。
相手が誰だか知らないが、生憎撤兵には今のところ結婚する予定はおろか、子供を育てる予定もない。認知する予定も、養育費を支払う予定も! 撤兵は仰向けの状態から、僅かに左に身体を傾け、勢いをつけて反対側に寝返りを打つ。予想外の高波に不届き物は「きゃぁっ」と悲鳴を上げながら床に落ちる。同時にカランカランと金属質な音もした。
「ん!?」
不審に思い体を起こす。枕元に置いていたスマートホンで相手の女を照らすと、床に蹲る大熊の姿があった。ついでにその傍らには、昼に写真で見た朱雀が落ちている。何故大熊が自分を、という問いは大して重要ではなかった。そんなものは大抵「自分がイケメンだから」で片付く。重要なのは朱雀の方だ。たしかこの思われ物は儀刀で、しかし中国の坊さんが刃を研いだことで弟弟子を刺し殺せる殺傷能力を持っているはずだ。大して話を聞いていなかったので効果は知らないが、要は人を殺せるナイフを持って、この大熊という女は自分に跨っていた。その意味するところを察した撤兵は、
「おおぉうわーッ!?」
間抜けな悲鳴を上げて枕と布団を大熊に投げつけると、裸足のまま部屋の外に飛び出した。
「ああ驚いた!」偶然廊下にはパジャマ姿のBBQがいた。「こんな夜更けになんだい」
怪訝そうに眉をひそめるBBQ。だが説明している余裕はない。彼女の腕を取り、一階に繋がる階段に向かう。
「なんだいなんだいッ」
「お、おぉっ熊に襲われたッ」
「熊に襲われたァ? なに寝ぼけてるんだい」
「ちーがーうーっ」
滑るように階段を下りていれば、二階から「待ちなさいよ!」と怒声が聞こえてくる。するとBBQも事態を察したようで、引きずられるような足取りから一転、撤兵を抜く勢いで踏面を飛ばし歩く。一番安全なのは、母屋に行って助けを求めることだろう。お互い薄着だが、コテージから母屋くらいならなんとか耐えられる。二人の考えは一致していて、相談せずとも一階に下りると自然その足は玄関に向かった。しかし運命のイタズラか、二人が上がり框までたどり着いたところで玄関が開き、ただならぬ雰囲気をまとった皆川が現れた。その手には短い棒のような物を持っている。雪明かりに照らされたそれは鈍色に光っていた。凶器の正体を悟った二人はギョッとして踵を返す。今度は当てなどなく、一目散に駆けた先は行き止まりだった。大慌ての中目をつけたのは、木製のコテージに馴染むよう造られた木肌の物置だった。物置といっても、よく見るスチール製のロッカーを二つ並べた程度のサイズしかない。物置にするには小さいが、人二人ならなんとか隠れられるだろう。
温かみのある木製といえど、気温がマイナスを超えるこの時間では、物置の中はすっかり冷え切っていた。狭い空間だ。掃除機やモップの隙間に無理やり体をねじ込んだ撤兵とBBQは、自然互いに身体を押し付けるような体勢になった。足元から伝わる冷気が相手の熱を嫌でも強調する。
「はぁ……はあ」呼吸の整わないBBQ。普段なら気にも留めないはずなのに、今はやたらと扇情的に思えた。「まったく……なんだってんだい」
ドクドクと脈打つ心臓の音は自分のものなのか、BBQのものなのか判断がつかない。若盛りの学生に、鳩尾の辺りに押しつけられる胸部の感触を気にするなというのは無茶だろう。撤兵は暗闇で目を凝らし彼女を見つめた。この暗さでも彼女の赤い髪が柔らかいのは分かった。すとんとおちるラインのワンピース――ネグリジェというのだったか――は生地が薄いのか、
「なんだい?」
「……BBQ」
ひんやりした頬に手を滑らせる。ニキビ一つない陶器のような肌だ。唇からは若干血の気が引いていたが、皮剥けもなくぷっくりとしていて愛らしい。
「ちょっと、なんだい」
怪訝そうに尋ねてくるその瞳は、この状況への不安からか水面が波打つように潤んでいた。ごくりと生つばを飲み込む撤兵。物置に鼓動がこだまする錯覚を覚えているのは、きっと自分だけじゃないだろう。
この雰囲気は、イケる。
女難の相とはそれすなわち女性経験の多さを裏付ける。撤兵は積み重ねてきた経験を信じ、優しく、しかししっかりと彼女の頬を引き寄せた――
「だぁっおよしよ!」
突然声を張り上げると、BBQは撤兵を突き飛ばした。
「な、なんだよいい雰囲気だったのに……」モップに当たった後頭部をなでながら口を尖らせる撤兵。今のは行けた雰囲気だったろう、今のは。
若干拗ねた撤兵の態度が伝わったのか、BBQは目元と口元を引きつらせる。
「お前さんの女難は自己責任なんじゃないかと思えてきたよ。この際だからいっとくけど、あたしは女じゃない。男だ」
「男ぉ?」
突拍子のないセリフに、撤兵は改めてBBQを観察した。髪は長くてつやつや、これは今の時代男女どちらでもありえるが、骨格の感じといい、十分人並みに膨らんだ胸といい、柔らかい太ももの感触といい、どう考えても彼女は女性だと思う。「あ、」
「そういうこと?」生物学的な意味ではなく、というやつだろうか。
勘繰る撤兵だが、BBQは鬱陶しそうに首を振って否定する。
「違う! だぁだまが持っている死神の力で女の身体に入ってるだけで、あたしは元々男だったんだよ。正確にいえば、魂は今も男だ」
「えええぇ!? そんなに女なのにっ? この胸はッ?」
衝撃の告白だ。思わず胸を指させば、即座にばしっと叩かれる。
「そんなに女ってなんだい。外面が女なら女を演るのがあたしの信条なんだよ」
どこか自信気にBBQはいう。「なにそのプロ意識……」
「とにかくそういうわけだから、あたしは間違ってもアンタとそういう関係にはならねえ。もちろんマスタードもね」
「エッあの子も男!?」
「馬鹿。あん子は女だよ」
「なんだ……良かった」
胸をなでおろすと、彼女は鋭い目つきで睨んでくる。
「マスタードはあたしの幼馴染なんだ。女だからって下手なことしたら、そのタマ擦り潰すから覚悟しな」
「ヒェッ。やっぱり良くないカモ」
股の間が寒い。内ももで両手を挟み守りの姿勢を取る撤兵。本当に寒い。これは男性特有の感覚かもしれないが、いわゆる金的になにかされることを想像するだけで、その部位はもちろん、全身が総毛立つのだ。今だってこのように、腕には鳥肌が立っているし、まるで冷たい風が入って来たときのように寒い。今の状況で例えるなら、物置の扉が少しだけ開けられて、そこから冷気が入ってくるような。そうそう、こんな風に外の僅かな明かりが差しこんで、暗闇に一筋の線が見えるような――ん?
「一筋の光……?」
冷気の流れと光の元を辿る撤兵。僅かに開いた扉の隙間から、大熊がこちらを覗いていた。
「ギャ――ッ!」
「見つけた……見つけた……ッ」
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