4 花殻に春はなし
雪遊びをしに外に出ると、あっという間に日が暮れてしまった。撤兵、マスタード、道須柄少年によって開かれた雪合戦バトルロイヤルは、手を組んだ二人によって撤兵が蹂躙され決着。二回戦を開始しようとしたところで、愛甲オーナーに呼ばれ夕飯となった。
「あー、食った食った。うまかった」
食堂のある母屋から出た撤兵は、腹をさすりながら満足げにいう。オーナーお手製のビーフカレーを三杯収めた腹はイケメンらしからぬ膨れ方をしていた。かまくらのごとくカーブを作る腹を眺めながらマスタードは、「意外と食いしん坊ねぇ」と感想を漏らす。
「もしかして、今まであたしたちが作ったお料理は、君には足りてなかったのかしらん」
「そんなことないよ。雪山って妙に腹が空かない?」
あー、でもマスタードは全然食べてなかったか――そういいかけたとき、どこからか物音が聞こえた。何かが割れるような音だ。一同は顔を見合わせる。撤兵が会議に参加する際に通った母屋の正面に広がるスペースは、風呂や天体観測用のラウンジなんかが並んだ共用スペースになっている。しかし食事を終えたばかりの今は人の気配もなく、一同の視線は自然と隣のコテージ群に移った。彼らの予想を裏付けるように、今度はくぐもった男性の怒鳴り声がコテージの方から聞こえてくる。
「おやあ。あれは皆川氏の声だね」
道須柄少年にエスコートされながら母屋のステップを下りてくるのは守智だ。彼女もビーフカレーを相当量おかわりしていたが、その腹は――羽織ったショールに隠れて確認できない。
「子、安、撤、兵。今阿部先生のどこを見た……ッ」
「どこも見てない、見てない」
途端に目を三角にする道須柄少年は、恐らく恋愛が下手なタイプだ。これから先のままならないであろう彼の人生を一瞬で想像し、撤兵は生易しい気持ちになる。あしらってくれる年上を選ぶんだぞ、少年。同い年以下はダメだ。特に年下に惚れると、君みたいに好きな相手の周りの人間に敵意をまき散らすタイプは、相手を孤立させた挙句DVまがいの束縛をして、最後には有志によって成敗される。詳しくいうと、SNSや女同士のコミュニティで君のろくでもないエピソードが拡散・共有・捏造される。どうしても年上が嫌なら、束縛しようものならビンタの一つでも食らわすような気の強い女性にしなさい。ていうか、
「皆川の声なんすか? 今の」
道須柄少年の悲しき恋愛予想図などどうでもよい。撤兵は昼間に皆川から受けた仕打ちを思い出し、露骨に顔をしかめる。
「あのオッサン嫌われてそうっすよねー」
彼を嫌っているのは撤兵だったが、その場の誰も否定はしなかった。むしろ守智はとナゲットは笑いながら頷く。
「あはは。嫌われてそうじゃなくて、嫌われているんだよ」
「そうだね。学会でも彼を良く思わない者は多い。良く思える部分がないからね。それでも昔は研究者として極端に能力がないわけじゃなかったし、学界的には一つでも多く遺想物を回収したいから、発表会にも招いているんだよ」
引っかかるいい方をする人だ。撤兵は妙に楽しくなってきた。その間も怒号は断続的に聞こえてきたが、なにをいっているかまでは聞き取れない。
「昔は、ってことは、今は違うんですね?」
「そうだよー。すっかり花も葉も枯れ落ちて、
おもむろに守智は積もっていた雪を掴む。
「春になっても芽は出ないだろうね。あだ花だったようだから」
「それも遺想物のせい? 魂に沈着する、的な」
「お、一応勉強してるじゃないか。偉いぞ。ほれ、ご褒美」差し出された雪玉を、撤兵はかぶりを振って拒否する。「だが彼の場合は違う。もっと厄介なものだ」
「厄介って?」
「無為な自己肯定感の高まりと、自我の肥大化だよ。ねえ阿部先生」
楽し気に暴言を吐くナゲットを、しかし守智は止めない。「ま、そうだね」
「えー。どういうことすか?」
質問を重ねる撤兵。守智は「この界隈に関しては、彼は君の教え子だよ」とナゲットに解説を要求した。理事長というのがどれほどのものか撤兵は知らないが、少なくとも学会の人間一人をこきおろすのは憚られる立場であることは予測がついた。一方、役職を持たないナゲットは意気揚々と語りだす。
「長く生きれば生きるほど、自分の人生の価値を信じたくなるんだ。どんな能無しでも大なり小なり苦労はしているわけで、それらの結果である今が、他人より劣ると思えるような人は少ない。ほら、ブラック企業が研修という名目で、駅前で社訓や意気込みを叫ばせたりすることがあるだろう。あれと一緒さ。そして空っぽな人間ほどその過程に縋りつき、結果が出ていると思い込む」
「……深いっすね」神妙な顔つきで撤兵は頷く。
「ウン。ピンと来てないのはよく分かったよ」
「なんとなくは分かってます。なんとなくは」
要は、自分を馬鹿にされたくない、称賛されたいという気持ちが、自分の出した結果以上に膨らんでしまって、自分はすごいと思い込むことしかできなくなってしまったという話……のはずだ。ちょっと不安だけど、多分。
「本当かなあ。ともあれ、皆川氏が無能なわりに声がでかいのはそういうわけさ」
するとすかさず守智が補足する。「桧垣先生が来てからは悪化の一途を辿っているね」
「ナゲットさんてホント、ろくなこと起こさないんですね」
「利益も不利益も出さないダメ学生にはいわれくないよ」
お決まりの暴言を吐いたところで、ひときわ大きい怒声が辺りに響いた。直後に、母屋側に置かれたコテージの一軒から人が飛び出してくる。
「おや? あれは
手を
「大方、食事を届けにいったところで難癖つけて怒鳴られてたんだろうね」
和達は顔を何度も左右の手でこすっていて、ここからでもすすり泣く声が聞こえた。
「子安君、ゴー」
「え、俺?」
突然の指名にぎょっとしていると、向こうが先にこちらの存在に気がつく。この人数がいる中で、彼女は撤兵に視線を留めたようでばっちり目が合ってしまった。「ほらほら」と全員から背を押され、撤兵は仕方なしに和達の元へと駆けて寄る。
彼女は思ったよりひどい目に遭ったらしい。ひざ丈のエプロンには、カレーらしき液体が飛び散っており、掴まれでもしたのか髪はボサボサだ。鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、彼女は「ごべんなざい」としきりに謝っていた。
「あー、ウワ。酷いな。大丈夫じゃない、よな。怪我とかある?」
「い、いぇ、大丈夫でず」
「髪もそんなにボサボサに……。あのオッサンにやられたの? クズだな、あいつ」
「こ、これは元から、です」
「ゴメン」
背後で「マイナス六ポイントだね」「いや四ポイントでしょう。顔で補正がかかりますから」とかなんとか聞こえてくるのが腹立たしい。視界の端で奴らの様子を窺うと、一本の杉の木の後ろに螺旋を描いてこっちを観察している。杉に積もった雪が全部落ちればいいのに、と撤兵は切に願う。
「母屋まで送るよ。すぐそこだけど」
そういって背に手を回すと「おおっ」と歓声が上がった。――中学生か、おのれらはッ。これが美少女なら撤兵だって茶化されて悪い気はしないが、いかんせん和達はそういうわけでもない。おまけに今は鼻水と涙で更に評価を落としている。和達にバレないよう小さくため息をつき、撤兵は彼女を押すようにして母屋に向かった。ステップを上がる最中、手すりに積もった雪を片手で握り、杉の方へ投げたのはささやかな復讐だ。
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