3.5 回想拒否

――全然眠れなかった。

 会議終了後、撤兵はすっかり疲れ切った様子で机に突っ伏していた。そんな彼を囲むようにテーブルの周りには人が集まっている。

「すごいね君。会場に入って来たときからイケメンだとは思っていたけど、素晴らしい女難の才能だ」

「まったくだ。今度昼食でも一緒にどうかな? ごちそうするから、ぜひ藍子さんの話を聞かせてほしい」

 藍子、まさかその名前を再び聞く日が来ようとは。いやまあ、ありふれた名前だし同姓同名の人間はいるだろうが、あの藍子のことはもう聞きたくない。もちろん話したくもない。撤兵は演台の傍で雑談に興じているナゲットを激しく恨んだ。皆川が出て行ったあと、マイクを受け取ったナゲットはあろうことか藍子のペンダントの話をし始めたのだ。いつの間に撮っていたのか、あのおぞましい映像がスクリーンに大きく映し出され、撤兵は危うく会場から飛び出すところだった。おまけに彼は黙っておいてくれれば良いものを、藍子の元恋人兼ペンダントの持ち主として撤兵を紹介した。ざわめきと共に視線が集まるあの感覚――嫌いだ。

「遺想があそこまでくっきりと像を結ぶなんて……」

 集まって来たうちの一人が呟くと、周囲の人々もうんうん頷く。

「あたしは今まで一度もあんな風に像を結ぶ遺想物を作れたことはないのに。ああ妬ましい……そしてそんなあたしはなんて醜いのかしら……」

 話が不穏な方に傾いて来た。セリフの主を見上げると、彼女は暗い目をして虚空を眺めている。怖い、怖い。ゴスロリ調のシンプルなワンピースを着た少女は、その格好も相まって不気味だった。一方で周囲の人間は慣れているのか、「ヒドラちゃんストップ」「遺想の練習はやめてね」などとよく分からない宥め方をしている。ヒドラとはまた強そうな名前だが、本名だろうか? 珍生物でも観察するような目をする撤兵に、ヒドラははっとして謝る。

「あなたはあたしを知らないのよね。ごめんなさい、あたしなんかが話して、怖かったわよね。不気味よね。気持ち悪いわよね。こんな女、一度頭をぶちぬいて脳みそを洗浄してから、掻っ捌いて干物にしてやりたくなるわよね……」

「ならないです」ネガティブな女性との関りもそれなりにあるが、ここまで突き抜けていると若干面白さが出てくる。

「そうよね……。あたしにはそんな価値すらないわ。ごめんなさい、あたしはヒドラジンていうの。あなたあたしの発表は寝ていたし、興味ないだろうけど、おもをやってるわ……」

 罪悪感を煽る自己紹介だ。撤兵は寝ていたことを申し訳なく思いつつも、想い屋という職業に興味を示した。自分の記憶が正しければ、海老原の説明には出てこなかったはずだ。知っておけばナゲットの無茶対策になるかもしれない。撤兵は引いていた体を彼女の方に戻す。

「想い屋ってなに?」

「えっ。興味があるの?」ヒドラジンは遠慮がちに聞き返す。

「あ、ウン。ごめん。最近思われ物について知ったばっかりだから、あんま知らないんだけど」

「いいの。想い屋なんて遺想職の中でもマイノリティ中のマイノリティだもの。あ、ああ……そうよ、あたしはきっとこのままなんの名声も得られず、得られたとしてもこれまで振りまいたすべての因果を回収して転落するのよ。そうに決まってるわ。だってあたしなんて――」

 次第に目が虚ろになってきたかと思うと、ヒドラジンはネガティブなことを呟きながらふらふらと会場の外へ行ってしまう。

「……お、俺なんかやっちゃいました?」

 海老原に尋ねると彼は首を振ってくれた。

「あの子は遺想屋としての意識が高くてな。すげぇストイックなんだよ。想い屋はこう、なんつーか、常軌を逸して負の感情を持てる人間じゃねぇとできない職業なんだが、ヒドラは元々ポジティブな性格だったんだ。それを気にしていて、より深く、より長くネガティブな思考をできるよう常に自分を鍛えているんだ」

「…………」

 海老原の説明を聞いた撤兵の表情には、なんともいえない微妙な色が浮かんでいた。このオッサン、なにを馬鹿なことを真面目にいってるんだろうか? あからさまに鼻白んだ態度に耐え兼ねたのか、海老原は数秒黙り込んでから撤兵の頭に手刀を落とす。「イタッ!?」

「うるせー。坊主は坊主らしく、外で雪遊びでもしてこい。夏仁あたりなら付き合ってくれんだろ」

 それからシッシと猫でも追い払うような手つきで、撤兵にあっち行けと命じてくる。突然チョップを落とされた撤兵は漠然と不満を覚えたが、雪遊びは本来の目的の一つだ。会議も終わったわけだし、会場にいても藍子の話を深堀りされるだけだろう。

「じゃ、お言葉に甘えます」

 そして席を立ちあがり、ふと考えてから、

「藍子の話は嫌ですけど、雪遊びなら一緒にしますか?」

 油の抜けた大人たちは薄笑いを浮かべて首を横に振った。撤兵もついてくる人間がいると思って誘っていない。「じゃ」と軽く頭を下げ、入って来た扉に向かう。会議室を出る前横を通ったナゲットがこんな打診してきた。

「アッ撤兵君。出て行く前に、君の女難エピソードを五つほど披露していってくれないかい? できれば実害の出たものを!」

「ヤだよ!」せっかくのホリデー気分が台無しになるだろっ。

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