12 流されしもの

 ナゲットに背を向けた撤兵は、気づけばまた人跡を辿っていた。しゃわしゃわ、しゃわしゃわとする水音の方へ、枝葉を払いのけながら向かっていく。

 案の定、川辺にはマサキがいた。

「お前も懲りないな」

 仕方投げに息をつき、マサキはいう。その髪は濡れていて、毛先から頬にぽたりと水滴が落ちた。「何度も危ないっていってるのに」

「ウン。それは知ってるんだけどさ」

 薄ら笑う撤兵の声には覇気がなく、続く言葉もない。どうしても先刻の灯籠蜜やナゲットとの会話が頭から離れなかった。水音にかまけて黙り込んでいればマサキから話しかけてくる。

「それとも、なにか俺に用があったのか?」

「…………あの、さ。マサキ君て……家、どこ……?」いってから、自分が意味不明なことを口走ったことに気づいた。「ごめん。いや、そんな深い意味はなくて。なんか、その、ごめん。忘れて」

「お前はもう知ってる」

「え」

 撤兵は思わず顔を上げた。正面に立つマサキは、黒い瞳でこちらを凝視している。

「知ってるはずだ」

「な、にが」足が浮いた。しかし靴の底だけは地面にくっついていて、こけそうになりながら撤兵はもう一度「ど、どういうこと?」

「お前はグルになって俺たちを騙したじゃねえか。俺たちを試した。俺たちを騙した」

 会ったときとなんら変わりないはずのマサキの声が、今になって何故か恐ろしい。心臓に映えた産毛を逆なでされるような、本能的な不快感を呼び起こされる。

「あの女、男だったろう」

「は? え、誰が」

「あの赤い髪の女だ」

 撤兵が知る中で、この村にいる赤い髪の女は一人しかいない。

「BBQが?」

「そうだ。わざと男を連れてきて、俺たちを試そうとしたな」

「ンなわけない」撤兵はぶんぶん首を振った。「男勝りなとこあるけど女だよ。着物で潰れてたけど、胸もある。そんな、なにかを試そうとしたわけじゃないよ、マジで。もしかしたら、本当にもしかしたら心は男かもしれないけど、俺たちは知らないし、皆女だと思って花嫁にしたんだよ。本当だ」

 必死の抗弁が功を奏したのか、マサキはふっと頬を緩めた。いい表しがたい張り詰めた空気が一時的に消える。

「なんだ知らなったのか。まあいい。お前たち二人も、お前の仲間も、あの霊能者たちも恨んでない。だから一つ教えてやる。村に帰ったら、お前の仲間に教えてやれ」

 なにを――そう問いかけようとした瞬間、撤兵は再び全身を闇に飲み込まれるような錯覚を覚えた。

「御洗い様なんぞとっくにおらん」

 俺らが食っちまった。

 裂けんばかりに吊り上がる口角と、死人のような血の気のない青白い肌。それは理屈ではなかった。撤兵は極めて非現実的なことに、目の前に立ったそれが人ならざるモノであることを本能的に理解した。喉の奥から引きつった悲鳴が漏れる。マサキは恐怖に固まる撤兵を一瞥すると、人差し指を人跡に向けた。すると撤兵の体は意識とは無関係に人跡を振り返る。

「さっさと帰れ。こんなとこ、二度と来るんじゃねえ」

 体を無理やり掴んで動かされているように撤兵は森に歩き出す。油の切れたブリキ人形にも似た動作で一歩、また一歩と川から離れる。これが憎悪に駆られた『彼ら』の、最後の慈悲なのだろう。撤兵はまた本能的に理解した。しかし、そうであるならば。彼らが因習によって失われた命であるならば、たった十六歳の少年たちであるならば。肺を水に侵され無限の苦しみを味わい、あまつさえその死さえ悼んでもらえなかった哀れな子供であるならば、

「な、なあ。お、俺さ、」

 撤兵は恐怖に涙を流しながら、なんとか声を絞り出す。

「お、お、俺さ、その、こんないい方偉そうだけど、あんま使っちゃいけない言葉なんだろうけど」

「…………」

 マサキはなにも発しない。もし今彼を振り返ったとき、それがまだマサキの姿をしているかも分からない。

「――お、お前たちのこと、すごく可哀想だと思う。う、う、恨むだけの権利、あると思う」

「…………知ってるわ、そんなん」

 何かに強く背を押され、撤兵は走り出した。足は止まらず、撤兵も止まる気はなかった。歯の音が合わない。怖くて仕方がない。ただ妙に悲しくて、胸が苦しくて、撤兵はぼろぼろ泣きながら人跡を走り抜けた。

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