11 濡れにし君 

 無事を装い布団に戻った数時間後、撤兵は安納に揺すり起こされた。

「うううぅん、なんですか……」

「眠たいとこ悪いけどなあ、灯籠蜜先生に朝ごはん持って行ってほしいねやんかぁ」

 撤兵は寝ぼけた頭でセリフの意味を考え、ややあってから「イヤっす……」と布団を頭から被る。そんなもん自分が行けば良かろうなのだ。

「ええからはよ行きやー。お母さん忙しいんやで? アンタ放っておけば昼までゴロゴロゴロゴロしくさってからに、たまにはお母さんのこと手伝いなさい」

「誰がお母さんだ……ゥワーッ」茶番と共に布団を引っぺがされ撤兵は悲痛な叫びを上げる。「なにすんだよぉっ」

 家の中といっても、布団から出ればやはり寒い。撤兵は震える肩を抱きながら安納を睨むが、そんなことは露ほども気にせず安納は彼にお盆を押しつける。「ほなよろしく」

「なんで俺が……」

「マスちゃんはお宅の子やろがい。はよ行けダメ学生」

 尻を叩かれ、寝巻のままに撤兵は外に追い出される。ぴしゃりと玄関扉を閉められ、直後にわざわざ鍵を閉める音が聞こえた。

「……酷い」思わず本音がこぼれる。

 今日はいつにも増して寒風が激しく、そこここでつむじ風が起きていた。おまけに空はどんより暗くて、もう間もなく雨になりそうだ。寝間着は裏起毛だからまだ耐えられているが、あの男にはジャケットの一枚でも寄こす優しさはないのだろうか。まったくこれだからナゲットの知り合いは……恨み言をブツブツいいながら撤兵は閨に向かって歩く。

 灯籠蜜は昨晩見たときと同じように、閨の手前に打たれた杭に身を預けて立っていた。この寒い中よくやるものだ。ナゲットなんかよりよっぽど人間ができているのだろう。撤兵は灯籠蜜に片手を振って呼びかける。

「とーろみーつせーんせー」

 灯籠蜜はすぐにこちらに気づいた。袖から手を抜き応じるように胸の高さまで上げようとした動きが不自然に止まる。冷涼とした顔が驚きと困惑に変わったかと思ったのも束の間、灯籠蜜は大股でこちらに近寄ってくると撤兵の腕を掴んだ。

「あなた一体なにをした!?」かたん、と音を立てて朝食の乗った盆が落ちた。

「へっ」

 突然の怒声に撤兵は間抜けな声を上げる。怒鳴る灯籠蜜の表情は真剣そのもので、撤兵は瞬時に昨夜のことがバレたのだと悟った。

「あなた昨日私と別れてからどこに行ったんです。正直にいいなさい」

「え、え!? な、なんなんですか!?」

 灯籠蜜の迫力はまるで鬼のようで咄嗟にシラを切ってしまう。撤兵のわざとらしい誤魔化しに、腕を掴む灯籠蜜の力が強くなった。

「人ならざる者に会ったはずです! そうじゃなきゃこうはならない」

 なにが『こう』なのだろうか。撤兵にはなにがなんだかさっぱり分からないが、こんな風に狼狽する灯籠蜜は初めて見たこと、そして昨日閨に行ったことで良くないことが起きているのは分かった。

「それもただの悪霊じゃない。深い憎悪と厭世――これが爆発すれば、村一つくら簡単に潰せる。一体どこでこんなものを……いいなさい、どこに行った、なにに会った!?」

「い、稲呑川っすよッ。ちょっと夜中に眠れなくて起きちゃって、それで行ってみただけで、それだけですっ」

「そんなわけがないッ。少なくともあの川でなにかを見たはずだ!」

「な、なにかって……?」

「それは――」

 そこまでいいかけて、灯籠蜜は急に口をつぐんだ。気づけば周囲の民家から村人たちがこちらを見ていた。灯籠蜜は小さく舌打ちすると「こっちへ」と撤兵の腕を取って二人の下宿先へ帰る。撤兵は地面にぶちまけてしまったお盆と朝食が気になったが、まさかいい出せる雰囲気ではなかった。

 平屋に戻ると二人は家の裏、撤兵が人跡を発見した辺りで再び話し合いになった。

「どうせ桧垣先生の差し金でしょう。あの人には秘密にするから教えてください。人命に関わるんです」

 自分の腕を掴んで放さない灯籠蜜の手は熱く、撤兵の脳裏に昨夜のマサキの体温が蘇る。冬の水にさらしたような、かじかんだ手だった。撤兵は不安が心の中で風船のように膨らんでくるのを感じていた。きっといえばナゲットから口には出せないような目に遭わされるかもしれないが、いわなくてはもっと大きな災いが起こるかもしれない。葛藤の末、撤兵は昨晩閨に忍び込んだことをついに話してしまった。

「あの大馬鹿者……ッ」

 話を聞いた灯籠蜜はその場にいないナゲットを罵る。

「これだから遺想屋はッ。相手は山神、こっちがどれだけ慎重になっていると思っているんだ」

「で、でも変なものは本当に見てないっす」撤兵は自分まで責められている気分になって、中身のない弁解を始める。「相手が真っ黒とかだったら、闇の中で見ても気づけなかったかもしんないっすけど。それになにかあったら道に慣れてるマサキが気づいたはずだし」

「人がいたのか?」

「あ、あ、そうです。川から回り込めっていわれてたんで、川に行ったら――ほら、昼間も川に行ったって話したじゃないすか。そこで一度会ったんですけど――高校生くらいのマサキって男の子とまた会って、案内してもらったんです。そうだ、村のことよく知ってる灯籠蜜さんなら知ってます? マサキ」

 撤兵としてはここから雑談に持ち込めたらと思って聞いたのだが、期待に反して灯籠蜜は真剣な表情のままだった。むしろ眉間のしわをより深く刻み、「いや」と小さく首を振る。

「あたくしはこの村に二か月近くいるが、そんな男は聞いたことがない」

「え?」

「……川で、会ったんですね。そのマサキという少年の声は? 見た目は?」

「え、えっと、」

 撤兵は聞かれるがままにマサキについて思い出す。たしか田舎っぽいデザインのセーターを着ていて、声は特徴のない変声期後の少年の声で、年の割には落ち着いた風で、

「――あと、初めて会ったときは髪が濡れてました」

 その言葉を聞くと、灯籠蜜は額を押さえて数歩後ろにたたらを踏んだ。

「っぁあ、やはり、どこかにいるとは思っていたんだ。恨まないわけがない。しかし何故だ、私の前に姿を見せてくれればもっと早く……」

「灯籠蜜先生?」

 そのときだった。家の陰から村人が一人顔を出した。灯籠蜜は村人の姿を認めるや否やすぐに涼しい顔を張り付けると、

「なんですか?」

「ああいえ、お話中でしたかね。ちょっとばかし相談事がありまして、広場に来ていただけないでしょうか。村の皆ももう集まっとります」

「それは……急ぎのお話でしょうか?」

「ええ。申し訳ないですが、今すぐに……」

 村人は遠慮がちにいっていたが、それでいて引き下がる気はなさそうな雰囲気だった。灯籠蜜は撤兵と村人を見比べた後、「またあとで」といい残して村人共に行ってしまう。

 しんと静まり返った家の裏で、撤兵は抑えきれない不安を抱えた。

「喋ったね、撤兵君」

「ギャーッ」

 突如上から降って来たナゲットの声。反射的に撤兵は地面に蹲った。

「ホンットすみませんっ。土下座くらいしますから殺さないでーっ」

「君の土下座になんの価値があるんだい? そんなことよりさっきの話だけどさあ」

 この頃になると撤兵も落ち着き、声が聞こえてくる場所を振り返ることができた。トイレの窓から顔を出すナゲットに昨晩から今に至るまでの過程を説明すると、彼はサッシに肘をついて唸った。

「ふむ……。今回は本当に謎が多いな」

「マサキなんていないとか、おかしいっすよね」空笑いでいうが、ナゲットはなにも答えない。「俺は二回も会ったのに。それに変な感じもしなかったっすよ。フツーの男の子って感じ。冗談とかいってきたもん」

 撤兵はそれから一呼吸置くと、ナゲットを見上げて尋ねる。

「霊とか呪いとか、そんなものないんですよね……?」

 当たり前じゃないか撤兵君。冗談は女難の相だけにしなよこのダメ学生――そう軽口が返ってくると思ったが、ナゲットは思案顔でまたなにもいってくれない。ただ代わりに、昨日撤兵が預かってきたお守りを取り出すと、窓から手を伸ばして見せてくる。

「少なくとも花嫁の気が狂ったのはこのお守りのせいだろうね。あの灯籠蜜先生は呪物というだろうが、本質的には同じ意見だと思うよ」

「ほっ。そうですよね。呪いのせいなんかじゃないっすよね」

「でもねー、それだと説明がつかないことがあるんだよね」

「え?」

「はいこれ」

 お守りと交代に見せられたのは、ナゲットの所持するスマートホンの画面だった。そこには自分とのメッセージのやり取りが映されいて、どうやらBBQにスマホを貸した後、彼女がナゲットと連絡を取っていたようだ。BBQらは誰かとのメッセージのスクリーンショットが送られてきている。それは先日SNSを特定してきた巳妃とのやり取りだった。ご丁寧に自分に成りすまし、BBQは巳妃からお守りについての情報を引き出そうとしたらしい。

――巳妃からお守りを預かったってヤツと会ったんだけど、お守りを触ったときに違和感とかなかった?

――ああ、マサキのことね。でもなんか勘違いしてない? あのお守りは、マサキがあたしにくれたんだよ。最後まで花嫁役なんてやらないって家族総出でゴネてたから、ママとパパからのお守りなくってさー。それを話したら、じゃあ俺が身隠しのときにもらったのを貸してやるってくれたの。毎日閨に来てくれたのもあって、あたしマサキに惚れかけててさ。逃げる時に一緒に持って行っちゃお! って思ったんだけど、やっぱり貰い物をパクるのは良くないと思って、閨に置いて行ったんだ。だから預けてはいないよ。

「マサキの話と違う」

「ね。なんで彼はこんな嘘をつくんだろうね」

 ナゲットは楽しそうに笑った。一方で撤兵の心には不安と疑念が渦を巻いており、それは段々と信じたくない事実に形を変えていく。

「実は……実はBBQに一目惚れして、巳妃ちゃんとのことを知られたくなくて嘘をついたとか」

「そういうジョークは無視するとして、他にも謎がある。巳妃ちゃんにあげたはずのお守りを彼はいつ回収したんだろうね」

「そりゃ、人目のないときでしょ。昨日みたいに忍び込んだんだよ」

「なるほどね。たしかに時間はあったろうね。では一体なぜ彼は閨に行ったんだろう。彼女が逃げたのは知っていたはずなのに」

「……寂しくて? とか?」

「えーそんな理由で行くかい? それに花嫁が来るたびに声をかけにいってたんなら、そこまでの思い入れはないんじゃないかな。よほどの女好きならまだしも、どちらかというと優しさからく来た行動だろうよ。見つかったらなにをされるか分からないこの村で、わざわざ閨に行って哀愁に酔うかな」

「ならお守りが大切な物だったからじゃないすか」

「そうだねえ。妥当なのはその線だ。あ、でも、閨を掃除する人間はいるはずだよね。特に巳妃ちゃんは儀式を放り出したんだ。彼女が逃げた直後に、部屋を清める必要があったと思わないかい? そう考えるとその時点でお守りが回収されていないとおかしいんだよなあ」

「……俺、ちょっと頭冷やしてきます」

 話しているうちに変な気分になって来た。頭がぼんやり熱を持っていて、自分がしっかり地面に足をついているのか自信がない。川の水で顔でも洗いたい気分だ。

「そうかい。いってらっしゃい。あ、そうそう。なんにせよ今日のうちに村を出るよ。遺想物ができた経緯は気になるけれど、この村に長居するのはあまり良くなさそうだから」

「分かった」

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