8 二枚目の川流れ

 昼前になるとようやく灯籠蜜が帰って来た。行きと違って後ろにはBBQの他に四、五人の老婆を引き連れている。老婆はそれぞれ手に大小さまざまなつづらを抱えており、なにが始まるのかと撤兵は居間から顔を出して一行の様子を窺っていた。すると一人の老婆それに気づき、

「キェ――ッ!」

「ひっ」

 鬼のような形相で叫んだ。喉の奥で悲鳴を上げる撤兵に、老婆は仇敵を目の前にしたかのごとく憎々し気に吐き捨てる。

「お前のような男前がいたら、この花嫁も孕まされてしまう。どっか行けっ」

「そんなあ」

 この寒い中、一体どこに行けというのだ。BBQに視線で助けを求めるが、彼女は彼女で何があったのだろう。虚ろな目をして寝室代わりに使っている部屋に連れていかれてしまう。

「さっさとね!」

 最後にもう一度怒鳴られ、撤兵は渋々コートを持って外に出た。外は昨日より随分冷え込んでおり、重たげな雲が空を覆っている。夜には雪になりそうだがどうだろう。十二月のはじめの方は、天気予報でさんざんぱら暖冬がどうたらといっていたが、最近では一転して暖冬だのなんだのといわれている。時代が進んでも、天気を完璧に把握するのは難しいのかもしれない。そんなことを考えながら、撤兵はさてどこに行こうかと辺りを見渡した。右手には村の出口、正面を含んで左手には村、背後には森。自分が外に叩きだされた経緯を考えるに、村の中を歩くのは怖い。かといって村を出てもあるのは細長い一本道で、行ったところで収穫はないだろう。少し考えて、撤兵は家の裏に回った。冬に入り少し灰色がかった植物の枝葉は、森に入ることを拒否するように生い茂っている。だが注意深く観察すると丁度トイレの裏の辺りに使われなくなった人跡があることに気づく。

「いっちょ探検するか」

 ひとりごち、好奇心に駆られた撤兵は木々を避けて人跡に足を踏み入れた。

 森の中は思っていたより暗く、一気に体感温度が下がる。メイドたちの勧めで登山用のジャケットを借りてきたから良かったが、オシャレ着のアウターでは耐えられなかっただろう。

 ――そういえば、熊とか出ないだろうか。

 考えなければ良かったのだろうが、考えついてしまったのものは仕方がない。環境はなにも変わっていないはずなのに、撤兵は自分がなにかに見張られているような薄気味悪さを覚えた。薄暗い人跡を速足で進んでいくと、段々進行方向から明かりが差してきた。ようやく道が開けるらしい。撤兵は足を更に速め、とうとう走りだす。

 人跡の先で辿りついたのは川辺だった。バーベキューができるようなレジャー向けの場所ではなく、自然そのままの川辺だ。岩と呼べそうな苔むした黒い石が、川の水を押さえ込むように敷き詰められている。

「あっぶね――!?」

 森を抜けると共に川に差し掛かることに、直前で気づいた撤兵は踵を削り急ブレーキをかける。しかし湿った土の上ではうまくブレーキが利かず、あわや落水というところで横から腕を掴まれた。そのまま森の方に投げられなんとか事なきを得た撤兵は、恩人である誰かを見上げる。

「こんなところでなにしてる」

 助けてくれたのは高校生くらいの少年だった。ロピーセーターを着ていて、黒い髪が濡れている。少年の姿を見て撤兵はすぐに青くなった。

「ごめん! もしかして俺のせいで濡れた?」

 さっきは真冬の川に落ちる恐怖で本能のままに腕を振り回したので、少年の髪が濡れているのは自分のせいかと思った。しかし少年は「いんや、大丈夫だ」と首を振ると、眉をちょっとつり上げて怒った顔をする。

「この川は稲呑川の源流だ。用もねえのに近寄っちゃなんね」

「稲呑川……。あ、そうか。ここだったのか」

 いわれてみれば、眼前に広がる川の幅は狭く、岩にぶつかった水が足元まで飛んでくるほど水流が激しい。

「そうだ。昔っからここでは何人も死んできた。危ねんだ」

 少年は稲呑村の人間のようだ。あの村にもまだ若者がいるのかと思う反面、花送りや身隠しがまだ続いているのだから当然か、と一人で納得する。勝手に頷いていると少年が怪訝な顔をしたので慌てて誤魔化した。

「ごめん。昨日来たばっかだから、土地勘なくてさ」

「余所者か」

「ああうん。昨日の夕方前から、人について来た」

「ふぅん」

 興味があるんだかないんだか分からない相槌を打つと少年は黙った。去っていく様子もないので、もしかしたら自分が危ない真似をしないよう心配してくれているのかもしれないが、なにか話しかけるにしても少年のまとう雰囲気は妙に冷めていてとっつきにくい。

「この川、身隠しに使われてるやつ?」

 色々話題を考えた末、撤兵は素直な疑問をぶつけることにした。

「身隠しを知ってんのか」意外そうに少年は返す。

「昨日聞いた。酷ぇよな、わざと川に溺れさせるなんて。サイテーだろ」

「……そう思うか」

「ウン」馬鹿正直に頷いてから、撤兵はこの少年も村人であることを思い出す。「あ、ごめん。この村には大事なならわしなんだっけ?」

「そうらしい。でも俺も嫌いだ」

 少年はわずかに微笑んだ。ほっとして撤兵も「そっか」と呟く。

「まあ嫌に決まってるよな。君は村の人だよな。君もやったの?」

「ああ。俺は運よく助かったが、友達は全員流されちまった」

「…………」撤兵の背中に水流より激しい汗が伝う。

「冗談だ」

「なんだよ! ビビった!」

 ヤラカシたかと思ったわ! 胸を何度もなでおろす撤兵に、少年はさっきとは違うからかうような笑みを浮かべた。

「今はわざわざ荒れる時期にやんねえ。やるときも救助隊を呼んでるから、滅多なことは起きねえ」

「そっか。そうだよな。じゃあ今は本当に行事って感じなんだ」

「そうだな」

 ひとしきり安心すると、撤兵は大きく息を吐く。

「君みたいなのがいてよかったわ。なんかこの村怖くてさ。見てた? 俺、昨日燃やされそうになったんだよ」

「見てなかったがそりゃ怖いな。村の連中は皆ろくでもないから、あんまり気を許すなよ」

「分かった。スマホ持ってる?」

 そういうと撤兵は少年に向かってスマホを差し出す。

「せっかくだし連絡先交換しようぜ」

 なにがいい? 最近だとあんまりチャットアプリ系では交換しないよな。でも他のアプリのダイレクトメッセージって通知が来ないこともあるし――

「希望ある――って、あれ?」

 スマホから顔を上げると少年はいなくなっていた。人跡を振り返ったり、「おーい」と呼び掛けたりしてみるが、少年の姿は完全に消えていた。仕方がないので、撤兵もスマホをしまって帰路に就く。平屋の庭では昼飯ができたらしく安納が自分を探していた。

「自分どこ行ってたん?」

 と聞いてくる安納に、撤兵は頭をカシカシ掻き、

「男子に会ったんだけど、連絡先聞いたら逃げられた」

「なんやそれ」

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