休題 ヒット・イット・アゲイン

「クッキー? なんで?」

 どこまでも察しの悪いダメ学生だ。マスタードは小さくため息をつくと、撤兵の鼻っつらをビシビシ突いた。

「君がだぁさまのクッキーをぜーんぶたいらげたから」

「えー。そこまでする必要ある?」

「お庭に首だけ埋められて、遺想物の餌食になりたいのなら作らなくていいよ」

「作ります、作らせていただきますっ」

 そんな不道徳なことさすがにしないだろ、といいきれないのが我が雇用主の恐ろしいところだ。撤兵はうなだれつつもフリースの袖をまくる。クッキー作りなんてしたことはないが、やるしかないのであればやるしかない。心情としてはやるしかなくてもやりたくないが、庭に埋められるのは嫌だ。

「なにすりゃいいの?」

 傀儡政権ならぬ傀儡クッキングをする気満々の撤兵は、まくった腕を腰に当てるとそう尋ねた。マスタードはその質問にはあえて答えず、作業台下の棚を引き出してボウルを取り出すと、「薄力粉、入れて。ストップっていうまで」と短く命じた。

「薄力粉……」台の上に目を通すと『薄力粉麦粉』と書いてあるものが見つける。「あ、これか? 小麦粉って薄力粉?」

「そーそー。早く入れて」

「へーい」

 口に結ばれた輪ゴムを解き、撤兵は小麦粉をボウルにさらさら流し込んでいく。容器の半分ほど入ったところでストップがかかり、続いてバターの投入を命じられる。

「はかりとか使わないんだ?」

「面倒くさいからね」

「なるほど」一理ある。

 撤兵も一人暮らしをしているときはよく、鍋に作った袋麺をそのまますすっていたものだ。この屋敷で寝泊まりするようになってからは、バランスの良い食事が出るためそのようなことはないが、思い出すとあれはあれでおいしかったと思う。この家に夜食の買い置きはないと分かったし、次に腹が減ったときのために今度スーパーで買っておこうと決めた。

 ボウルに卵黄と砂糖を加えて中身を混ぜると、粉っぽい生地が段々一つになってくる。ほんのり甘い香りを漂わせるバター色の生地が食欲を刺激する。

「このまま食べたら腹壊すかな」真顔で尋ねれば、マスタードも真顔で返す。「クッキードウっていうし、少しならいいんじゃない」

 クッキー生地を見つめて数拍葛藤したのち、撤兵は「やめとく」と欲求ごと生地をこねまわす。なにがダメかは分からないが、なにかがダメな気がした。

「そう。じゃあこの上に生地を伸ばしてちょうだい」

 マスタードが差し出すのはオーブンの天板にクッキングシートを敷いたものだ。作業台に置かれた天板とシートの上に丸めた生地を乗せ、横から渡された伸ばし棒を使って広げていく撤兵。始めは面倒くささが勝っていたが、段々楽しくなってきた。天板より一回り小さい四角形に成型し終えると今度はブリキの箱が渡される。中には型抜き用の型が入っていた。魚やらクビナガリュウやら沢山入っている。

「恐竜にするわ。マスタードは?」

「あたしはいい。独り占めなさいな」

「そう? じゃ、お言葉に甘えて」

 裏表を確認してから撤兵は生地の上にクビナガリュウを置いた。手のひら全体で均等に力が入るように押し込むと、生地にくっきりとクビナガリュウの姿が現れる。ぽこん、ぽこん、と十回ほど繰り返し恐竜を量産してゆく。早々に恐竜たちは飽和状態になり、生地にはそれ以上増やす場所がなくなった。それを見計らったようにオーブンが予熱の終了を告げる。

「恐竜の周りの生地を剥いておくれ」

 指示を受けるのも慣れてきた。撤兵は的屋の型抜きよろしく恐竜のシルエットを崩さぬように周りの生地を剥く。それが終わるとマスタードが恐竜の位置を調整し、空いた場所に残った生地を適当な円形に潰して乗せ直す。撤兵が手を洗っている間に彼女はクッキーの載った天板をオーブンに入れた。

「あとは四十分待つだけ」

「楽しいな、結構。でも疲れる」

「一歩大人に近づいたね」

 マスタードはバターの油がついた手をさっと洗って「あたしはダイニングで待つわ」とキッチンから出ていく。撤兵は部屋に戻ろうか迷ったが、階段を上がるのは面倒くさいので彼女の後を追ってダイニングに向かった。

「くぁ……」

 いつも食事を取っている席で、二人は同時にあくびした。移るほど仲良くはないが、同時にするくらいには打ち解けているようだ。

 二人は特に話をすることはなかった。マスタードが多弁でないのもあったし、深夜の凪いだ空気が沈黙を心地よく感じさせたからというのもある。マスタードは机に両肘をついて、その上に顎を乗せていた。目を閉じているので妙に不安を掻き立てるあの瞳が隠され、愛らしい少女の様相を醸し出している。今更ながら撤兵は、自分が女性と恋愛抜きで関われていることに安堵を覚えた。このマスタードもあのBBQも、自分を小馬鹿にしてくることこそあれど、媚びた声で気持ちを引き寄せようとはしてこない。幽霊屋敷のようなこの家にも愛着がわいてきたのは、ここにいれば日々彼を悩ます女難から多少は逃れられるからかもしれない。まあその代わり雇用主から執拗な罵詈雑言と理不尽を与えられているが、いつか頭をかち割ってやると思えば恨む気持ちは収まる。

 ――ピピー。

 瞬き一つ分の時間だった――はずだ。不意に廊下を突き抜けて聞こえるオーブンのタイマー。ずっと起きていたと思ったが、オーブンは四十分稼働するはずなので、いつの間にか居眠りをしていたらしい。あれは瞬きではなく目を閉じただけか……。撤兵は寝ぼけた頭で考え、マスタードが座っている方向を見遣る。彼女も同じように居眠りをしていたのか、まぶたをくしくしこすると「焼けたね」と呟いた。重い体を動かして二人でキッチンに移動するとそれは甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 オーブンから天板を取り出すと、バター色の恐竜はすっかりホカホカのキャメル色に変身していた。おお、と軽く感動を覚える撤兵の横でマスタードは恐竜を一匹つまんで食べてしまう。

「アッ。盗み食いだ!」

「あふぃみよ、味見」軽薄に非難すればマスタードは知らん顔でのたまう。

「温かいクッキーっておいしいの?」

「ウン。あたしはこっちのが好きよ」

 ほら、と天板を差し出された撤兵は、熱々の生地に苦戦しながらなんとか一匹掴むと、彼女がしたみたいに口の中に放り込む。

「あっツ、あっつ! はふっ、はふっ」

「猫舌ね」鈴を転がすようにマスタードは声だけでコロコロ笑う。

「ふぃひゃ、ふぉーいうもんらいか……?」俺が猫舌なのではなく、そっちが馬鹿舌なんじゃないか? いいたくなったが口に出すと怒られそうなので心の中にとどめる。

 はふはふ熱を逃がしてようやく味が分かるほどになると、撤兵は口の中に注意を向けてクッキーを咀嚼した。温かいクッキーは霜を踏むようにサクサク砕け、あっという間にほろほろ溶けた。なるほど、これはたしかに普通のものよりおいしい。もう一つと手を伸ばすとマスタードもつられて手を伸ばす。

「イケるね」ともう一枚。

「でしょう」ともう一枚。

「これならナゲットさんに怒られずに済みそうだわ」と一枚。

「あの人は遺想物から生まれたクッキーに興味があるんであって、味にはあんまりこだわらないの」と一枚。

「なんだか贅沢だなあ――アッ」

 クッキーはいつの間にか残り一枚になっていた。ちょっとつまんだだだけなのに、小人か悪魔か妖精か。素っ頓狂な責任転嫁をする撤兵とは反対にマスタードは「食べすぎちゃった」と口元を押さえた。

「ま、でも最初に入れたクッキーの百倍できるんだろ? なら一枚あればいいんだよな」

「そうね」

「なら問題ない、問題ない」

 一人頷き、残った一枚を缶に入れようとしたとき、一階全体に響くように電話のコール音が鳴った。こんな時間に電話とは、一体どこの迷惑電話だ。無視でいいだろうと再度缶に手をかける撤兵。しかしマスタードは違うようだ。

「出てくるわ」

「迷惑電話だろ。変態かも」

「迷惑だし変態だけど、だぁさまの知り合いなことが多いの」

「あちゃー」それなら出ざるを得まい。

「撤兵君はクッキーを入れておいて」

 そういい残してマスタードはキッチンから出ていった。撤兵は指示通り缶にクッキーを入れようと残りの一枚をつまもうとしたが、そこで膀胱が随分無理をしていることに気づく。さっき暖房のついていない部屋で居眠りをしたからだ。マスタードもいないことだし、撤兵は缶を置いてトイレに向かった。




 数分後、二人はダイニングの出口で偶然落ち合った。

「あら、どこ行ってたの?」

「トイレ。そっちは用事終わった?」

「ええ。あとでだぁさまに伝えるわ」

 残る仕事はクッキーを缶に入れて、洗い物をするのみだ。さすがの大学生も眠気が回って来た。撤兵は大きく伸びをしながらキッチンに戻り――

「げぇ!?」

 広がる光景にうめき声を上げた。背後からキッチンを覗き込んだマスタードも「あら」と声を漏らす。

 キッチンには寝ていたはずのBBQがいて、残り一枚のクッキーをかじっていたのだ。彼女は食べかけのクッキーを急いで飲み込むと、イタズラが見つかった子供のようにはにかむ。

「うまそうな匂いがしたもんで、つい」

「ついじゃねーっつのー」

 天井仰ぎ撤兵は喚く。

「それラストだったんだぞー。なんで食っちゃうかなあー」

「別にいいじゃない」そこまでいわれると思っていなかったBBQはむっとした口調でいい返す。「アンタたち二人で先に食ったんだろ? 一枚くらいでごちゃごちゃいうなんて、ケチだっちゃあない」

 それから彼女は作業台に置かれた空き缶に目を留めた。缶を手に取り蓋を開け、「あら」とマスタードそっくりに漏らす。

「アンタこれ空じゃないか」

「そうだよ。間違えて食っちゃったの」

「まずいねぇ。これはだぁさまの――」

 知ってるよ。だから補充用を作ってたんだっつの! 撤兵は失意のままに吠えようとしたが、それより先に向かい合った彼女の視線に違和感を覚えた。自分ではなく、その奥を見ているように思えた。怪訝そうな表情で視線を辿ると、

「僕がなんだって?」

 撤兵の立っている十数センチ後ろにナゲットが立っていた。声にならない悲鳴を上げ撤兵はその場に尻もちをついた。

「騒がしいから来てみたら、三人揃ってなにしてるんだい? それにBBQが持っているのは僕のクッキー缶……」

 そこでナゲットはセリフを止めた。撤兵は脳全体に警鐘が鳴り響く錯覚を覚えた。

「誰だい? 僕のクッキーを全部たいらげたお馬鹿さんは」

 どこか色のないナゲットの質問に、マスタードとBBQは素早く撤兵を指さす。

――裏切者ォ!

 終わった。庭に首から下を埋められた自分の姿を想像し、撤兵は全て夢であれと強くまぶたを閉じた。

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