閑話 ヒット・ザ・ポケット

「それ食べちゃったの?」

 空になったクッキー缶を指してマスタードがいった。

「え、ダメだった?」

 生気みなぎる大学生はまだまだ眠らぬ夜中の二時過ぎ、撤兵は夜食を探しにキッチンに下りていた。屋敷の建っている場所が山麓の村というだけあって、屋敷の中には霜が降りそうな冷気が充満している。カップ麺でもあればと思い、戸棚やらラックを漁ってみるがそれらしい物はない。玉ねぎ、パスタ、トマト缶――と調理すれば一品出来そうな食材はあるが、今求めているのはそういうのではない。もっとジャンキーでささっと食べられるものが欲しいのだ。かといって買いだめしてあるスナック菓子に手をつけるとナゲットがうるさい。なにかないかとしばらく探索していると、食器棚の隣に置かれたキッチンワゴンから円柱形の缶を発掘した。揺らすと何かが底をずる音がするが、パッケージは見えない。やはり夜目では限界があるな、そう判断した撤兵はスマホを取り出すとライトをつけた。メリーゴーランドをモチーフにしたその缶には、側面に間抜けな面の馬が描かれており、蓋を開けてみると中にはクッキーが十枚ほど入っていた。

「これでいっか」

 撤兵はキッチンに背中を預けると、中に入ったクッキーをむしゃむしゃ食べだした。それはプレーンとココア味の生地でチェック模様を作ったよくある物で、まあ味もフツーのクッキーとなんら変わらなかった。とはいえクッキーを食べて「なんておいしいんだ!」などと思ったことはない上に、そんな期待をしたこともない撤兵がいうのだからあまり当てにはならない。

 一枚、二枚と順調に胃に収めてゆき、最後の一枚に歯を立てる。そして前歯で以てクッキーをかみ砕いたと同時に、キッチンの明かりがついた。

「ヤダ、撤兵君たらなにしてるの」

 驚いて固まる撤兵に声をかけるのはマスタードだ。彼女はもこもこしたワンピース型のパジャマにブランケットを引っかけて、キッチンの入り口に立っていた。いつものラジオ巻きを解いてロングヘアを腰まで流しているので、昼間のマスタードとは別人のような印象を受ける。彼女は眠たそうにまぶたをパチパチさせると、「泥棒かと思ったよ」とあくび混じりにいう。よく見ればブランケットに隠れた左腕には鎖分銅が握られており、下手すれば下手した可能性が出てくる。

「ご、ゴメン」大丈夫だろうか。夜食ドロボーに鉄槌は下されないだろうか。「ちょっとお腹すいちゃって」

「ふぅん。それでクッキーを……えっ」

 寝ぼけた様子で首を回していたマスタードの動きが止まる。ここで冒頭に戻るわけだ。

「それ食べちゃったの?」

 空になったクッキー缶を指してマスタードがいった。

「え、ダメだった?」

 もしかして来客用かなにかだったのだろうか。いやしかし、食べかけを来客に出すことはないだろう。意図が分からず不安げな顔をする撤兵に、マスタードは洒落にならない事実を告げる。

「それはだぁさまあが取っておいてるやつだよ」

「嘘ッ!?」

 一秒前までただのクッキー容器だったものが、途端に悪魔の呪物に思えた。思わず手からこぼした缶が床に落ち、カァーンとけたたましい物音を立てる。

「大きな音立てるのはおよしよ」マスタードの忠告も時すでに遅しだ。「あの人が眠らないのは知ってるだろ」

「事故だよ、事故」

 天井越しに二階の様子を窺いながら撤兵は缶を拾う。凹みなどはなかったが、中が空っぽなので元の位置に戻してもバレてしまうだろう。

「はあぁ……。どうしよ」

「謝ればいいじゃない」

「謝って済むと思うかあ?」

「あたしとBBQなら済むと思うけれど、撤兵君じゃそうはいかないでしょうね」

「だよなあ。あの人って俺にやたらと当たりが強いもんな」撤兵は今までの自分のミスとそれに対する仕打ちを並べ立てる。「この前あの人のスナック菓子を勝手に食べたときなんて、俺大雨の中買いに行かされたんだぞ。真冬の大雨なのに。しかも帰ってきたら今度はコレクションルームの掃除とかいって、なにかも分からない遺想物が並べられてる部屋に閉じ込められたし。別のときは絶対に酷い悪夢を見る思われ物を枕の下に仕込まれたりしたし。他にもあと四つくらいあるけど、聞く?」

「そもそも撤兵君に学習能力が足りないんじゃないかしらん」

 至極まっとうなマスタードの意見。そういわれては黙るしかないが、そもそも自分のおやつを取られたからって報復を考えるような狭量さも問題ではないか。第一からして、あの人は一体何歳なのだ。分からないが自分より年上なことは明らかだ。年下のお茶目に一々目くじらを立てるなんて大人げない。それにきっと自分がマスタードやBBQのように女の子だったらわざわざあんなことしないはずだ。まったくもって不公平、自分は虐げられている。動かしようのない現実を前に、撤兵は二階にいるであろうナゲットの誹謗を始めた。

「やっぱり俺がイケメンだから嫉妬してんのかな」

「なんの話だい?」

「ナゲットさんは俺に嫉妬してるから当たりがきついのかなって」

「くだらないこと考えていてもクッキーは戻りませんことよ」

 仕方ない人ね、とため息をつきマスタードは撤兵を押しのけて冷蔵庫を開ける。

「それは遺想物なの」

「俺が今さっき食べたクッキーが!?」

「違う。缶の方」

 説明の傍ら、マスタードは小麦粉やら卵を取り出して作業台に置いていく。

「ヒット・ザ・ポケットっていうのよ、それ」

 ヒット・ザ・ポケット。英語か……撤兵は頭の中に余白多めの英和辞典を開く。ヒットは当てる、叩く。ザはtheで、ポケットはそのままポケット……ポケットを叩く、か。クッキー缶にポケットを叩く――撤兵の頭にある歌が浮かんだ。

「まさかその缶にクッキーを入れて叩くと増えるとか?」

「半分正解」

「マジかよ」

 ポケットを叩くとビスケットが二つ、とはいうが、まさかクッキー缶を叩くとクッキーが増えるとは。

「クッキー依存症の男が持ってたらしいよ」ぺたんこになったバターのチューブをパタパタ振るマスタード。「糖尿病になって四肢を切断する羽目になってもやめられなかった男の遺想がこもってる」

「げえ。それって食って大丈夫なやつ?」

 腹のあたりを押さえる撤兵にマスタードは「多分」と不安な返事を寄こす。

「だぁさまは毎日食べてるし――ていってもあの人はそんじょそこらの遺想でどうにかなる人じゃないけど――、それの効果は中に入れたクッキーの増殖だから」

「増殖? それって無限にクッキーが増えるってことか?」

 缶から溢れてくる無数のクッキーを想像して撤兵は一瞬ワクワクしたが、それよりも現実としてありえるのかが気になった。それに撤兵が蓋を開けたときには十数枚しかクッキーは入っていなかった。ナゲットが一度に百枚も二百枚も食べるわけじゃないだろうし、それでは無限に出てくるという発想が間違っているのだろうか。撤兵の考察通りマスタードは首を横に振って否定する。

「まさか。空の缶にはじめに入れたクッキーの体積×一〇〇グラムとか、そこらだよ。一度缶を振るごとに一枚ずつ増えていくけど、中に二枚のクッキーが入っているからって振ったら四つになったりはしないわ」

「最初の段階で同時に二枚入れたら更に倍になったりは?」

「二兎を追う者は一兎をも得ず、だよ。同じこと考えた学会の人が実験したけど、クッキーは増えなかったわ」

「へえー。なんでだろ」

「思われ物だからね。考えるなら物理学より精神論」

 要は持ち主の背景や心情を考えろということか。そこまでするつもりはない撤兵は、姿も知らぬ糖尿病患者の心情よりも気になることを口にする。「さっきからなにしてんの?」

 作業台の上には、小麦粉、バター、卵、砂糖が用意されていた。それらを置いた本人は今オーブンの前で余熱の準備をしており、なにかを作ろうとしていることは予想できるのだが、夜食ができそうな気配はない。小首を傾げる撤兵にマスタードは「察しの悪いやつだな」といわんばかりに口をへのじに曲げる。

「察しの悪い人ね」口にも出した。「クッキーを作るの」

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