9 疎漏
マスタードに連れられ撤兵が向かった先は、二階ではなく一階の奥だった。「二階じゃなにか起きたとき色々と不便だからね」といわれたが、何か起きる前提なのか。
そこは十畳ほどの広さしかなく、木箱やら棚やらが置かれているおかげで狭さに拍車がかかっていた。部屋には既に撤兵とマスタードを除く三人が揃っており、特に都と兜は落ち着かない様子で目を泳がせていた。
「結論からいうけれど、」
マスタードは早々に切り出すと、都を正面から捉えた。いよいよ審判の時だ。都がごくりと唾を飲み込むのが傍目にも分かる。
「残念だけど、牛酪ちゃんのその体質はコインを手放しても解決しないわ」
「……えっ」
突きつけられた残酷な答えに、都の顔から血の気が引く。海老原は分かっていたような様子だった。
「だっからいっただろ! ミャコ。真実を知ったからってろくなことはないって。ほら諦めろミャコ、お前のことは俺がどうにかしてやるから」横にいた兜ががばっと彼女の肩に手をまわし、立て板に水のごとくまくしたて出す。「大丈夫だよ。今までだって上手くいってたろ? 大丈夫、大丈夫だよ。なんなら人里離れた陸の孤島で二人暮らしってのも悪くない。そしたらお前が事件に遭遇する危険もないし。あ、そうするか? 流行ってるしな。都会から郊外に出てまったり暮らすの。ネットが届けば職なんかどうでもなるぞ。土地でも転がしてみるか? 投資とかちょっと興味あったんだよ。なあミャコ――」
焦りの浮かんだ彼の表情に、ようやく撤兵は兜の矛盾した言動の理由が分かった。恐らく彼はコインを手放しても解決しないことを知っていたのだ。半年前から遺想物について知っていたならば、都よりも深く遺想物について調べられる暇があったはずだ。そして何かしらの情報を手にし、都の体質は変えられないことを知っていた。もしくは予想していた。ようやく差した一縷の希望を希望のまま終わらせるために、都がコインを手放そうとするのを止めていたのだ。
しかし痛々しい慰めの言葉は都には届かず、彼女は兜の手を振り払うとマスタードに掴みかかった。
「なんで、なんで!?」
必死の形相で縋りついてくる都に、マスタードは静かな声で説明する。
「遺想てぇのは人と親和性が高くて、遺想物を長く持っていると魂に沈着しちゃうの。都ちゃん、あんたどのくらいあのコインを持ってた?」
「だ、大体十六年……とか」
「長すぎたね」マスタードはふるふる首を振った。「コインに馴染んだ遺想は、もうあんたの魂に沈着してる」
淡々とした彼女のセリフには事実のみが挙げられている。都は現実逃避することも叶わなかった。
「……じ、ゃ、じゃあ、私は……もう一生、このまま……?」
数歩たたらを踏み、都は顔を押さえる。するとそれまで黙っていた海老原が苦々し気に口を開いた。
「……だったらまだいんだがな」
「どういうこと?」
この泥のように重い空気の中で、まだなにかあるのだろうか。
「コインを手放すのが無意味なわけじゃあねえ。そもそも、その遺想物に込められた遺想は牛酪さんや、事件に巻き込まれた被害者の負の感情を食ってどんどん強くなる。だから重複するが遺想物を手放せば、あんたを苦しめる遺想は拠り所を失って、少なくともあんたの元から霧散するはずなんだ。だが魂に沈着したとなると話が変わってくる。遺想の一部が拠り所をコインから魂に移したわけだから、魂を拠り所にしてまた負の感情を食うようになる。遺想のすべてではない分、進行は緩やかだがな。そうして強くなった遺想は、更に効果を強める。まとめるとつまり……牛酪さん。あんたはこれからもっと惨い事件に遭うかもしれない。あんたを取り巻く謎はもっと難しくなって、もしかしたら奈多さんがあんたを助けられるのは、逮捕されてからになるかもしれない」
「嘘、うそ……」
傍で聞いている撤兵でさえ耳を塞ぎたくなった。どん詰まりではないか。撤兵ははじめ都の話を真面目に聞かなかったことを申し訳なく思った。自分に置き換えれば、ペンダントから現れた藍子と一生付き合っていけといわれるようなものだ。幻のような一夜だったが、あのときの恐怖は未だに覚えている。むしろ幻のようだったと思えるのは、直接被害に遭ったのがあの一晩だけだったからだ。一方、都は遺想物なんて訳の分からない物のせいで一生事件に巻き込まれる上に、いずれ破滅するかもしれないのだ。うら若き女子大生――いや、年齢は関係ない。一人の人間の人生がハッピーエンドで終わりえない事実を目の当たりにし、撤兵は酷く苦しくなった。それが当人であれば倍やそこらの話ではない。都は泣き声を上げることもできず、床にへやりこんでしまった。
「クソ……ッ」
憎々し気に吐き捨て、兜はポケットに手を伸ばす。そしてガムケースを取り出すが、切らしていることを思い出すと「あークソ! なんで切れてんだよ」と悪態をついてケースを床に叩きつけた。その様子を見ていた撤兵は自分が乗田から託されたガムケースの存在を思い出す。
「あ、そういえばこれ……」
ガムケースを兜に渡そうとした寸前で、撤兵は乗田のセリフが蘇る。たしか彼は都に渡してくれといっていた。なぜかは知らないが、とにかく都に渡すよう強調されたので、撤兵は肩を外側に九十度回転、そのあと下げて都に渡し直す。
「いや、なんでだよ」
当然のごとく兜のツッコミが入る。ケースを差し出された都も、一旦悲しみを忘れてきょとんとしている。
「ちょいと撤兵君。ギャグのつもりならセンスが悪くてよ」
「そういうつもりじゃないんだけど……。乗田さんに、都ちゃんに渡せっていわれたんだよ」
「ええ……?」名指しを受けた都は困り顔で首を傾げる。「ガムでしょ? これ。兜兄がいないときに代わりに受け取ったことはあるけど、なんであたし……?」
「さあ……」
バックヤードに変な空気が流れる。撤兵は頼まれごとを遂行しただけなのに、なんだから自分が滑ったような居心地の悪さを感じた。とにかくケースを受け取ってほしくなり、やっぱり兜にガムケースを渡そうとしたところで、マスタードが妙な提案をしてくる。
「せっかくだし一枚いただいたら?」
このタイミングでなにをいっているんだろうか。ギャグのつもりならセンスが悪い。
「ねえ兜さん。ダメかしらん?」
意図を汲み取りかねる一同を置いてけぼりにしてマスタードは兜に確認を取る。
「あ? 別に構わねぇけど……」
兜は戸惑いつつも応えた。次いでマスタードが早く食えといわんばかりの顔でこちらを見てくる。撤兵はなにがなんだか分からなかったが、とりあえずケースを開けて一枚取り出すことにした。一番手前にあったものを剥き、口に放り込む。
次の瞬間、撤兵は崩れ落ちた。吊り糸の切れたマリオネットのように倒れこみ、派手な物音が部屋に響く。
「おい、坊主、坊主? どうした」
海老原が撤兵を揺り起こすが返事はない。絶望と驚愕が入り混じった雰囲気が霧のように降りてくる。兜が撤兵の腕を取り、手首に揃えた指を添える。次いで顔に耳を寄せ、なにかを察した様子で首を振った。
「……死んでる」
騒然とする室内。撤兵が死んだ。あまりに唐突な事実は、誰にも受け入れがたいものだった。同時に今、四人の頭にはある仮説が浮かんでいた。撤兵が噛んだガムは誰のものだったか。都ではない。撤兵が噛んでいなければ、今頃このガムを噛んでいたのは――
「狙われたのは……俺か?」
憮然として兜が呟く。誰も否定することはできない。
「あ、あ、あ……私。私のせいだ」よろよろと都が立ち上がる。「私のせいで、とっとと、とうとう、兜兄まで…………っ」
「ちが、ミャコ。違う、なにかの間違いだ。これは、」
「いやああぁあぁあッ!」
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