7 和解ならず 

 忍び足で階段を上がる撤兵を待ち受けていたのは、修羅場ではなくガラス付きの戸だった。戸は木目が分からないほど濃い茶色で、上半分がゴツゴツしたガラスになっている。撤兵はゆっくり姿勢を直し、ガラスから部屋を覗こうとしたが、表面の凹凸がモザイクのようになっていて中は見えなかった。撤兵はちょっと考え、扉に耳をつけた。

「……ぃに、と…………って、よ。あ……」

 微かに聞こえるのは都の声だろう。くぐもり方から予想するに、二人は戸から離れた位置で話しているのではないか。撤兵は取っ手に手をかけると、細心の注意を払いながら引いた。一ミリずつ開けるような気持ちで少しずつ引き、五ミリほど開けたところで隙間に頬を当てる。

 ――なるほど、海老原がいっていた実質ワンフロアというのはこういうことか。部屋は縦に長い長方形で、それを二分するような位置に扉一枚分の隙間を残して壁がある。手前左側の空間にはキッチンというより台所といった風体のレトロな調理スペースが確認できた。奥の部屋には棚や時計が置かれているのが分かった。恐らくリビングのような役割を果たしているのだろう。ソファの背もたれからはちらちら髪束の先が見え隠れしているので、そこに二人がいるのだろうと見当がついた。ソファから身を乗り出してこちらを振り返らない限り、居場所がバレることはなさそうだ。撤兵はそうタカをくくると、隙間を大胆に十センチほど広げて盗聴を開始した。

「だっ、だからぁ……。兜兄に黙って来たのは悪いと思ってるよ。でも私、この体質をなんとかしたいんだ。いや、体質って思ってたから我慢するしかなかったけど、これがあのコインのせいで起きてることなんだとしたら、なんとかなるかもしれないじゃん。お金のことだって、霊能者には取られたけど、こっちはむしろ買い取ってくれるっていうんだよ?」

 都の声は所々上ずっていた。兜は相当イライラしている様子だったし、気圧されているのだろう。

「あのオッサンから聞いてないのか? 遺想物を手放したからってお前がその――ややこしいからひとまず体質ってことにしておくけど――体質から逃れられるとは限らないんだよ」

「で、でも、メイドの子が、手放して解放されたって人もいっぱいいるっていってたよ」

「そんな賭けする必要ないだろ。俺が守ってやるって何度いわせるんだ」

 二人の会話を盗み聞きしながら、撤兵はふと疑問に思った。なぜ兜はコインを手放すことに反対するのだろうか。遺想物を手放したとて問題が解決しない可能性があるからといって、コインを手放さないというのは思考放棄というか、問題から逃げているだけではないか。それを都がいっているなら自暴自棄と考えられなくもないが、兜がいうのであればそれは自暴自棄というよりも、わざと問題解決を妨害しているように見える。まさか――モラハラ気質?

「兜兄は私が事件に巻き込まれなくなったら嬉しくないの? もう一々私に付き合わなくていいんだよ。バイト帰りに事件に巻き込まれた私のために、深夜に駆けつけてくれていいんだよ。私に罪を着せようと吊り橋から飛び降りた犯人を追いかけて自分も飛び降りなくていいんだよ。私を殺して犯人に仕立て上げようとした真犯人が運転する車に、私の代わりに轢かれなくていいんだよ」

 ますます分からない。一体なぜ兜はコインを手放すのに反対するのだろうか。というより良く今まで生きていられたな、この人。撤兵は壁の向こうにいる兜に恐れに近い尊敬を抱いた。

「ねえ兜兄。もう探偵なんてやってくれなくて良くなるんだよ。私のためにいっぱい勉強してくれたから、兜兄はすごく頭がいいし、色んな資格も持ってるでしょ。探偵って儲からないんでしょ。いいお給料のところに転職できるんだよ」

「調子に乗るなよ」おどけた口調で兜は反論した。「俺は好きで探偵やってんの。俺のやりたいこととお前の必要なことがたまたま一致してるだけだ。それにお前がいてくれりゃ一生事件にも困らないし、互いにウィンウィンだろ」

 傍から聞いてれば、兜のセリフは都に非を感じさせないためのジョークだと分かった。しかし当の本人はそうはいかない。都は黙り込んでしまった。しばらく沈黙が続くと、再び苛立った声色で兜がいう。

「もうさぁ……どうしたいんだよお前! 直る確証があるわけじゃないんだぞ? そんなことに時間を費やしてると、普通に暮らしてれば遭わなかった事件にまで巻き込まれるぞ」

「それでも、なにがどうなってるのか知りたいんだもん」

 聞き取れるか聞き取れないかの小さな声で都は返すが、兜は依然として高圧的な態度を取る。

「真実を知ったからって幸せになれるとは限らねえだろ」

 どこか見下したように聞こえるのは撤兵の邪推だろうか。話は平行線を辿り、二人が分かり合うタイミングは来そうにない。

「…………ぱり」

「ああ? なに?」

「やっぱり兜兄は、私のことを都合良く事件を持って来てくれるカモとしか思ってないんだ!」

 いや、どうやら交わうタイミングが来たらしい。都の吐いたセリフは、確かに兜の逆鱗に触れた。不自然な沈黙が一瞬降りた直後、兜の爆発するような怒鳴り声が戸の隙間から飛んでくる。

「はあ!? お前今なんつったッ」

 目玉を突き刺されたかと錯覚するほどの怒声に撤兵は反射的に立ち上がった。それは自分ではなく、都の身に降りかかる危機を察したからだ。扉を勢いよく開け二人の元に駆けつけると、案の定兜はテーブルから体を乗り出して都の胸倉を掴んでいた。

「まあまあまあまあ! 暴力はダメっすよ、暴力は」

 努めて明るい声で兜と都の間に入る撤兵。流石に仲裁を振り払って怒る素振りはなく、兜は斜め下を向いて舌打ちした。

「聞いてたのか」

「たまたまですよ。盗聴とかしてません。怒鳴り声が聞こえたからたまたま」

「……チッ。外出てくる」

 わざとらしい撤兵の弁解には触れず、兜は外に出ていってしまう。部屋には気まずい雰囲気が充満していた。

「子安君、だっけ」

 撤兵がどう声をかけて良いか迷っていると都が切り出す。「あ、ウン」

「兜兄のこと追いかけてくれる? ここで私といたら、子安君も死んじゃうかもしんないし。ほら、そこの棚にある重い物が落ちたりしてさ」

 そう自虐気味に笑われては、こちらが笑うことはできない。それに彼女は焦燥していた。彼女の発言を鵜呑みにして追いかけるべきか迷っていると、「行って」ともう一度命じられてしまう。撤兵は都と会談に繋がる戸を交互に見比べたのち、

「なんかあったら下にメイド服のあの子がいるはずだから」

 と告げて踵を返した。外に出るとはいっていたが、一体どこに行ったのだろうか。かける言葉を探しながら、撤兵は急ぎ気味に階段を下りた。

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