3 犯人来る
マスタードの後に続いて店に入るとすぐに、木を燻したような焦げた匂いと、古物特有の甘い匂いが混ざった不思議な香りが鼻をくすぐった。板張りの床の上にはジュエリーショップにあるようなショーケースが等間隔に置かれていて、中には宝石の代わりに古めかしいコインが並べられている。ぱっと見ただけでも、土産物屋で売っているような記念品やさび付いた昔の小銭など、様々な種類が置かれているのが分かった。壁際にはスーパーボールくじのコイン版みたいなウォールポケットがかけられていて、なるほど本当にコインだけを扱っているらしい。この全てが思われ物だと思うと、ガラスケースにすら触る気になれない。
店員は一人もいなかったが、店主らしき男性がいた。彼は左奥にあるカウンターで新聞を広げており、こちらに気がつくと新聞の陰からにゅっとタバコを持った手を出し灰皿に押しつけた。次いで陰から顔も出し、
「いらっしゃい……ってなんだ
カニ? 男前は自分だとして、どこにカニがいるんだ。撤兵は辺りを確認するが、傍にはカニとは似ても似つかぬからし色の頭をした女の子しかいない。「えっ。お前カニなの?」「カニだよ」指をチョキチョキさせるマスタード。「冗談はさておき」
「久しぶり、ヤノさん。だぁさまのおつかいに来たんだよ。こっちの子はだぁさまが連れてけっていうから連れてきた雑用係」
「雑用って……。否定はしないけどさあ」
もうちょっといい方なかったのか。唇を尖らせる撤兵にヤノはかすれた笑いを漏らす。
「くくっ。なるほどなあ。坊主、お前さんどうせナゲットにこき使われてるんだろ。あいつは昔っから人のこと振り回してたからな。俺も苦労させられたよ」
ヤノは新聞を畳むと、カウンターから出てきて撤兵に握手を求めた。「俺は
弥之助は麦藁色の猫毛をした、ナゲットとは違って良くいえばアンニュイな、悪くいえばくたびれた雰囲気の男だった。喉に霧がかかたようなスモーキーな声も、ナゲットのシルキーなものとは反対だ。二人は昔なじみだといったが、類は友を呼ぶのではなく、凹凸を活かして上手くやっていたタイプなのだろうと予想できる。この分なら弥之助がむやみやたらに自分をこき下ろすこともなさそうだ。撤兵は安堵しつつ差し出された右手を握った。
「子安撤兵っす。よろしくお願いします。やっぱりナゲットさんの横暴っぷりは昔からなんすね」
「ああ。お前も頑張れよ」
「なんとかなりませんか」
「そりゃ無理な相談だ。馬の耳に念仏聞かせた方がまだ意味がある」
ケラケラ笑ってから、海老原は改めて二人に要件を確認した。「で、要件はおつかいだったか? あれなら今は裏に置いてある。取りに行くから、どっちか一人着いて来な」
「ならあたしが」相談するより早く、マスタードが手を挙げた。
「そうか。なら坊主、店番しててくれ。お前らの他にも一人客が来るはずなんだ。少しもしねえ間に戻るから、もし来たらここで待つよういっといてくれ。あ、椅子使っていいぞ」
「了解っす」
二人は入り口側の扉から億に消えていく。残された撤兵は、遠慮なく先刻海老原が座っていた椅子に腰掛けると、ダウンジャケットのポケットからスマホを取り出した。
「うわ、人が刺された……? 結構近くじゃん、怖」
市内で男子高生が刺されたらしい。瀞市も治安が悪くなったものだ、くわばらくわばら。SNSを徘徊していると、突然大砲のような声が耳をつんざく。
「おんやあぁー!? そこにいるのはこの前の坊ちゃん!」
この一度聞けば忘れられないやかましさ。まさかと入り口に目を遣ると、
「やあやあやあやあ! その節はどうもぉおーっ」
白石におぶられた安納が満面の笑みで店の敷居をまたいでいた。
「うわ出たっ。自称天才お笑い伝道師!」
「天才霊能者やボケッ」
「アイタァッ」引っ叩かれた白石が悲鳴を上げる。
二人のあまりの大声に、店の奥から海老原とマスタードが戻って来た。海老原は客の姿を認めるや否や、やはりといっていいか口をへの字に曲げる。
「なんであんたらがここに? 客ってあんたら?」
「客ぅ? なんの話か知らんけど俺らは――」
いってから安納は海老原に視線を留めた。
「丁度近くを通るんで、こちらの海老原先生にご挨拶しようと思った次第やがな!」
「先生はやめてくれ。背中がかゆくなる」
海老原が鬱陶しそうに頭を掻く。
「いやいやいやいや。海老原はんにはよぉおお世話になっとりますから。今度どうです? うちで一緒にたこ焼きパーティーでも! うちのはたこ焼き機はもう、焼くための穴も百二十個開いてる、皇族御用達のオーダーメイド品でして。見はったらびっくりしまっせ。タコの絵も足が十六本ありましてん」それはもはやタコなのだろうか。
「遠慮させてくれ。それよりも、近くを通る用事ってなんだ? またこの前と同じ、思われ物絡みか」
「ええ? ややわあ海老原はん」いいながら左手で扇のように空を仰ぎ、「俺ら立派な霊能者でっせ。現場に行ってみたら遺想物だったことこそあれど、最初から遺想物の依頼を受けるなんてそんなそんな。それに依頼を受けるにあたって守秘義務っちゅうもんがぁ」
「はあ……。お前らにとって都合が悪きゃ全部遺想物だろうが。それにコインだったらまた俺が駆り出されんだろ。縁切られたくねえなら教えろ」
「コインですね」
守秘義務はどこに。やはりこの男、自称天才通称凡才未満なのではないだろうか。ハキハキした口調で安納は続ける。
「ていうか、硬貨ですわ。十円玉。なんやこの賀郁町の外れに、廃墟があるんですって? 元々ホテルだった。そこでは前に、いじめが原因の殺人事件があったとかで、チャラついた学生の肝試し会場になってるそうなんですわ。ほんで、そこに肝試しに行った学生から連絡もらいましてな。なんでも一緒に行った仲間の一人が、帰ってきてから様子がおかしい。すっかり人が変わって、そのうち通り魔殺人でもしそうやと。どうやら廃墟で十円玉を拾ったようで、きっとその呪いだから祓ってやってほしいって、そういうんですわ」
胡散臭い話だなあ。あ、そういえば中学の頃に、そういう話をネットの掲示板で集めるのが趣味な同級生がいた。いつもはグロ画像好きの陰気な男子だったが、臨場感たっぷりの語り口調がクラスで人気を博していた。高専に進んだそうだが、元気だろうか。
「十円玉か。そりゃまた、遺想のこもってそうなモンだな。ま、霊能者殿は違う意見だろうが」
「なははは。人の理屈で生まれ存在するもんが、人を媒体にするもんの影響と高い親和性を持つんは、遺想学でも霊能学でも一緒ですわ」
「兄貴、なんや霊能者先生みたいなこというなあ!」「やろぉ!?」
その男子とは、席が近かったこともあり、給食の時間によく撤兵も話を聞かせてもらっていた。海に関する話が好きで、冬に夜釣りをしていたら海の中に女がいて、針を引っ張ってイタズラされる話などは、ただ怖いだけでなくユーモアもあって面白かった。あの話も掲示板から持ってきたなら、探したら出て来るかな。読みたくなってきた。
「まあ分かってると思うが、あんま触んなよ。いくらお前らが遺想に耐性があるからって、ダメだなときはダメだからな」
「もちろんですわ! そういうわけで、またなんかあったら相談に来ますさかい! よろしゅう! ほな!」
気づけば安納と白石は帰っていた。「あれ?」
「じゃ、もっぺん店番頼むぞ」
やかましさの余韻が残る店内に撤兵を置き、マスタードと海老原は再び奥に行く。いやしかし、二度しか会っていないがやかましい二人だ。海老原だって、あんなにやかましい鳥が来るくらいなら、閑古鳥にいてもらった方がマシだろう。
椅子に戻って再びスマホを取り出すと、今度はすぐに入り口が開けられた。
「あ、あの。こちらは和氏の璧さんでよろしかったでしょうか」
声を震わせながら入って来たのは、鼻周りにそばかすを散らした女の子だった。年は撤兵と同じくらいだろうか。厚手のパーカーと太めのジーパンを合わせたボーイッシュな服装をしている。黒いパーカーの胸元には、その上からでも分かるほど赤い血しぶきが飛んでいて、右手には血まみれのナイフが――血まみれのナイフが!? 撤兵はギョッとして自分の目をこするが、何度見ても少女の手には血の付いた包丁が握られていた。よくよく見れば頬にも血を拭った跡がついている。
「なななななななななっ」
「な」をいうだけの機械と化した撤兵に、少女ははじめ怪訝そうな顔をしたが、彼の視線が自分の右手に注がれていることに気がつくと自らも右手を確認し――「ななななななななっ」
「ちちち、ちがっ違う、違うんです! 私じゃないッ。私やってません!」
「殺ってません!? そそっそそそうですよね。おおお俺は信じます。ホントに。だからここ殺さないでッ」
「ほっ本当にやってないんです、誤解ですーッ」
血まみれの刃物をぶら下げておいて、一体どこになんの誤解があるというのだろうか。撤兵は小鹿のごとく震える足で床を這いつくばった。「ひぃい――! 殺される。マスタード、海老原さん! 助けてェええ――!」
必死のSOSが届いたようで、悲鳴を聞きつけた二人はすぐに店に戻ってきてくれた。撤兵は海老原の足に縋りつくと、目の前の猟奇殺人犯を指さし「殺されるッ」と訴える。海老原はスプラッター映画から出てきたような少女の姿に一瞬たじろいだが、すぐに首を横に振った。
「違う違う。その子はさっき話してた思われ物の相談に来た客だ」
「ええ!? 血まみれなのに!?」
「そう。まさにその件について相談に来たんだ。そうだろ?
三人の注目に晒された彼女は沈黙のあと、不安と安堵が混ざった複雑な表情でこくりと頷いた。
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