第3話 天網漁
生来の真面目さと誠実さが災いして、学生生活は平均して憂鬱だ。同級生は僕を都合のいいときだけ持ち上げるが、普段は半笑いで遠くから眺めている。教師は教師で、僕がいいえといわないのをいいことに、我慢と許容を強いてくる。ただ真っ直ぐに生きたいという気持ちすら、大事にはしてもらえないならば、身に降りかかる理不尽に一矢報いなければいけないと思う。
「いやあ、良かったよ。来てくれて。ブッチされると思って冷や冷やしてたんだ」
待ち合わせていたバス停で落ち合うと、友人はそういって笑った。その口調から表情から、自分を侮っているのが分かる。なんの約束をしても大抵遅れて来るのはこいつだ。
「……あれだけしつこくいわれたんだから。行かなかったら部屋まで来るだろ」
「もちろん。最近のお前、マジで心配だもん」
「…………」
「じゃ、行こうぜ。場所は例の廃墟だよ。いってたやつ、持ってきたか?」
「うん」
「良かった。今日できっとなんとかしてもらえるよ」
いいながら彼は前を歩き出した。ここから目的地への道は自分も知っていることくらい分かるはずだが、この男はどうしても優位に立ちたいらしい。腹の底でじわりと黒いものが滲む。
「ごめんな。俺が肝試しなんか誘ったから、こんなことになって。本当、悪気はなかったんだよ。高校入ってから、部活の練習とか付き合いとかで、お前とあんまり遊ばなくなっただろ? で、お前ホラー漫画とか好きだったじゃん。廃墟の噂聞いて、これを機にまた前みたいに遊べたらいいなあ……と思ってさぁ」
はにかむような表情に、口の端が引きつりそうになる。なにが「また前みたいに遊べたらいいなぁ」だ。元から自分をからかうつもりだったのだろう。その証拠に、集合場所に行ってたら知らない参加者が四人もいたし、その全員が友人と同じサッカー部のメンツだった。おまけに目的の廃墟に入るなり、彼らは自分を撒いて楽しんでいた。
「お前にはいくらでも友達がいるだろ。ギャグセン高いお友達が」
「あ……廃墟でお前を置いてけぼりにしたこと、やっぱ怒ってる?」
当たり前だ。恐る恐るこっちを覗き込んでくる顔があまりに腹立たしくて、思わず眉間めがけて唾を吐いた。「ウワッ」
「やめろよ!」
やはり彼は根本では自分を見下しているのだ。歩み寄る姿勢も、謝罪の言葉も、全ては自分が優位に立つための仕草に過ぎない。ああ腹が立つ。なぜこんな男に命令されなければならないんだ。こいつの口に乗せられて、のこのこ家を出たことが今更ながら情けない。
「悪かったよ。でも最初だって俺は腕引っ張られて連れていかれて、出ていこうとしても高田が俺を放してくれなくて無理だったんだよ――ん? おい、どうしたんだよ。急に止まって。…………まさか今更行かないとか、やめてくれよ」
「…………」
「おいおい勘弁してくれって! お前引っ張り出すのにあれだけ苦労して、今度は目的地に着くまで説得!? しんどいってぇ」
大げさに空を仰ぐ友人。そうだろう。お前は結局、僕を自分を引き立てるツールにしたいだけで、心配なんかしていないのだから。
これは正当な報復だ。
「頼むよ。俺、本当に悪いと思ってる。だからこうして今日の約束を取り付けた。頼むから今だけ俺のいうことを聞いてくれ。な、な」
「……お前の気持ちはよく分かった」
「そうか! 良かった!」
「……
「ん? なん――ぁっ?!」
ダウンを裂く軽い感触。次いで鶏肉に刃を立てたような、密度を感じる肉の感触。フルーツナイフの短い刃でも、この男に一矢報いるには十分だった。
「き、む、ら……なん、で」
「は、は……っ。お前が悪いんだ。僕を馬鹿にするから……ッ」
これは正当な報復だ。
これは正当な報復だ。
「ちが、おぇあ……おま、えと」
頭の中が真っ赤になった。鼓膜に張り付いた心臓の脈動が勝鬨のように聞こえる。
「キャアッ!」
自分を冷静にさせたのは、通りすがりの女が挙げた悲鳴だった。通報される! いいわけや妄言ではなく、これは正当な報復なはずだ。しかし、警察や親は理解してくれないだろう。
「きゃっ」引き抜いたナイフをぶつかりざまに女に押し付け、僕は方角も分からないままその場を後にした。
根近市に図々しく建つ四流市大でも風花が観測された十二月中旬のこと。子安撤兵は午後一番の講義が終わるや否や、レジュメの陰で大きなあくびをした。本日の撤兵の起床時間は一限の講義に合わせた午前六時。雪の積もった石上村からバスと電車を経由し、大学に辿りついたときには洗顔で追い出したはずの眠気がすっかり返ってきていた。その上、暖房の利いたポカポカの講義室とそこに響く冗長な講義。寝るなという方が無理な話だ。現に隣に座る学友は、真っ白なノートを枕にいびきをかいている。ちなみに隣の席こそ男子学生が座っているが、前、後ろ、通路を挟んで左右のテーブルには、講義を受けに来たにしては妙に着飾った女子学生が陣取っていた。
「ねぇてっぺー、見て見て!」
いの一番に話しかけて来たのは、目の前に座る茶髪の女子だ。指さすのは、桃色にトゥルトゥル輝く皺のない唇。
「新しいグロス買ったの。DIOR! めちゃ良くない?」
「あー。いいじゃん。似合ってる」
「分かってんじゃん! 流石てっぺー」
「ウソー。撤兵ってマット派じゃないの? この前いってなかったっけ?」
割って入るのは黒髪に艶のない真っ赤なリップが印象深い女子。尖ったアイラインが女豹のような迫力を生んでいる。
「ちゅるちゅるとかトゥルトゥルとか、男ウケがいいっていうか、オッサンウケじゃん?」
「え、なに。失礼すぎ。それともそれ、てっぺーがいったの?」
「いやいや、好みあるほど詳しくないから。別になんでもいいよ。お前らが使ってテンション上がるなら、それが正解じゃないの」
無難な返しは本心ではない。なまじ女性経験が豊富なだけに、撤兵には化粧の知識がそれなりにある。好みをいえば、黒髪の彼女がいうように、口紅は艶のないマット派である。しかし以前化粧について言及したところ、次の日から判で捺したように女子の顔が同じになり、挙句の果てには「女が皆男のために化粧してるとか、何様!?」と出合い頭に怒鳴られたことがある。あれはとんでもない濡れ衣だった。
「へー、優しいんだ」真っ赤なリップが挑発するように歪む。
「そうだよ。俺は皆に優しいの」
「ふーんそう。ま、
吐き捨てるように彼女がいうと、辺りがしんと静まり返った。
虹釜――死んだ藍子の苗字だ。珍しい苗字で同姓がいないため、事故後から未だ構内では口にするのを憚られていた。加えて藍子は撤兵の最後の交際相手だ。気まずい沈黙が流れる。
耐えかねた撤兵がなにか口を開こうとしたところで、都合よくスマホが鳴り始めた。
「ごめん、ちょっと」
ことわりを入れてから、撤兵は教室の壁際に移動する。発信者はお馴染みのナゲットだ。一抹の不安を覚えつつ、『応答』コマンドをタップする。「もしもし」
「やあ撤兵君。将来の展望なんて微塵も考えていない分際で、真面目に勉学に励んでいるかな?」
相変わらず口の悪い男だ。彼と出会ってから間もなく一カ月が経とうとしているこの頃、どんどん悪口が酷くなってきている気がする。
「俺をけなさないと会話できないんすか? ていうか大学行ってる時にかけて来ないでくださいよー。将来の展望なんて微塵も考えてなくても、それなりに真面目にやってんですよ」
「どぉーせ寝てたんだろ」
「誰かさんのせいでそうもいかないんすよ」
「ふーん。その誰かさんにはあとでお礼の手紙でも書いたらどうだい。――そうそう用件だけど、ちょっとおつかいを頼みたくてね。君の大学の近くにコンビニがあったろ? あそこで待つよう、マスタードに指示してあるから、早く合流しなさい」
「ええー、それって俺いります?」
「僕は今すぐ大学に迎えに行かせてもいいんだよ、僕は。マスタードの車に乗るところを見られて、どれだけの女子からトラブルの種をまかれるか知らないけどね」
「行けばいいんでしょ、行けば!」
「最初から素直に応えていればいいんだよ。じゃ、よろしく」
いうだけいうとナゲットは一方的に電話を切った。通話履歴を睨みつけ、撤兵はため息を一つ吐く。
「はー。呼び出し食らったから、俺帰るわ」
「え、女?」
一気にぎらつく空気に、撤兵は辟易として首を振る。「ちげーよ」
「俺の居候先のオッサン。なにかにつけてパシられてんの」
リュックを肩にかけ、撤兵はキャンパスの外に出た。その間顔見知りの女子や知り合いの知り合いや知り合いの知り合いの知り合い数人に話しかけられたが、適当に流して南門からコンビニを目指す。駅前からバスで十分ほどかかる根近市大の周囲は住宅街になっており、遊べるような場所はほとんどなかった。食事をできる場所は昔ながらの食堂が何軒かあるくらいで、ファミレスなどはない。いや、できるにはできるのだが、何故か一年も経たないうちにほとんど潰れるのだ。これは根近七不思議のひとつだといわれている。唯一文明を感じさせるコンビニはいつも学生で賑わっているが、セブンイレブンやファミリーマートといった大手ではなく『エイト・マート』という超ローカル店である。特徴はセブンイレブンとファミリーマートのいいところを全部溝に流したような、硬いコメのおにぎりと砂噛むような淡泊な味わいのチキンである。あれで直営店だというのだからすごい。
五分ほど歩けば、片田舎のコンビニ特有の広い駐車場と大きなポール看板が姿を現す。さてマスタードはどこだろうか。ナゲットが車といっていたので、恐らくランドクルーザーに乗って来ているのだろうが。
「あ、いた」
ランクルは丁度駐車場に入って来たところで、後続車がいないことを確認するとその場で車を停めた。素早く撤兵が車に乗り込むと、再びランクルは動き出す。
「お、ココア。いいなー。俺のは?」
「ないよ」
「えー」
車は南に向かって走りだしていた。現在地から南に向かうと隣の瀞市に行くことになるが、一体おつかいとはなんなのだろうか。
「おつかいって聞いたけど、どこ行くの?
「だぁさまったらなにもいってないのかい?」BBQに比べるとマスタードは淡白な印象を受ける娘だったが、それでもナゲットに呆れているのが分かった。
「ウン」
「あの人らしいね。今から行くのは瀞市にある遺想物専門の古銭屋だよ。
「へえ。古銭屋ってことは、思われ物の中でもコインだけを扱ってるってこと?」
「そ」
「マニアックだなあ」
ただでさえ遺想物なんて胡散臭くて知名度の低いものを、コインに絞って商売したらあっという間に潰れてしまうんじゃないだろうか。撤兵の疑問を見貸したかのようにマスタードは付け加える。
「記念コインや昔の貨幣をお守りにする人は結構いるの。財布やなんかに入れておいて、そのまま悲劇に見舞われるのね。だから数自体は他のものに比べて多い傾向にあるわ。それでも専門店は相当珍しい……ていうか、あたしはそこ以外知らないわ」
「へぇ。ならスゴイ人なんだ」
ナゲットの知り合いというと、やはりドのつく変人だろうか。彼よりも口が悪くないといいな、とささやかな願いを胸に撤兵は車窓に視線を移した。
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