9 遺想、得られず

 人生初のブラックアウトからものの数時間で二度目を体験した不憫な大学生は、客間の畳で目を覚ました。うっすら瞼を開けると天井の明かりが白く光る。「あー……」俺、なにしてたんだっけ。

「お兄ちゃん起きた」

 可愛らしい声と共に幼子が視界に入り込んでくる。手にはおもちゃのステッキを持っていて、飾りの部分が伝統に反射して眩しい。

「杜千ちゃん……もう大丈夫?」

 寝ぼけた頭でも杜千が先刻大変なことになっていた件はすぐに思い出した。杜千は「うん」と控えめに頷いた後、「お兄ちゃんは?」と聞き返してくる。

「俺も大丈夫だよ」

 そういって撤兵は上体を起こした。畳で寝ていたせいか肩やら腰やらがパキパキと鳴る。軽く伸びをして血を巡らせるとようやく頭も冴えてきた。気絶する前のことを順繰りに思い出していく。ええとたしか、蔵に入って、本を開いていたら声が聞こえて――

「アッ! そうだ。俺あのオッサン共に閉じ込められたんだッ」

 一瞬にして撤兵の怒りは蘇った。どうせ蔵の扉を閉じたのはナゲットだろうが、よくよく考えたら止めない宝にも十分に非がある。例えあの美人妻が庇ったとしても、つま先の一つや二つ踏んでやるくらいには恨んでいる。他方でナゲットは誰に庇われようが拳でぶん殴りたい気持ちなので、この差からいかに撤兵がナゲットを憎んでいるかは明白だ。とはいえ、その気持ちを理解するには杜千は幼い。怒れる二枚目はそこそこの迫力があったのか小さな体を更に縮こませる。それからおもむろに、両手で握りしめているおもちゃのステッキを振り上げ、

「えい!」

 撤兵の側頭部に振り下ろす。幸か不幸かリーチを見誤ったその一撃は、側頭部手前の空を擦り肩にヒットした。ステッキの飾り部分は、金平糖のような小星型十二面体。つまり、おもちゃ用に丸く削られてはいるが十二個のトゲが撤兵を襲ったのである。撤兵は声にならない悲鳴を上げ、肩を押さえて丸くなる。

「とっと、杜千ちゃ、い、痛いな!?」

「ごめんなさい」

 ――謝るならやらないでほしい! わが身に降りかかる女難は多岐に渡るが、こんな種類の痛みを与えられるとは思わなんだ。悶絶する撤兵の隣で、杜千はなぜかもう一度ステッキを振りかぶる。痛みに気を取られてなにも気づいていない撤兵を再び凶刃――いや凶ステッキが襲う――

「あら。撤兵君、起きたの?」

 撤兵をすんでのところで救ったのは客間に入って来た満留だった。彼女は杜千と撤兵を見比べると、「お兄ちゃんと遊んでもらっていたのね」と微笑む。自己紹介のときから思っていたが、彼女はちょっとおおらかすぎる。とはいえ撤兵もわざわざこんな幼子の行為を告げ口するほど大人げなくないため、平静を装って彼女の言葉を肯定した。「はいー」

「ごめんね撤兵君。杜千ったら魔法使いのつもりなのよ、それ。あなたを治してあげようとして、おもちゃ箱から引っ張り出してきたの。ね、杜千」

 母に聞かれ、杜千は小さく頷いた。なるほど。その回復魔法によって更なる怪我を負いかけたわけだが、そこは二十歳の大学生。撤兵はまた取り繕って、

「そうなんだ。ありがとね、杜千ちゃん」

「ウン。……はい」杜千は気恥ずかしそうに唇を噛んだ。次いでステッキを撤兵に向かって差し出す。

「え?」戸惑う撤兵に満留が助言する。「貸してあげたいみたい。もらってあげて」

「そっか。ありがとう」

 魔法のステッキを受け取る撤兵。しかし貸してもらったはいいが、どう扱えばよいものか。戦隊ヒーローの変身ベルトに憧れを抱く幼少期を過ごした撤兵にとって、ステッキなど無用の長物。小星型十二面体と柄の接合部にリボンがあしらわれた可愛いステッキには、実用性もロマンも見出せない。困った末、撤兵は助けを乞うように満留に視線を投げかけた。

「ん?」

「ア、いや。その」

「あ、そうだ」撤兵のセリフを最後まで聞くことなく、満留は閃いた顔で両手を合わせる。「冷やしていたゼリーが固まったの。あたしの手作りなんだけれど、撤兵君もどう?」

 美人の手作りゼリーとあらば、断る男など男にあらず。撤兵は迷う素振りもなく「はい!」と答えようとしたが、大きく息を吸った途端、心臓に激痛が走った。「ぃッ!?」

「お兄ちゃんっ?」「やだ、大丈夫!?」

 杜千に続き、慌てて満留も傍へ寄ってくる。

「まだ良くなってなかったのかしら……。胸が痛むの? どんな痛み?」

「いや、大丈夫です。もう治りました」

 痛みはすぐに消えたが、和紙に炭を垂らすように撤兵の心には恐怖がにじんだ。まず頭をよぎったのはれいの蔵だった。あの蔵の呪いにかかったのではないか、次第に痛みが強まっていずれ呪い殺されるタイプのホラーなんじゃ――いや、まさか。今のは偶然だ。前触れなく体が痛むことなんて、人間をやっていればたまにある。嫌な考えを振り払うように頭をぶんぶん横に振っていると、撤兵は視界の端にキツイピンク色の物体を認めた。床に放り出されたそれは、杜千から貸してもらったステッキだった。先刻、痛みに驚いて取り落としてしまったらしい。慌てて拾おうとするが、それより早く杜千がステッキを拾った。

「とにかく、撤兵君。なにかあったらすぐにいってちょうだいね」謝る間もなく満留が話し出す。

「あ、はい」

「ゼリー、皆に声をかけて居間で食べようかと思ったんだけれど、ちょっと心配ね。ここまで持ってくるから、ちょっと待っててね」

「えっ。大丈夫です。申し訳ないんで。多分さっきのは、寝転がってたところ急に動いて、血がドックンってなっただけですよ。そう、動悸です、動悸」

「あら本当? それならいいんだけど……。無理はしないでね」

 優しい母の姿に、撤兵は脳内に想起した実母との差を痛感し涙を流しそうになった。自分がどんな女性トラブルに遭っても大笑いしていた母と、ちょっとした痛み一つでここまで心配してくれる満留。別に実母が恨めしいわけではないが、美人な上に優しいとなると……ううん、宝と杜千が羨ましい限りである。

「なら行きましょうか。杜千、おいで」

 満留に促され、杜千と撤兵は客間を出る。後ろ手で襖を閉めた丁度そのとき、撤兵は視線を感じた。感覚だけで辿ってみれば、左側に伸びる廊下の角に杜千の祖母が立っていた。彼女は撤兵と目が合うや否や踵を返してどこかに行ってしまう。まるで盗み見か盗み聞きでもしていたようだ。

――まさか、俺に惚れたんじゃないよな。

 笑ってはいけない。老いも若きも惑わす二枚目にとって、それは限りなく事実に基づいた戯言なのだから。

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