8 土蔵に入らずんば
客間は騒然としていた。母親を呼びに行こうと撤兵が立ち上がると、丁度同じタイミングで襖が開く。一斉に振り返る三人の頭には満留の姿が浮かんでいたが、開いた襖の前に立っていたのは彼女とは似ても似つかぬしゃがれた老婆だった。腰の曲がった老婆は杜千に視線を留めたあと、「どうなさった」と撤兵に声をかけてきた。
「ど、どうっていうか、なんか、急に杜千ちゃんが苦しみだして。じ、持病とか? あるんですか? その、喘息みたいな」
「いいや。その子はなんも病気はしてません」
老婆は妙に落ち着いていた。この家にいるということは、彼女は杜千にとって祖母に当たるのではと思ったが、孫のこんな姿を見てこんなに落ち着いていられるものだろうか。老婆は撤兵の疑念を他所に続けていう。
「ここ何か月か、その子はずっとそんな調子なんです。突然痛がっては、少し経つと自然に治る。お医者様に診てもらっても、なんも悪いとこは見つかりませんでした」
「今はそんな話を聞きてえんじゃないんだ。医者の診断はともかく、こん子が実際に今苦しんでんのは事実だろう。婆さん、アンタ孫が心配じゃないのかい!?」
苛立った口調でBBQがまくしたるが、老婆は口を閉ざして黙りこむ。どうしたものかと撤兵が考えあぐねていると廊下から「お義母さん。どうしたの?」と声がした。すると老婆が答えるよりも先に、
「杜千ちゃんの様子がおかしいんです。奥さん、早く来てやってください。おばあ様じゃ話になりませんよ」
ナゲットが声を張り上げるとすぐに足音と共に満留が姿を現し、老婆を押しやって客間に入ってくる。「杜千! またなの!?」
「どうしたらいいんだい。そこの婆さんはおかしなところはないってなにもしないんだよ」
杜千を母の腕に預けながら尋ねれば、満留は痛ましいげな表情で少女を抱きしめる。
「ええ、本当にそうなんです。色んな病院に連れていって詳しい検査をしてもらっても、結果は健康そのものって。多分、心の問題なんです。痛みを抑えるお薬をいただいたりしたんですけど効かなくて。だからあたしもこうやって背中をさすってやることしかできないんです」
何度も背中をなでる満留の姿は、我が子の痛みを心から心配し、やりきれなさに傷ついている様子だった。悪いところはない、できることもない――いっていることは老婆とほとんど同じだが、彼女と違い満留は娘を本気で心配しているように思える。
それからしばらく満留が背をなで続けると、次第に杜千の様子は落ち着いてきた。顔色の優れないまま眠り落ちた娘の頬をなでながら満留は安堵の息をつく。その間に老婆はいなくなっていたが、誰も気に留めなかった。
「すみません。驚いたでしょう」
「まだ小さい命ですから、色々あるんでしょう。僕らには子供がいないので分かりませんが」珍しく優しい声色でナゲットは母を慰めた。「あれ? 撤兵君はいるんだっけ?」
「いるわけないだろっ」
「あ、認知はしていないのか」
「ちげえーよッ」
女性の前でなんてこというんだ。躍起になって否定する撤兵ととぼけた顔で斜め上を見遣るナゲット。BBQは呆れ気味に目を伏せたが、このお馬鹿な学生並みの――一人はまごうことなき学生だが――ふざけ合いがかえって功を奏したようで、満留は強張っていた頬を緩める。美人の笑みを頂戴しては撤兵も怒るに怒れず、握りかけた拳を解き頭を掻く。「いやあ、へへ」
場が落ち着いたと判断したナゲットが次の話題に移ろうと口を開く。「あの――」
「満留、廊下にお盆が置いてあったけどどうしたの?」
しかし話し始めたすぐ直後、廊下から入って来た男によってナゲットのセリフは遮られる。ノルディック柄のセーターを身にまとった男性は、神経質そうな顔つきの割りに身体は筋肉質。日に焼けた手で持ったお盆には、彼を除いた人数分のお茶が乗せられていた。満留はそれを認めるなり両手で口を覆う。
「あっ。さっきナゲットさんに呼ばれたときのだわ。あたしったら動揺していて、廊下に置いてきたのすっかり忘れてたみたい」
「なんだ、そういうことか。お盆だけぽつんと置いてあるもんだからびっくりしたよ」
「ごめんなさい、パパ」
ここまで聞けば撤兵にもピンときた。このセーターを着た男は満留の夫・宝だ。ということは父親が亡くなった今、彼は次の地主ということになるはずだが、宝からそんな雰囲気は感じ取れなかった。まあ、撤兵の持つ地主のイメージが偏っているということもあるが。撤兵の偏見でいえば、宝は地主の息子というより、農家の息子といわれた方がしっくりきた。日に焼けておらずもっと筋肉がなければ、IT企業に勤めるエンジニアにも見えたかもしれない。要は当てにならないイメージである。
妻に代わって三人分のお茶と一人分の牛乳、それから茶菓子を座卓に置いた宝は、襖側に座る満留の隣に腰を下ろした。
「ご挨拶が遅れてすみません。僕は成富宝といいます。成富豪司の息子で、満留の夫です」
「ナゲットです」「BBQです」
当たり前のように挨拶する二人。そしてこちらも当たり前だが、二人のふざけた名乗りに宝は眉をひそめた。そして恐ろし気な表情で残る撤兵に視線を移す。
「子安撤兵です」
このとき、撤兵は自分にありふれた名前をつけてくれた両親に感謝した。キラキラネームが悪いとはいわないが、もしこれで「プリンスです」だの「ラッキーです」だの名乗っていたら、恐らく宝からの不信感は拭いきれなかっただろう。もちろん「マスタードです」も同様だ。
「は、はあ……」後頭部をなでながら宝は乾いた笑いを浮かべる。「ゆ、ユニークな方々ですね」
「よくいわれます」
「ああ、はい。それでええと、今日来ていただいたということは、皆さんは安納さんが呼んでくださったお弟子さんということですかね?」
「……ハイ」頷くナゲットの目に暗い光が宿る。
「そうですか……。今日はどちらから?」
「山の裏側の石上村から」
「そうですか。ご足労おかけしてすみません。でしたら今日は休んでいただいて、蔵の相談は明日にでも――」
「――とんでもない!」
飲んでいた牛乳のコップを座卓に叩きつけるナゲット。
「僕は一刻も早く思われ物に会いたいんです。是非、今日中に、すぐにでも、今、見せていただきたいッ」
どうにもこの男は遺想物のこととなると周りを置いてけぼりにするきらいがある。撤兵は時すでに遅しと分かりながらも、座布団を離れた位置にずらす。ナゲットと宝の間にはヒートショックを起こしてしまいそうなほど温度差があるが、そこは宝も大人。隠しきれない気まずさを押し殺しつつ、「そうですか」と取り繕う。
「そいういうことならさっそく案内しますよ。皆さんで行かれますか?」
「あたくしは結構です。なにかと忙しいでしょうし、家事のお手伝いでもいたしますわ」
早々に裏切るBBQ。横に座っていた撤兵は思わず「裏切ったな!」の目でBBQを振り返るが、彼女は正面を向いたまま微動だにしない。代わりに彼女の奥にいたナゲットが妙にきらきらした目を合わせてくる。まさか、
「では私とこの撤兵君で行きましょう! いやあ彼はすごい胆力の持ち主なんですよ。話を聞いたときから、蔵に入りたくて入りたくてうずうずしてるんです」
「そうなのかい? 若いねえ君。では三人で行きましょうか」
そういって宝は立ち上がり部屋から出ていく。撤兵は下を向いて知らんぷりを決め込んだが、ナゲットに腕の皮を引っ張られあえなく連行。再び雨の降りだした外へと連れ出される。
玄関を出て数十秒の道のりを経て、蔵の前に辿りついた三人。先頭に立った宝は、中での出来事を思い出したのか若干血の気の引いた顔で切り出す。
「これがれいの蔵です。僕はこれまで三度入って、その三回とも最後には意識を失っています」
「なるほど。たしか入ると『取るな』という老人の声が聞こえて、段々と体調が悪くなっていくんでしたね?」
ナゲットの質問に宝は頷く。「そうです」
「経過時間が問題なのか、それとも進んだ距離が問題なのか、どちらかお分かりですか?」
「いえ。そこまで考える余裕はなくて……」
「そうですか。いえいいんですよ。それは今から撤兵君が確かめますから」
どん、と背中を押され撤兵は先頭に立たされる。撤兵は視線だけで振り返り二人の態度を窺うが、ナゲットは元より宝も助けてくれそうな気配はない。どうやら蔵に入らずに済む方法はなさそうだ。腹をくくった撤兵は蔵の前に立ち直し、大きく深呼吸をする。
「どうせ気のせい、どうせ気のせい、どうせ気のせい……」科学の名のもとに多くの心霊現象が解明されたこの時代、もはや姿なき声など恐れるに足らない。たとえBBQに裏切られたって、宝が助けてくれなくたって、科学はきっと裏切らない。そうだ撤兵、それにたとえ呪われたって、俺には巫女と神主の娘の友達がいるからきっと大丈夫――。意を決し、撤兵は蔵の扉を押し込む。
蔵の中は驚くほど何の変哲もなく、しいていうならば灯りがないので奥の方がほとんど見えない。見える範囲を観察すると、中央は通路ように開けてあり、両側に棚やら箪笥やらが置かれている。収められているのは壺や陶器などといった年代物の品々だ。「撤兵君、撤兵君」「なんすか?」「はいこれ、懐中電灯。死んだら教えてね」死んでたまるかッ。生還したら今度はナゲットを蔵に押し込んでやる。そう心に決め、撤兵は蔵の中へと足を踏み入れる。
「寒……っ」
外に比べて蔵の空気は冷えている。くわえて土蔵は湿気がこもりやすいのか、黴臭いにおいが充満していた。ここまで来たら、じっくり調査してやろうじゃないか。変な覚悟に火が付き、撤兵は両側の棚を一つ一つ点検していくことにした。そうしていくつか品を見ていくうちに持ち主には悪いが財産になりそうものはなさそうなことに気づく。調査とはいえ他人の持ち物であるので木箱や箪笥を開けるのは憚られるが、書物くらいならいいかと思い開いてみると、ほとんどのページが黒っぽくカビているのだ。半分ほどめくると、長方形の紙がページに挟まっていた。こちらも随分黒ずんでいるが、よくよく観察すると紙幣のように見える。気になって持ち上げてみると胞子のような黒い点がはらはら床に落ちた。
「ばっちぃな――ん?」
持ち上げた手をぶるぶる振って菌を飛ばす撤兵。その動きが不意に止まる。
――るな、ぁ
「なんだ……?」微かになにか聞こえた。撤兵は辺りをきょろきょろし、耳を澄ませる。風でも通ったか?
――と――な――るなぁ
音は蔵の奥から聞こえているようだ。数歩奥に近づくと音は更に明瞭になり、声になった。
――取るな、取るな。
声がセリフを紡ぎだしているのに気がついた瞬間、撤兵は背中に氷でも入れられたかのように戦慄した。蔵に入ると老人の声で『取るな』と聞こえる――安納と宝がいっていたのと同じ現象が、今自分の身に起きているのだ。撤兵は思わず入り口を振り返った。
「だぁッ! あんのやろぉお閉めやがったな!?」
蔵の扉は一筋の光も残さずびっちり閉じられていた。気づかない方も気づかない方だが、あの男が自分の身を案じていないのがよく分かる。そして撤兵がナゲットへの怒りを募らせる間にも、声は絶え間なく聞こえ続けていた。
――取るな、取るな、取るな。
しゃがれた老人の声はまるで呪いでもかけているようで、撤兵は「な、なにも取らねえよ!」と叫んだ。しかし声はやまない。
――取るな、取るなぁ……。
「な、なにも取らないっ。俺はただ蔵になにがあるか見たいだけなんだよ。奥まで見たら帰るからッ」
撤兵の必死の弁解も謎の声には届かない。声はどんどん大きくなり、頭の中でグワングワンと反響する。反響が終わる前にまた新たに声が聞こえてくるせいで、無尽蔵に鳴り響く声が増えてゆく。まるで脳みそをを指でかき混ぜられているみたいだ。「やめてくれ!」
もう支えなしでは立っていられなかった。撤兵は懐中電灯を捨て前方にあった棚を掴む。声の影響はいつの間にか視界にも及び、地面が蛇のごとく波打つ。乱視の患者のように物が重なって見えだす。
――取るな、取るな、取るな、取るな。
「ちが、おれ、は、」
ついに撤兵は地面に倒れこんだ。体表がひっくり返りそうな不快感に意識を奪われてゆく中、撤兵は塵ほど残った思考の末端で、もし生きていられたらナゲットをぶん殴ると決めた――
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