4 遺想物とやら

 緩やかにうねる伊内囲山の山道を一台のランドクルーザーが走っていた。前後に他の車の気配はなく、ランドクルーザーは一台きり波にでも揺られるように、右へ左へカーブを繰り返し山を上っていく。乾いた砂漠から険しい山岳までを縦横無尽に駆け回るアウトドアの王様を従えているのはBBQだ。そしてその隣ではナゲットが窓から空を眺めつつ、スナック菓子をつまんでいる。時折BBQの口に運んでる優しさは、きっと絆のなせる業なのだろう。さて、では恐らくスナック菓子を恵んでもらえない方――撤兵はなにをしているかといえば、

「心臓が……心臓がスースーする」

 後部座席を三人分も使い、胸を押さえて寝転がっていた。屋敷を出てから数十分、撤兵は未だれいの出来事のショックが抜けていないらしい。病人よろしく唸っていると前の席から「気のせいだよ」と冷たいBBQの声が飛んでくる。しかし撤兵はめげない。女性に甘やかされて生きてきた歴史は伊達ではないのだ。

「いやいやいや。BBQ、お前は現場を見てないからそんな酷いこというんだよ。それにさ、心臓に手ぇ突っ込まれたことある? ないだろ」

 前の席に身を乗り出してヘッドレストを抱く仕草といったら、走りにくい山道を運転する人間になんと鬱陶しいことか。BBQは眉をひそめながら短く、「ある」

「だろ? 想像つかないだろうけど、だってフツーあり得ないし。でもいざやられた身としては――え? あるの?」

「あるよ」

 メイドはため息交じりにもう一度答える。経験がある上であの冷たさとなると、撤兵はちょっとどう自分の被害を訴えていいか分からなくなってしまう。結果、彼は数秒BBQの横顔を見つめたのち、黙って後ろのシートに帰っていった。「そうか、あるのか……」

「お前さん。無理だと思うけれど自分の常識があたくしたちに通用すると思うのはおやめなさいな」撤兵に一瞥もくれず車窓を眺める雇い主に代わってBBQは忠告してやる。「昨日ペンダントから藍子が這い出てきたときだって、ビクビク怯えてたのはあんただけだ。あたしたちは慣れてるんだよ、そういうのに」

「まあそっか。じゃなきゃ俺のこと助けられるわけないもんな。そういえばさ、あれって結局なんなの? 呪いとかオモワレモノとかいってるけど、俺が見た藍子って幽霊だったの?」

「よく喋るねぇ。さっきまでウーウー唸ってたくせに」

「もう治った。いいじゃん、教えてよ」

 初めて会った夜もBBQは『オモワレモノ』という言葉を使っていた。簡単にいえば呪われた品だともいっていたが、そもそも呪いというものが撤兵にはよく分かっていなかった。要は井戸から来る、きっと来る、ということなのだろうが、死人に口なしというではないか。死して尚その強い思念は現世に留まるなんてオカルト話を信じるほど、撤兵は倒錯していなかった。しかし実際に藍子の霊を見たのも事実。この移動時間を機に、色々と聞いておきたかった。そんな撤兵の気持ちを汲んでくれたのかBBQは、「そうさねえ」

「この件についてはだぁさまの方が詳しいんだよ。ただね、見ての通り説明する気なんかさらさらないだろう。ねぇだぁさま?」BBQがちらっと横目で主人の様子を伺うと、予想通り彼は今までの会話なぞ一音たりと聞いていないという表情で彼女を振り向く。「え? なんかいったかい?」

「いいえ。なんにも。まあそういうわけだから仕方ないね。あたしが説明しよう」

 ――とはいったものの、一体なにから話せばいいのかねぇ。いっぺん聞いただけじゃ信じられない話だ。あんまり構えず聞いとくれ。とりあえず思われ物ってぇのは、まあお前さんがイメージした通りの漢字だよ。思うを受け身にして思われる、思われた物を短縮して思われ物だ。でもこれは俗称で、正式名称は遺想物ってんだ。ほら遺失物とかいうだろう。それの失の字を想像の想に替えて遺想物。外国だとまた違う呼び方するんだけど、別に覚えなくていい。勘のいい奴なら、字面から大体思われ物がなんなのかイメージできるだろうよ。……あんたには無理みたいだね。遺想物ってのは、強い思いが込められた物のことをいうのさ。最初に思われ物を発見した元良って男は著書で『人は物に依りて遺想を得る』って書いてる。

 この遺想っていうのはなんていうのかねぇ、今さっき強い思いとはいったけれど、それは『死んでも東大に合格する』とか『恩人のためならこの命を使ったっていい』みたいな、そういうんじゃあないのよ。いや、そういう思いでも程度が強ければ遺想として物に宿ることもないわけじゃあないけど、まあ無理さね。物に宿るような強い思いってぇのは、大抵の場合相手の破滅を願う負の感情だ。それこそ、藍子が遺想物に込めた嫉妬や独占欲みたいなね。ただねえ、往々にして人ってのは生きてる限り可能性を信じちまう生き物だから、負の感情を抱くことだけじゃなく、遺想者が死んで初めて遺想物が生るって考えが一般的だね。死んで花実が咲くものかってぇけど、うちらの界隈じゃあ死んでこそ花も実も生るんだ。

 んで、遺想物にも種類がある。まず負の遺想物か正の遺想物かって話なんだけど、この場合の正負は効果の内容に関する分類だ。例えばその遺想物を持っていると毒を無効化しちまったり、妙に楽しくってけらけら笑えたり、そういう人にプラスに働くモンは正の遺想物ってことになる。で、負の遺想物はまあ、お前さん身を以て体験しただろう。そう、藍子のペンダントだよ。ああいう人に危害を加えたり、負の影響をもたらすモンは負の遺想物って呼ばれるんだ。今見つかってる遺想物の正負の割合は――1対9かね。正の遺想物は超レアものだから、もし見つけたらだぁさまに取られる前に売っちまいな。人生転げ落ちるほどの金が稼げるかもしれないよ。

「とりあえずお前さんに今伝えておくべき情報はこんなもんかねぇ。アンタが特に聞きたいのはろうそくの件なんだろうけど、まあ、家でマスタードが保管してるから、あんまり気にしないでおきな。他にも色々いわなきゃいけねぇことはあるんだけれど、いっぺんにいったってお前さんどうせ忘れちまうだろう? ……ん? 撤兵?」

 返事がない。不審に思ったBBQがバックミラー越しに後部座席を確認すると、撤兵はシートに寝転がって居眠りしていた。「…………」

「おや? 撤兵君寝てるね。さすがは怠惰な若者。この程度の講義も耐えられない」

 そういうナゲットの声はどこか楽しそうだ。BBQは目の下に暗い影を落とし、旦那に命じる。

「だぁさま、シートベルト握っててくんな。ちくとんばい乱暴するぜ」

 ちょうど車は峠に差し掛かっていた。道幅の広くなった道はしばらく道なりに真っすぐ伸びており、つまるところ今からこのランクルは長い下り坂を駆け下りる。メーターは時速五十キロから坂を下るにつれぐんぐん上がり、五十五キロ、六十、六十五――七十の数字に赤い針が触れた瞬間、なにを思ったかBBQはシフトレバーをLに入れ、ブレーキペダルを思い切り踏みつけた。当然車は甲高い声で泣き叫びながら急停止、慣性の法則によって乗員はフロントガラスに突っ込みかけたところを、シートベルトによってなんとか助けられる。哀れ、道路交通法を無視し、ついでに先輩の親切な解説も無視した不逞の輩は、階段落ちよろしくシートから転がり落ちる羽目になった。

「落石、雪崩、土砂崩れ……?」

 呻く撤兵にBBQは顔色一つ変えず、

「狸の親子だよ」

 いうまでもなく、ナゲットは口に手を当てて笑っていた。

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