3 消ぇるよ

 その昔、伊内囲山いないやまには泣き虫の神様がいるといわれていた。山神様が泣くと空から涙が雨となって降り注ぎ、おかげで村は梅雨入りも梅雨明けも知らない。川は何度も氾濫し、下流にある村の土は常にぬかるんでいた。水はけの悪いかの土地ではろくに畑も耕せず、苦労の末に種が芽吹いても氾濫した川に流される。こんな村では生きていけない。そういって村人は、一人また一人と村を去っていった。村人が去ろうと山が笑ってくれるわけではなく、空いた土地には代わりに河鹿が住み着いた。そういうわけで、泣いた子をあやす「いない」という村の方言から取って山は伊内囲山、人が消え河鹿ばかりが増えたその村は河鹿島村、と呼ばれるようになったのであった。ついでに、伊内囲山から河鹿島村を流れる村人泣かせのその川は、泣瀬川なかせがわと名付けられた。まったくひねりのないことである――

「別に地名の由来が知りたかったわけじゃなかったんだけどなあ」

 スマートホンをいじりながら撤兵はひとりごちた。朝食を終えたダイニングには彼以外に誰もいない。あの後電話を終えたBBQはテーブルに戻って事の顛末をナゲットに説明した。

「――というわけで、御嶽山行きの計画は中止だよ」

 BBQにそういわれ、あえなく撤兵錯乱計画は水泡に帰した。せっかくの機会を失ったナゲットはつまらなそうに口をへの字に曲げていたが「ま、いっか」とすぐに機嫌を直すと、愉快そうにひとりごとをいい始める。

「ま、元々ぺーぺーのぺーの撤兵君には荷が重かっただろうしね。いいよいいよ。安納君が持ってくるしょーもない案件は、顔ばっかりに栄養が行ったしょーもない大学生にぴったりだ」

 だぁっれがしょーもない大学生だ、ブチ●すぞこのオッサン! 心中穏やかでないどころか殺意すら覚える撤兵をよそに、ナゲットはまだ続ける。

「どうせ見つかった遺想物なんて、屁が止まらなくなるとかそんな効果のもんだろ。あははははっ。そしたら撤兵君にあげよう。屁が止まらなくなっても顔が良ければモテるのか、実験してみようじゃないか!」

「だぁさま、いいすぎ」

 うなぎ上りに調子に乗っていく主人の頭を食器の片づけから戻って来たマスタードが引っ叩く。そして罪に対して強度は弱いがバチの当たった様子を見た撤兵は、歯茎を剥いた奥歯が擦り切れそうなほどの激しい歯軋りをやめ、ようやく殺意の刃を――ではなく歯を収めた。

「だぁさま。あなたそんなことばっかりしてると、いずれ撤兵君に寝首掻かれますよ」

「ええっ。まさか、ただのじゃれあいじゃないか。ねえ撤兵君?」

「当たり前じゃないすか」

 心外そうな表情で確認を取ってくるナゲットに撤兵は薄ら笑いを浮かべて頷く。もちろん彼の返事には『機会があれば掻くに決まってんだろ、この変態コスプレ暴言男が』という意味が呪詛のごとく詰められている。幸運にもそんなことつゆも知らないナゲットは「ほらね」とご満足げに腕を組んだ。それから話は河鹿島村行きの件に戻る。

「河鹿島村で見つかる遺想物なら、滅多なことでもない限り二日もあれば終わるだろう。そうだよね、BBQ?」

「そうでございますねぇ」聞かれたBBQは斜め上を見上げてちょっと思案、「ま、そのくらいでしょうね。延びそうなら一度帰れば良いでしょうし」

「ウンウン。それじゃあ撤兵君、荷物はそのくらいでよろしくね」

「はあ……。分かりました」別に自分は行きたいともいっていないのだが、抵抗してまたあの罵詈雑言を浴びせられると思うと、ちょっと口ごたえする気力がわかない。

 不承不承ながらも頷いた撤兵の様子を見届けるとBBQは椅子から立ち上がる。

「それじゃ、あたしも準備してこようかしら。それとだぁさま、今回はあたくしがついていきます、マスタードは留守番。よござんすね?」

「ウン。構わないよ。あ、撤兵君はちょっと残ってね。やることがあるから」

 ダイニングを出ていくBBQを目で追う撤兵の気分はまるで、幼稚園バスに乗せられる幼児だった。安息地を失ったというか、ナゲットが今から無理・無茶・無謀をいっても止めてくれる人物が誰もいなくなってしまった。そういう気分だった。マスタードは食器を下げに行ったまま帰ってこない。撤兵は有事の際は椅子を投げて逃げられるよう頭の中でシミュレーションを始める。「やること? 食後の肩もみとかじゃないだろうな」

「ははは、それは今度やってもらうよ。今回は別件」

 まあ、待っててよ――そういってナゲットも部屋を出ていった。しんと静まり返った部屋にひとり取り残された撤兵は、今更ながら他人の家に世話になる際の妙な寂寞感に襲われ、ついスマホを求めてポケットに手を伸ばすのであった。

 それから十分ほどが経った現在、撤兵はすっかりナゲットを待ち飽きていた。テーブルにぐでんと上体を預け、伸ばした手の先でスマホをいじる。友人らのSNSを覗いてみると、なんでも今日は駅前でラーメンフェスタが開催されているらしく、朝っぱらから湯気の立つラーメンの画像が何件も投下されている。醤油ラーメンから始まり味噌ラーメン、豚骨ラーメンに干しエビラーメン、変わり種レモンラーメン………いいなあ。思わず撤兵の口からため息が漏れた。

「みんな気楽でいいよなあ。俺なんかこれからド田舎行きだってのに」

 きっと彼らはこれから夜まで駅周辺で遊んで、喜多方ラーメンだの長浜ラーメンだのを食い尽くすのだろう。水に恵まれすぎた辺境の地へ行かされる自分をさしおいて、まったく薄情なことだ。撤兵が羨望を通り越して僻み混じりに液晶画面を睨みだした頃、軽やかな足音をさせながらナゲットが戻って来た。その右手には大きめの巾着が提げられている。五百ミリリットルのペットボトルが三本は入りそうなサイズだが、一体中には何が入っているのだろう。スマホをテーブルに置き、撤兵はその麻袋について尋ねた。

「なんすかそれ?」

「大したものじゃないよ」

 いいながらナゲットは空いた手で巾着の中身を取り出す。彼の発言に嘘はなく、それは大したものではなかった。

「えーっと、ランプ?」

 反りあがった三角形を四枚立てかけて作った方形型のシェードを被せたそれは、小さな家のようだった。四面のガラスは屋根と同じ紺色の鋳物で十字に区切られ、加えて直線的なハート模様があしらわれている。屋根のてっぺんに通した金具に丸い持ち手がつけられており、持ち運びが可能になっている。ガラスの一面についている小さな錠を見る限り、そこを開け閉めしてろうそくを入れるのだろう。しげしげとランプを観察していう撤兵に、ナゲットは大きくうなずいた。

「そうそう。もっと正確にいうならランタン。これはどこぞの道の駅に寄って買ったものでね。陶器市とかあるだろ、それの鋳物バージョンをやってたんだよ。たしか四つ買ったなあと思って、さっき部屋を探してみたんだ。これ最後の一個。君のために使ってあげる」

「俺はランタンなんか使わないっすよ」

 今どき、灯りになるものなんて懐中電灯なりスマホのライト機能なりいくらでもある。わざわざランプ――ランタンを使う必要はない。

「ていうかそれ、本当にただのランタンなんすか? 藍子のロケットみたいに実は呪われてて、俺で試そうとしてるんじゃないんすか?」

「君ねえ、私がそんなことする男だと思うのかい?」

「はい」

 きっぱりした口調で撤兵は頷く。ナゲットとは昨日からの付き合いだが、撤兵からナゲットへの信頼度は地の底、マントルを突く勢いである。この男はきっと火口に立ったら自分をマグマに突き落とすし、自分が交通事故に遭ったら救急車を呼ぶ前に笑いながら写真を撮る。撤兵にはそんな確信めいた予感があった。そんな信用の薄い――というより、ない――ナゲットは、雑用係からのあけっぴろげな不信感に眉をひそめる。「失敬な」

「これ自体に遺想いそうはこもってないよ。あ、遺想っていうのは君がいうところの呪いね」

「いやこれ自体にはって、」

「いいからほら、バンザーイ!」

 撤兵の体は指示に隠された意図を考えるより先に動いた。耳の後ろに両腕をつけるお手本のようなバンザイをする撤兵。するとそのがら空きになった胸めがけて、ナゲットが鋭く手を伸ばしてきた。殴られる――反射的に体を硬直させた直後、撤兵は自身の体に驚くべきことが起こるのを見た。ナゲットの腕は、撤兵の胸を貫通していた。いや、正確に背中を貫いていたかは不明だが、少なくとも彼の手首から先は撤兵の胸を貫通していた。悲鳴が臓腑からせり上がってくるまでコンマ数秒、

「ぅぎゃぁあああああぁぁ?!」

 ダイニングを超え屋敷中に響いたであろう撤兵の悲鳴。それもそうだ。20年とい短い人生の中で、胸を貫かれたるなんてショッキングな経験はなかったはずだ。まあ大抵の人間にはそんな経験はないがそれは置いておいて、とにかく撤兵はパニック状態に陥った。あまりの混乱に腕を下げることもままならず、ナゲットの顔と腕の間で何度も視線を移動させる。「ウワアッ、ウワアー!? ワァア、ワァッワァア!?」

「あははははははっ」楽しくてたまらないといった様子でナゲットは笑う。「君、いい反応をするじゃないか! 下手な芸人よりよっぽどリアクションがうまいよ」

「そそそそそそそんなことどうでもいいいいいから、ぬぬぬ抜いて、腕を抜けぇ――!」

「いいよ」

「ヒッ」

 軽く返事をしてナゲットは撤兵の胸から腕を引き抜くが、撤兵の混乱は収まらない。自分で頼んでおいてなんだが、本当に抜くやつがあるかッ。成人男性の手首サイズの穴が胸に開いたのだ。血が、血がとまらなくなる、血が――「あれ?」

 血が出ていない。ついでに胸に穴も開いていない。撤兵は信じられない気持ちで何度も胸のあたりをなで回すが、出血も陥没もしていない。「み、見間違い……?」たしかに胸を貫かれていたはずなのだが。当惑した顔の撤兵に、ナゲットは口角を上げる。「まさか」

「今さっき僕が君の胸をズドォーンっと貫いたのは現実さ。その証拠に、ごらん」

 促されたのはさっきまで撤兵の胸に突っ込まれていた腕だ。肘から下腕、手首と追っていくと、その手にはろうそくが握られていた。先ほどまでは持っていなかった代物だ。おまけにろうそくの頭には火がついていた。撤兵が悲鳴を上げていたのはせいぜい三十秒ほどのことで、その短時間にナゲットが隠していたろうそくを取り出し火をつけたと考えるのは無茶がある。現実を超越した状況に立て続けに見舞われ、撤兵はほとんど卒倒寸前だった。そんな青年を嘲笑うかのように、ナゲットは更に非現実的なセリフを口にする。

「これはねえ、君の魂。落語の演目に死神ってあるだろう?」

「知らないっす」いい加減な大学生に教養なんて期待しないでほしい。

「君本当に馬鹿だなあ。あるんだよ、今度検索してみなさい。まあいいや。とにかく、これは君の魂を目に見える形にしたものだ。これに息を吹きかけて火を消したら、君は死ぬ。また火をつけたら生き返る。分かるね?」

「分かんないっす」

 首を横に振る撤兵を察しが悪いと罵るのは可哀想だ。撤兵に限らずほとんどの人間は突然こんなことをいわれても素直に飲み込めない。それはナゲットも理解しているようで、ゆらゆら揺れるろうそくの火を口の前まで持ってくると短く、

「体験した方が早い。ふっ」

 それは撤兵が生涯で何度か経験するうち、初めてのブラックアウトだった。


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