4 おうすうちゃん

「これは君からいただいたものだったね」

 それは藍子がくれた、あのロケット付きのペンダントだった。しかし、撤兵はすぐにはそれが自分のものだと信じられなかった。というのも、ロケット部分から黒い糸束のようなものが無数に伸びていたのだ。おまけにそれはうぞうぞと蠢いていて、見間違いかと目をこすっても消えることはない。そんなペンダントを愛おしそうに指でなで、ナゲットは微笑む。

「贈り主のことは微塵も知らないが、よっぽど思いの強い人だったことは分かるよ。ふふふ、生きている間にこんなにも思いをこめられるなんて。僕は怨みとか呪いとか、そういったものは基本的に大嫌いだが、君の恋人はさぞかし執着心の強い、怨霊のような人だったんだろうね」

「藍子はそんな人じゃない」

 撤兵は額を押さえながら反論するが、覇気のない声では自分自身にすらいい聞かせられない。「そんな人じゃない……はず、なんだ」

「子安君は藍子のことを愛していたようだね。しかし藍子から君への思いはそんなものじゃなかったんだよ。ほらごらん、このロケットからはみ出した美しい髪を」ナゲットは怖がる素振りもなく黒髪を指に絡める。「これは昨日の昼過ぎから伸びてきてね。きっと君はそこのマスタードにいわれて、のこのこ藍子の家へ線香でもあげにいったんじゃないか。どぉーせそこで『ごめん藍子。君からもらったロケットを、メイドのコスプレをした変態女に奪われてしまったよ』とかなんとか報告したんだろう」

 変態女とまではいっていないが、ナゲットの予測はおおむね当たっていた。子安の無言を肯定と受け取り、彼は更に続ける。

「ふふふふ。思いの強さといってもピンキリだ。藍子の場合はピンもピン。知っているかい? 物と人の心は親和性が高いんだ。そして強すぎる人の思いは、例え本人が消えても物の中で生き続ける。子安くぅん、女難の相が見える男だとは聞いていたが、これはもはや才能だよ。十全十美の皮を被れるほどの愛憎を抱えた女性なんて、滅多にいるものじゃあない。ふふふふ、ふふふふふ。あははははは」

 発言の意味不明さも相まって、撤兵はもう彼を人間と思えなかった。ナゲットは楽しそうに高笑いし出したかと思うと、次の瞬間には思い切り額をテーブルに打ち付けた。重厚そうな天板から鈍い音が鳴る。

「唯一の問題は……なんでここに来てしまったのか。君が来なければ、このロケットはこのまま私のものにできたのに。実体を伴う幻を、それも第三者に見せるようなこんなに密度の高い思われ物は中々ないんだよ、君ぃ。この価値を分かっているのかな」

「だぁさまの価値観はだぁさま以外には理解できません。さっさと中身を引きずり出してくださいまし」

 部屋の隅にある麒麟の置物に腰掛けたBBQがつまらなそうな声色でいえば、ナゲットはあからさまなため息をついた。

「BBQは本当に貧しい心の持ち主だね」

「じゃなきゃ思われ物蒐集なんざできゃしやせん」

「はあ……マスタード、君はどうだい」

「特に意見はありませんが、思われ物から目を離すのは、およしになった方がいいと思います」

 いわれて一同がテーブルに目をやれば、ロケットが数十センチジリジリと子安の方に近づいて行っていた。ナゲットはカブトムシを見つけた子供の声色で「素晴らしい!」と両手を叩く。撤兵はといったら、もう卒倒寸前だ。

「やっぱり、子安君には死んでもらった方がいいんじゃないかしら。そうしたらこの思われ物が人に危害を加えることはなくなるだろう。私は希少価値の高い思われ物をコレクトできるし、最高じゃないかな!?」

 無邪気な表情でとんでもないことをいいだす男だ。声をひっくり返しながら撤兵は怒鳴り返す。

「しししし、死ぬぅ!? 冗談じゃないッ」

「君は藍子が好きなんだろう。死になさい!」

「い、い、い、嫌だっ。俺が惚れたのは慎ましやかで美人で思いやりがある、優しい藍子だッ。こんな気持ちの悪い怨霊じゃないんだッ」

 こんなのと心中なんかできるか! しんと静まり返った部屋に撤兵の怒鳴り声はやけに響いた。ぽつりとマスタードが「いっちゃった」と呟くが、本音なのだから仕方ない。死んだ後も自分を求めて怨霊になるような女と分かっていたら、そもそも付き合っていなかった。数々の綺麗な思い出は、今やすっかり色あせていた。出会った女性の中で歴代一位だった藍子の順位もワースト一位に転落していた。

「も、もう……もういい。藍子がマトモな女じゃなかったことも分かったし、ロケットの中身にも確信が持てた。本当に髪の毛を仕込んでたなんて……。それはそのままもらってくれ。俺は帰る……」

 すっかり憔悴した様子で、撤兵はナゲットに背を向けた。それから真鍮のドアノブに手をかけ部屋を出て行こうとするが、ドアが開かない。いやそれ以前に、ドアノブが回らない。何度もがちゃがちゃやっていると、その内に子安はノブの付け根に黒い糸がまとわりついているのに気がついた。

「あんなこというから。藍子様、すっかりお怒りだ。子安様、女の執着ってもんをてんで分かっておられませんね」

 マスタード――いや、BBQの声だっただろうか。とにかくメイドの声でそんなセリフが聞こえた直後、子安は視界の端からなにかが飛来するのを見た。反射的にドアの前から飛びのいた子安の前で、鈍い音を立ててドアノブが吹っ飛ぶ。「なななななッ」

「あんさん、不用心な真似するくらいなじっとしていてくださいな」

 ブリキ人形の動きで撤兵が飛来物の軌跡を辿ると、苛立った口調のBBQが腕にぐるぐると鎖を巻いていた。巻き終わった先端には縦に長い台形の分銅がついていて、彼女が持っているものが現代でまさか見る日が来るとは思わなかった鎖分銅であることが分かった。もはや撤兵には今が現実なのか夢なのか判別がつかなくなっていた。自分を見失いつつある撤兵をしり目にBBQはナゲットに提言する。

「だぁさま、こうなってはもうしようがありません。子安様に協力してもらって、藍子様には消滅願いましょう」

「ええー」

「ええもねえもありゃあせん。もうその思われ物も無傷で回収することは不可能。メッキの欠片でも残ればよしとしてくださいまし」

 二人がそうこういっている間にもロケットは垂れた毛をムカデ足のように動かして子安に向かっている。撤兵は喉の奥で悲鳴を上げ、ナゲットに向かって叫んだ。

「ちきしょう、おいアンタ、ナゲットさん!? なんとかしてくれよ。こんなロケットあげるし、金がいるなら払うからっ!」

「ウーン。金は要らないけれど、私の思われ物を台無しにする代償は払ってもらおうかな」

 人差し指を唇に当てるいたずらっぽい仕草はあまりに状況にそぐわない。撤兵は恥も外聞もなく「なんでもいいから助けてッ」と喚き散らした。するとようやくナゲットは満足した様子で、

「いいでしょう! それじゃ、君はそのままこっちを――テーブルの方を向いて立っていなさい。へっぴり腰でもなんでもいいから。逃げたら後ろから、がばぁ、ずるずるずる……だよ」

「ぐぅうう、わ、分かった」

「鎖分銅でね」

「は!?」怨霊ではなく!?

 とにもかくにも、立っているくらいで命が助かるなら安いものだ。意を決してテーブルを振り返った子安の目に飛び込むのは、ペンダントの縁にかかる血まみれの指だった。

「ぎぃやあああ――っ」勝手に踵が回転していく。

 髪はコップからあふれた水のように湧いて、今や床にまで延びようしていた。両膝をわざとらしいまでにガクガク笑わせるその姿といったら、彼のファンがつばを吐き捨てるほどだ。間抜けな青年の姿に笑いを噛み殺しつつ、ナゲットは大声で藍子に語りかけ始める。

「藍子、君の惚れた子安君はクズだ。君の思いを無下にして、自分だけ生き続けようとしているよ! それもこれもぜぇーんぶ女とイチャイチャするためだっ。君以外の女とセックスをして、デートをしようとしているんだ!」

「はッ!?」

「君が死んだのをいいことに、君よりブスで、君より頭の悪い女と恋人になろうとしているんだ!」

「な、なんてこというんだぁああっ」

 ずるりずるりと早回しするように髪は伸び、ペンダントにかかる指は増える。藍子の恨みが満杯になったとき、あのロケットから藍子が飛び出してきて殺される! 撤兵は直感した。近づいてくるペンダントを誰も止めようとしない。まるで撤兵は生贄にされているようだった。そういえば、ナゲットは自分が死んでも構わないといった趣旨の発言をしていた。まさか、自分を囮にしようというのか。途端に撤兵は足がすくんだ。助けてもらえるという信頼から踏ん張れていた足の力が抜ける。藍子の髪は床を侵食し、間もなく自分の足に届く。殺される、殺される、殺される――逃げ出そうとした撤兵の右足が浮いたそのとき、

若気にゃけってんじゃあねぇ!」

 BBQの怒鳴り声に、撤兵ははっとして足を戻した。今の今まで心に爪を立てていた恐怖心が波のようにすっと引いていく。立ち向かう勇気を取り戻した撤兵に続けざまに激励が飛んだ。

「男ならどんと構えて、いっぺん惚れた女の怨霊くらい受け入れろい!」

 ――無茶いうなッ! 内心いい返したい気持ちでいっぱいだったが、撤兵は不思議と自分の腹に芯が固まって、逃げていた腰が帰ってきた。両足を広げ、襲い来るロケットを正面から迎える。「こっこれでいいんだなぁあ!?」

「上出来だ!」

 BBQがぶんぶんと鎖を頭上で振る。テーブルの端に迫ったロケットからは、あざと土で汚れた死人の腕が伸びていた。テーブルからロケットが落ちる寸前、ナゲットが仕上げとばかりに煽り叫ぶ。

「そうだ殺せ、そうすれば彼は君だけのものだ!」

 形容しがたい奇声が洋室に響く。脳みそを掻きまわすその音は、まさに怨霊の咆哮。ペンダントから這い出てきた藍子は醜い顔をしていた。顔の半分は肉が崩れ骨が見え、口元は大きく裂けている。彼女の死に顔なのだろう。酒を飲んだ運転手のトラックに引きずられた、哀れな藍子。春の野原のような甘い声が蘇る――撤兵。大好きよ――

 撤兵が同情に囚われかけた刹那、怨霊の首が横に打ちぬかれた。BBQの分銅が直撃したのだ。彼女はすぐに鎖を引くと、もう一度今度は脳天を貫くかのごとく上から下に分銅を叩きつける。

「マスタード!」

「あいよっ」

 マスタードの振るった分銅は直撃こそしなかったが、目的はそこではなかった。頸部に幾重にも鎖が巻きつくのを確認するなり、彼女はあらん限りの力で鎖を引く。大木が折れるかのような不気味な音を立て、怨霊の首が千切れ始めた。

「んんんぅ! これでぇえっ。六段目おしまいだよぉッ」

 一度緩ませた鎖をマスタードはもう一度強く引く。全体重を乗せたその一引きは、文字通り皮一枚で繋がっていた首を完全に引き千切る。撤兵は怨霊の首が空中に飛ぶところまでは見ることができなかった。というのも、首の断面から吹きだした黒い飛沫が視界を遮ったのだ。まったく不思議なことだが、人肌の熱を持ったそれが撤兵の身体にかかった瞬間、彼はわずかにのこった藍子への思いを吸い取られるのを感じた。

 すべてが夢のようだった。

「お、終わった……?」

 泳いだ目で部屋を見回しても、藍子の姿は髪一本見つからない。尻もちを搗く撤兵。その背がすぐ後ろに会ったドアに触れると、扉が開き廊下の冷えた空気が流れ込んでくる。興奮と冷気で意識だけが冴え、おかしな気分だ。すっかり脱力した撤兵に反して、屋敷の三人は特にこれといった感情も湧かないらしく、ナゲットなどは床に散らばったロケットの破片の回収に当たっていた。

「何度いっても、君たちは思われ物に傷をつけるね。減給かな」

「文句があるならご自分でやってくださいまし。遺想の核が物なんだから仕方ないでございましょ」

「核を壊さず倒せないのかい」

「冗談をおいいよ」

「あ、そうだ。君、子安君」

 ナゲットは拾った欠片を大事そうに懐にしまいながら撤兵の前にしゃがむ。

「代償の話だけれど、君、ここで働きなさいね」

「ああ、はい……。それくらいで済むなら安いもんです……は!?」

「あはははは。ようし言質は取った。マスタード、二階の客間を子安君の部屋にするから、掃除しておくんだよ。BBQ、私は優しいから、彼の食事を保障してあげようと思う。よろしくね」

「はぁい」

 のんきに片手を上げてメイドたちは返事をするが、撤兵はそうはいかない。いや、気が抜けたままに返事をしてしまったが、絶対に嫌だ。

「な、なんで俺がこんなところで働かなきゃ! つか、なにするんだこんなところで」

「思われ物蒐集しゅうしゅうの手伝いかな」

「てことはまさか……い、今みたいな目に……」

「あと何回か……何百回かは遭ってもらうことになるね」

「嫌だぁ――!」

 子安撤兵。これまで女難の相を告げられた回数は十指に余る。そういえばここに来る羽目になったのも、あの夜にメイドと遭遇してしまったからだった。つくづく女に悩まされる男である。

「荷物を取りに行く暇くらいはあげるけれど、もし逃げたら……日本中の思われ物を集めて、君を奈落に突き落とすからね」

 もしも過去に戻れるなら、藍子に告白した日の自分をぶん殴りたい。降参するように撤兵は床に四肢を投げだした。

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