第2話 研修のしおり


「あなた……本当に行くの?」

 傘を持っているのとは逆の手で、妻は僕の腕をつまんだ。

 ざーざー降りの雨は父の葬式をした日から勢いを緩めることなく降り続いている。厚く伸びた雲はどす黒く、昼だというのにまるで夜中のように暗い。

「行くよ」僕は頷いた。

「やめましょうよ。なにかあったらどうするの?」

 目の前にそびえる土蔵に目を遣り、妻は不気味そうに目元を歪める。

「なにかあったら困るから、僕が入って中を確かめるんだ」

「いいわ、そんなの。あなたになにかあったら私……。警察の方を呼びましょうよ、ね」

「聞き間違いかもしれないんだろ? なら警察を呼ぶわけにはいかないよ。少なくとも僕が行って、同じことが起こるか確かめなきゃ」

「でも……」

「大丈夫。君はただでさえ栃千とちのことで疲れてるんだ。不安は早めに取り除いておかないと」

 妻の手を振り払うように、僕は蔵の扉に手をかけた。怯えるように妻が数歩後ずさる。半ば強引に蔵に入ろうとすると、

「あ、お義母さん」

 声につられて玄関に視線を移すと母がこちらに歩いてくるのが見えた。

「……まただよ」

 その言葉に僕は妻と顔を見合わせる。次の瞬間には妻は傘を放り出して玄関に駆けていった。妻の傘は彼女と、そして僕を入れていたもので、いうまでもなくそれを投げ出されたら僕は雨ざらしになるのだが、気にする余裕もなかったのだろう。

「…………」

 妻の後ろを追うでも、自分になにかいうでもなく、母はその場に立っている。

「母さん、傘くらい差さないと風邪引くよ」

「構わないよ」地面に落ちた傘を拾い、母に差し出すが、母は首を振るだけで受け取らない。「もうこの年だ。どうなろうが構わない」

「そんなこといわないでよ。こんないい方、父さんには悪いけど、ようやく自由になれたんだからさ」

「…………」

 黙りこむ母の前で、僕はどんな自分を出せばいいのか分からなかった。この村に帰って来てからずっとそうだ。夫である自分、子である自分、父である自分。そのどれもがこの村には合っていないようで、首の後ろからじわじわとかびていくような、嫌な気持ちが収まらない。

「家に戻ってなよ。僕はこの蔵の中を見るからさ」

 返事をしない母を横目に、僕は蔵の扉を開けた。湿気た扉は妙に木肌が柔らかく、腹の底をなでられるような不快感を覚える。

 蔵の中は静かだった。そして真っ暗だった。右手に持った懐中電灯を点け、正面を照らす。ぼうっと映るのは土の床と、左右に置かれた棚の脚。

「誰かいるんですか」

 恐る恐る声をかけてみる。

「も、もし、どなたかこの蔵に入り込んでいるのでしたら、今出てきてください。今なら、面倒事にはしません。警察にもいいません。本当です」

 いいながら左右に光を向けてみる。土蔵は通気性に優れているというが、生憎この村は一年のほとんど雨が降っている。傍の棚に置かれた白っぽい木箱などは、こうして照らすだけでも黒い点に浸食されているのが分かった。鼻で息をすると掃除を怠ったエアコンを動かしたような臭いがする。身じろぎするだけで、かびの胞子が飛ぶような気がした。

「ほ、本当に誰かいませんかー」

 徐々に蔵の奥に進んでいく。今にも暗闇から浮浪者が躍り出てきて、錆びた鉈を掲げて襲い掛かって来るんじゃないか――そんな想像が次から次に浮かんでくる。

――ぅ、ア

 蔵の中は亡父の品が所狭しと置かれていて音の反響が悪かった。一つの物音も聞き漏らさないよう耳を澄ませていると、微かに聞こえる雨音に別のものが混ざっているのに気づく。

――るな……ぅううぅ。

「だ、誰だ!」

 懐中電灯をあちこちに向けるが、人影はない。

「誰かいるんだろう! 出てこい、今出てこないと、本当に警察を呼ぶぞ!」

 もはや自棄だ。懐中電灯で暗闇を刺しながら、ずんずん奥に進んでいく。それと共に声はどんどん大きくなった。

――るな、取るな、取るなァあ。

「ここは僕の父の土地だ。取るなもなに、も……ぅ」

 突然、視界がぐにゃりと歪んだ。思わず傍らにあった棚にもたれかかる。

――取るな、取るなぁあぁアア。

 しわがれた男の声が、まるで脳みそに直接吹き込まれているかのようだった。なんとか正体を暴こうと試みるも、右手が鉛になったみたいに重い。それに点いているライトの光も、揺らぐ視界の中では眩しくて耐え難かった。ここにいてはいけない。今更ながら本能が警鐘を鳴らす。出なくては、出なくては。

「う、うう、誰か……」

 とうとう立っていられなくなり、僕は地面に飛び込むように倒れこんだ。耳の穴に膜が張ったような錯覚の中、妻の悲鳴が聞こえた気がした。



 何度も来たことのある、しかし絶対に行けない場所。夢の中にだけ現れるその場所は、何人目かの彼女と一度だけ行った、栃木のコスモス畑に雰囲気が似ていた。コスモスこそ咲いていないが、青い芝の上には点々と白い小さな花が咲いている。撤兵は一人そこに立っていて、文字通り夢心地で風に揺られていた。水に投げ入れた軽石が浮かんでくるように、意識は薄々現実に近づいている。目覚めたくないと思うほど、この原っぱは居心地が良い。編み方も知らないが、花冠でも編んでみようかしら。

「起きなよ、撤兵」

 微かに女の声がした。さてはまたどこぞの女が入り込んできたんだろうか。いや、それともまさか、藍子か。藍子がまた俺を連れにきたのか。はっとして隣を見れば、顔周りのぼやけた、紺色のワンピースの女が座っていた。

「起きなってば」

 女は身体をこちらに傾けて、右の手を伸ばしてくる。頬のあたりをなでられる感触に、白い肌の記憶が蘇る。女の子の身体は皆柔らかいが、中でもケーキのように柔らかい藍子の体を始めて抱いたとき、俺はこのために男に生まれてきたんだと涙を流しそうになったっけ。

「起きなったら」

 藍子は結局とんでもない女だったけれど、あの肌の感触は未だに幸せな記憶として残っている。そう考えると、つくづく俺は男なんだなあと実感する。

「起きろってんのが聞こえねえのか! このすっとこどっこいッ」

「ぐぅう、い、いたい――ギャアッ!?」

 鳩尾が抉られるような激痛。痛みに目を剥く撤兵の視界いっぱいに、全体的に真っ赤なBBQの顔が広がっていた。悪夢だ! 思わず両手を前に突き出すと、まさか突き飛ばされると思っていなかったBBQは後ろに一回転しながら床に落ちていく。

「いったた……」打った頭を押さえつつ、BBQは撤兵を睨んだ。「なんてことするんだい。まったく酷い人だよ」

「ご、ごめん。でも起きてすぐに人の顔があったら誰だってびっくりするって」

「こんなうっつくに起されてなにが不満なんだい」

「ウッツクゥ?」

 唇を尖らせる表情からして、どうせ美人とか美少女とかそういう意味なのだろう。撤兵は否定こそしないが、素直に頷くこともできなかった。BBQ――彼女を褒めるということはもう一人のメイドを褒めることにもなる――の顔立ちは、パーツの位置でいえば確かに整っている。しかし、なんというか、目が怖いのだ。歪んでいるというか、呪いに近い悲壮感を感じるというか、とにかく怖い。見る者に不安を与える目をしている。口に出したらきっと怒るのでいわないが。

「なんていうかさあ、怖いんだよ。その目」

「口の減らない男だね」

 いってしまった。「嘘。嘘。ごめん」できるだけBBQの顔を見ないようにしながら撤兵は寝直そうとベッドに寝転がる。

「手前、起こしに来た人間の前でもっぺん寝直す奴がいるかい」

 苛立った声が足元から聞こえるが、生憎眠気に勝てる者などいない。なにせヒトの三大欲求だ。「あと五分……」

「ああそうかい。分かった。そんなに眠てぇんなら、二度と起き上がれねえようにしてやらぁ」

 物騒なセリフの裏に、チャリチャリという金属質な音が聞こえた。頭の中で金属音と音の主のイメージが合致した瞬間、撤兵は身の危険を感じて飛び起きる。スーパーヒーローよろしく片膝をシーツについてBBQの方を見遣ると、案の定鎖分銅を構えた彼女がいた。

「あ、朝から物騒な!」

「うるせえこのひょうたくれ! 嫌ならさっさと起きろってんだ」

 ちょっと寝起きが悪いだけでそんなに怒ることないじゃないか。ぶつくさいいながら体を起こす撤兵に照準を合わせるBBQは、さながら必殺仕事人。姿を見せて恐怖を煽っている分、彼らよりよっぽど質が悪い。まあ天井から狙われても困るが。撤兵がベッド脇に置いたスリッパに足を突っ込み、伸びをしながら立ち上がったところで、ようやく彼女は鎖分銅を下ろした。

「毎朝こんなので起こされたらたまんないんだけど……」

「朝飯食いっぱぐれるよりマシだろう」

「メイドなんだし、もう少し優しくさあ」

「あたしはナゲット様のメイド。で、お前さんも今日からあの人の雑用係。あんたとあたしは、同じ雇用主を持ついわば同僚。お分かりかしら」

「あんま分かりたくねーなー」ドアノブを押し込みながら撤兵は昨日のことを思い出していた。

――君、ここで働きなさいね――ナゲットにいわれた言葉が蘇る。撤兵が藍子の呪縛から逃れてまだ二十四時間も経っていなかった。あれから撤兵はメイド共々一度アパートに帰り、目下一週間ほどの下着や荷物を持って屋敷に戻った。どうやらあのナゲットとかいう男は、本気で自分を住み込みで働かせる気らしく、その日のうちに大家に退去の電話をさせられた。もちろん即日退去とはいかないので、引き払うのは来月の今頃、それまではほとんど家を空けることを伝えた。喋りながら自分は実は夢を見ているのではないかと思ったが、なにを察したのか横からマスタードが頬をつねってきたため、痛みで全て現実であることを思い知らされた。

 ダイニングは階段を下りてすぐ右手にあった。BBQを先頭にすりガラスの扉を抜けると、いかにも朝らしいコーヒーの香ばしい匂いが鼻を突く。脚に装飾の施されたテーブルには、手前に二脚、奥に二脚、そして左側面に一脚の椅子が置かれており、側面の一脚にはナゲットが座っていた。初対面のときといい、お誕生日席が好きなのだろうか。

「やあ、おはよう」

 牛乳の注がれたコップを片手にナゲットはにこやかな笑みを向けてくる。昨日とは違い、無地のシャツにモヘヤ素材のカーディガンという、ごく普通の装いで、背中には鹿の角も生えていない。やはり昨日の格好は、なにかの演出だったのだろうか。

「昨晩はよく眠れただろう?」

 命の恩人からの挨拶にもちろん撤兵も満面の笑みと感謝の言葉を返――せるわけもなく、乾いた声で「ハハ」と愛想笑いを返すだけだ。どう曲解したのか知らないが、ナゲットはそんな撤兵の態度を見て更に笑顔を輝かせる。

「ウンウン。元気そうでなによりだよ。なにせ君には今日から馬車馬のごとく働いてもらわなければならないからね!」

「だぁ様、朝から騒がしくするのはよしとくれ。あんたの声は頭に響くんだよ」

 額を手で押さえつつ手前の席に着くBBQ。よく見ると彼女が座った位置にはコーヒーカップが置かれていた。主人が牛乳でメイドがコーヒーか。特に問題はないが、なんとなく『逆だろ』という気持ちにさせられる。撤兵はどこの席に座ろうか迷った末、BBQの隣に腰を下ろすことに決めた。つやつやしたテーブルに肘をついたところで気づいた。そういえばマスタードとかいう黄色いメイドが見えない。ぼーっとした雰囲気があったし、まだ寝ているのだろうか。姿を探すように撤兵は目だけできょろきょろと部屋を見回しだす。ダイニングの奥の壁には大きな窓がついており、靴さえあればそこから外に出られそうだ。そしてその左側、つまり撤兵が座っている側の壁は扉一枚分ぽっかり穴が開いていて、恐らくリビングに直結しているのだろうと予想がついた。反対側の壁は埋まっているが代わりに古めかしいシェルフや観葉植物が置いてある。

「めぼしい物はあったかい?」

 気づけばBBQがこちらを見ていた。撤兵はなんだか悪いことでもしたような気分になって慌てて首を振った。

「いやいや。俺はただ、マスタードだっけ? あの黄色い子がいないから気になっただけで」

「マスタード? あん子なら隣で料理してるよ。今日の食事当番はマスタードだからね」

「そうなんだ」

「ほら、噂をすれば」

 指さされた方向に視線を向けると、丁度すりガラスにメイドっぽいシルエットが浮かんでいた。シルエットは両手になにかを持っていて、ドアの前でちょっと止まった後、器用に足でドアノブを下ろして部屋に入ってくる。

「あら。撤兵君、起きたの。おはよう」

 これはBBQも同じなのだが、このメイドらは自分がナゲットに雇われると分かった途端に敬語をやめた。フレンドリーといえば聞こえはいいが、悪くいえば無神経。ていうか、無神経の方がこの二人には合っている気がする。もしくは現金だ。

「マスタード……。何度もいってるけどね、お前さん、ドアを足で開けるのおよしよ。行儀の悪い」

「仕方ないじゃない。両手が塞がってなかったら、ちゃあんと手で開けたよ」

 いつものやり取りなのだろう。マスタードは適当にいいわけして、両手に持った皿をテーブルに置く。白い皿には半分に切られた食パンと目玉焼き、ハム、そしてちょっとしたサラダが盛られていた。これほど朝食らしい朝食は逆に珍しい。朝食といえば菓子パンかバナナで育った撤兵は軽い感動を覚えた。

「おお……!」

「ん? なぁに、感動したみたいな声出して」

「感動してんだよ。こんなにザ・朝飯って感じの飯、修学旅行くらいでしか食ったことない」

「悲しい過去がおありなのね……」

「違うわ!」

 勝手に人の過去を想像して勝手に哀れむな。割烹着の袖で出てもいない涙を拭うマスタードを睨みつけ、撤兵はモーニングプレートを自分の前に引き寄せた。すかさず残りの一枚をBBQが引き寄せ、ナゲットは笹を取り上げられたパンダのような顔をする。

「君たち、雇い主より先に食事を食べようなんて、一体どういう神経してるんだい」

「皿一枚でぐちぐちいうなんて、雇い主にしては狭量なんじゃないすか。いただきまーす」大口を開けて食パンにかじりつく撤兵。

「そうそう。無駄にでかい図体してるんです。それ以上育ったって損ですよ」プチトマトを頬張るBBQ。

「BBQも撤兵もだぁさまも、つくづく男の人ってくらだらないねぇ」

「BBQは女の子だろ」

 撤兵のツッコミには応えず、マスタードはダイニングから出ていく。戻って来た彼女の手には残り二人分の皿があり、これで朝食の場は完成したことになる。

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