3 三十六計
鬱蒼とした森の中にその屋敷はあった。わずかな日光から顔を背け、ぬっとそびえるその屋敷は、ゴシックファンタジーの世界から丸々盗んできたような姿をしている。ステンレス製の門扉はさび付いていて、そこから左右両方向に伸びるフェンスは悪魔の尾のように尖った先端で空を突き刺している。湿気た空気に長年さらされたためか、漆喰の壁には黒ずんだカビが生えているのが、離れていても分かった。
――もしもし、ああ。昨夜はどうも。思われ物の返却、どうされますか?
――その……返さなくていいよ。ただ、確認したいことがある。
――そうおっしゃると思っていました。では今から住所を伝えますので、明日の夕暮れにいらっしゃってくださいな。
――ええっ? 俺が行くのか。
――もちろん。ただし返却をお望みでしたら、今すぐにでもそちらへ向かいます。
――ああいい、いい、いいよ。行く。
――素直は美徳でございますね。
昨日藍子の家を出た後、撤兵は例の不審なメイドからもらった名刺に載っていた番号に電話を掛けた。するとすぐに――どちらのメイドかは分からないが――一昨日の晩に聞いたような女の声がし、こちらの都合を無視して予定が組まれた。麻雀の誘いもデートの誘いも、あろうことか大学の講義すら欠席し、撤兵は隣町の郊外にある森に向かった。
撤兵が住む根近市から隣の三日町までは電車で十分程度。三日駅からバス停まで徒歩で五分、駅前のバス停から森近くのバス停まで三十分、最後にバス停からニ十分歩き、合計一時間五分の旅路を終え、撤兵は指定された住所にたどりついた。いうまでもなく、辿りつけたことへの感慨はない。むしろ今すぐ背を向けて帰りたいところだ。あー、どうしよう。帰っちゃおうかな。底冷えするほど寒い風に、撤兵の弱気は煽られた。
「もし、あんさん。まさか帰ろうなんざ思っちゃないでしょうね」
「いやあ、だってさあ。気になるよ? 真相。でもこんなところに入ってまで知りたいかといわれたら――ワッ!? 」
驚いて振り返ると一昨日会ったメイドの片割れが立っていた。右手にはスカーフのかけられた木製のかごが提げられていて、中身は見えない。草か木の実でも取ってきた帰りだろうか。いや、それよりも。
「いつからそこにっ」
「今ですよ、ええ」
山吹色のメイドは、撤兵の恰好を上から下まで眺めると「ふ」と鼻で笑った。撤兵は背後に立たれていた驚きも忘れ、瞬間的な羞恥を覚える。
「な、なんだよ。なんで笑ったんだ」
「いえ。なんでもありゃしませんよ。ただPコートに革靴なんて、ちょいとお山を舐めておいでかしらって」
「お、お山ったって、ここは山の裾だろ。大丈夫だと思ったんだよ。それに人と会うんだし、綺麗めの恰好した方が良いのかなって思っただけで、本当はアウトドアブランドの方が好きだし……」
段々威勢の弱くなっていく撤兵。メイドは小さく息をつく。
「まあ、そのあたりはなんでもよござんす。お寒いでしょう。どうぞお入りくださいまし」
メイドはそういって門扉の正面に立つと、両手で蛙の像がくわえるリングを取り、ぐっと奥に押し込む。しかし扉は相当さび付いているのか、一向に開く様子を見せなかった。
「ちょいとお待ちくださいまし」
撤兵にかごをおしつけ、メイドはもう一度門の正面に立つ。それからなにをするかと思えば――
ガンッ! 思い切り扉を蹴飛ばした。清楚と謙虚を絵に描いたような、メイドの恰好をしておきながら、とんでもない暴挙だ。撤兵は内心ドン引きする。しかしイメージダウンの甲斐あってか、扉は鈍い音を立てて人が二、三人は入れるほどの隙間を生んだ。メイドは満足げに頷き、すました顔で「どうぞお入りくださいまし」とお辞儀する。
門から玄関までは舗装こそされていなかったが、足で作った轍ができていた。病人のように青白い芝生はどれも頭を垂れていて、夜になったら人の足を掴みだしそうだ。左方に見えるガーデンテーブルにはどういうわけか黒っぽい蔦が絡まっていて、ここ数年は使っていなそうな雰囲気を醸し出している。
「どうかなさいましたか」
「い、いや。なんでも」まさか幽霊屋敷みたいですねとはいえまい。
「さあ、どうぞ。奥の部屋でだぁさまがお待ちですから」
「だぁさま……?」
どうにもメイドのいい回しは浮世離れしている。撤兵は首を傾げつつ、促されるまま玄関の中に入っていく。外観であれだ。中はどれほど荒廃していることかと目を細めるが、案外内観は美しさを保っていた。腰壁には細かな傷が見られるが、クリーム色の壁紙は角までびっちりと貼られていて、汚れや日焼けも見当たらない――まあこの屋敷は、日が当たる場所の方が少なそうだが。正面の壁は一部屋分、玄関側に突き出ており、部屋の両サイドに廊下と扉が見える。
「いらっしゃいまし」
「ギャッ」
屋敷の内装に唸りをあげていると、不意に左から声がした。びっくりして声のした方向を見やれば、ダークブラウンのドアから茜色の髪のメイドが顔を覗かせている。これで双子がそろった。赤いメイドは軽い足取りで玄関までやって来ると、「肩こりの調子はいかがですか」と口角を歪めた。
「おかげさまで……。あの夜はよくも絞めてくれたな」
首を絞められる不快感を思い出しながら撤兵がいえば、メイドは心外とばかりに肩を竦める。
「失礼な人だね。あたしはそんなことしゃあいませんよ。あんさんの首をぐいーっとやったのは、そっちのマスタードだ」
「マスタードォ?」
おかしなあだ名があったものだ。怪訝そうに聞き返せばマスタードは無表情のまま両手でピースする。「マスタードと申します。よろしくどうぞ」
「あたしは
「それは大変。さ、ええと……なんてお名前でしたっけ」
「子安」下の名前を教えるのは憚られた。
「子安様、どうぞ。こちらに。ああ、無理な話かとは思いますが、だぁさまを見ても驚いてぶっ倒れたりしませんように。あたし介抱は御免ですから」
「クマの親分でも現れるのかー?」
若干芝居がかったセリフに、子安は馬鹿にした笑いを浮かべる。出てきたところで浮浪者まがいの変人とかその辺だろう。見も知らぬ家主を内心小馬鹿にしながら、撤兵は前を行くメイドについていった。
結論からいえば、撤兵はぶっ倒れはしなかった。ただ代わりに大きく顔をしかめ、顔中のパーツを中心に寄せた。
無数の骨董品で飾られた部屋の中央には長いアンティーク調のテーブルが置かれており、最奥の椅子には派手な髪と衣装に身を包んだコスプレ男が座っていた。目に眩しいライム色の髪には毒々しい紫のメッシュが入れられ、瞳も同じ毒っぽい色をしている。それにコスプレ用のカラーコンタクトでも使っているのか、瞳孔の形がおかしい。服装はどんなに肯定的に捉えようとしても「おしゃれすぎた人」としかいえない。極めつけに彼の背中からはヘラジカの角に黒い宝石を張り付けたみたいな、謎の物体が生えていた。もちろん衣装の一つなのだろうが、どういう趣味をしていれば赤の他人の前でこんな格好をできるのだろうか。恥はないのか。そもそも角の幅からして、部屋に入るときに引っかかってしまうんじゃないだろうか。一見しただけで子安の頭には様々な思いや疑問が逡巡した。微動だにしない撤兵の横で、メイドたちがこそこそいいあう。「立ったまんま気絶したのかしらん」「まさか、そんな器用な真似ができる御仁とは思えんね」
「こらこら、マスタード、BBQ。客人の前でこそこそ話をするのはおやめ」失礼なことを囁き合うメイドをいさめるコスプレ男。「いうならきちんと陰でいうものだ」
「はぁい」
「……おや、反応がないね」
呆然と立ち尽くす撤兵にコスプレ男は若干つまらなそうにいう。
「こういうことをいったら普通は、『そういう問題じゃぬわあぁいっ』とか怒ったりするものなのに」
コスプレ男とマスタード、そしてBBQの視線を一身に集めてようやく、撤兵は自分に突っ込みが振られていたことに気がついた。
「だぁさまがそんな不審者みたいな恰好なさってるから悪いんですよ。その珍妙な恰好に気を取られて、おふざけすらまともに拾ってもらえないんですから世話ないです。たまにはスーツでも着なさいな」
「あれは前の身体で着てから懲りたよ。身体が布に押し込められている気がして、すごく不愉快なんだ」
前の身体? いよいよもって不審者だ。撤兵はのこのここんな森に出向いてしまったことを後悔した。タダ同然の骨董品を高額で売り付けられるならまだいい。おかしな薬物でも打たれてしまったら、一生を棒にふることになる。片足を半歩引いて逃げられる姿勢を取ると、目ざといBBQは嘲笑混じりに頬を歪めて口を手で覆う。
「やだよ、子安様。逃げようとしてるじゃないか。あたしたち、そんなに怪しいもんじゃないのに」
一方コスプレ男は鈍いのか、「なんで逃げるんだい?」ときょとんとした表情でメイドと撤兵を交互に見た。それから一拍置いて納得した様子で手を打つ。
「ああ、私が名乗っていないからか。そうかそうか、たしかに名前も知らない人間の家に招かれたら怖いね。私の名前は……BBQ、今の名前はなんだっけ?」
「忘れっぽくてしかたねえなぁ。今のだぁさまはナゲットだよ」
「そうか。そういうことらしい。私の名前はナゲットだ。というわけで、僕は自分の名前を教えたし、君の名前を教えておくれ」
「…………鈴木」もはや本名を教えることすら憚れる。
「子安様です。下の名前は撤兵」
フルネームをばらされた撤兵は今度こそ左腕を後ろに引く。今すぐにでも走り出せる体勢だ。身の危険を肌で感じる子安の不安などナゲットは慮る素振りもない。おもむろに着物の中に手を突っ込むと、金属質な音を立ててなにかをテーブルに置いた。
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