2 遺すもの

 翌日大学の講義が終わると、撤兵は藍子の実家へと赴いた。出迎えてくれた母は、幾分頬がこけていたが、それでも事故直後よりは健康そうに見えた。しばらく線香を上げに来ていなかったことを謝罪し、詫びと供え物を兼ねて買ってきたゼリーの詰め合わせを渡した。

「藍子、子安君が来てくれたわよ」

 仏壇のある和室に入りながら、母はまるで藍子が生きているかのような口ぶりでいった。まだ藍子が死んだことを受け止め切れていないのかもしれない。レースのカーテンが閉められた部屋は薄暗く、隙間風が入って来るのか少し寒い。

「お茶をいれてくるわね」

「あ、お構いなく」

 お義理程度に断り、撤兵は仏壇の前に座った。果物や白米の供えられた仏壇には、綺麗な笑みをこちらに向ける藍子の遺影が飾られていた。その姿を見ただけで過去の思い出が一気に蘇り、涙がこぼれそうになる。

「藍子、久しぶり」

 線香に灯した火を手うちわで消す。挨拶をしつつ線香立てに挿してから、鈴を鳴らして手を合わせる。昔からこういうとき、故人にどう話しかけてよいか分からなかった。親戚の法事では皆、つつがなく、または親しみを持って仏壇の前に座っていたが、特に今日は純粋に参りに来たわけではない。とりあえずペンダントを取られてしまったことを謝るに留め、顔を上げたその瞬間だった。

 遺影の藍子がこちらを睨みつけていた。

 口元にかかる乱れた黒髪に、ぎらついた目。幽鬼より深い憎悪の顔つきで、藍子は子安を凝視していた。目を逸らそうにも、まるで押さえつけられているかのごとく身動きが取れない。

 撤兵がようやく遺影から視線を外せたのは、茶盆を持った藍子の母が仏間に入って来た頃だった。

「――子安君?」

「はっ……はぁ、は」息を荒げて振り返る娘の恋人に、彼女は不審そうに「大丈夫?」と尋ねる。

「す、すみません。こうしていると、やっぱり藍子を轢いた男が許せなくって」

「ああ……。そうね、私も同じ気持ちよ」

 いいわけをしながら横目で遺影を見ると、藍子は手を合わせる前と同じ、柔和な微笑みを浮かべていた。さっきのは一体なんだったのだろうか。そんなことつゆほども知らない藍子の母は、寂しさの見える笑顔で子安を座卓に誘う。

「どうぞ。いただいたゼリーも、せっかくだから一緒に食べましょう」

「あ、ありがとうございます」

 座卓に藍子の母と向かい合い、二人はしばらく藍子の思い出話に花を咲かせた。デートに作ってきてくれた弁当が、実はほとんど母に手伝ってもらっていたこと。交際を始めた初日、撤兵の家に怒鳴りこもうとした父を藍子が平手打ちしたこと。生前は知ることのできなかった藍子の話を聞くことができた。撤兵からいくつか質問をしたが、メイドがいっていたことや先刻の遺影の件については触れられなかった。母から聞く藍子は一途な恋人うそのもので、遺影が睨んでいるように見えたのは気のせいだといいきかせた。そうだ。藍子があんな顔をするはずがない。飲み会で他の女からのキスを避けきれなかったときだって、藍子は怒らなかったのだから。

 一時間ほど話すと、二人の間に沈黙が下りた。日も傾いてきて、部屋は一層暗くなってきた。そろそろお暇しようかと撤兵が考えていると、不意に藍子の母が顔を上げる。

「あのね、子安君。私、本当に申し訳ないんだけれど、あなたが藍子に酷い扱いをしているんじゃないかと思っていたの」

「エッ」

 予想だにしなかった告白だ。絶句する撤兵に母は両手を振りながら「今は思っていないわ」と続ける。

「その、あの子はあなたと付き合いだしてから、夜中や早朝に帰ることが格段に増えたの。なにをしていたのか聞いても答えなくって、まさか子安君に無理やりその、ね。酷いことをされてるんじゃないかって。最後に不安に思ったのは、藍子が死んだって報せを受けて、病院に駆けつけたときだったわ」

「ま、まさか俺が藍子を殺したって!?」とんでもない濡れ衣だ。

「違うわ! その、あなたには藍子の遺体を見せなかったけれど、もちろん私とお父さんは確認したのよ。そのときに……藍子の髪が不自然に切れていたの。最初は事故で千切れちゃったのかと思ったんだけど、一束だけ明らかにはさみかなにかで切られた感じで。私、子安君に切られたんじゃないかって。でも、今は馬鹿なことを考えてしまったと思っているわ。子安君はこうしてお線香をあげに来てくれたのに。本当にごめんなさい」

 深々と頭を下げられると子安は一気に罪悪感を覚えた。朝帰りや深夜の解散でそこまで疑われると心外だが、あんなに慎ましやかで出来の良い娘がいたら、過保護になるのも無理はない。こちらとしても、そう頻繁に朝帰りさせた記憶はないが、もう少し気遣ってやるべきだった。

「い、いえ。こちらこそ誤解させてしまって申し訳ないです。でも、誓って藍子さんに酷いことはしてません。確かにその……恋人らしいことをしましたが、ちゃんと藍子さんの合意は取りました。今でも彼女を大切に思っています。ずっと」

 しっかり正面を見据えていえば、母は安心したようだった。目の端に涙すら浮かべなら「ありがとう」と頭を下げる。

「そうよね……馬鹿なことを考えてごめんなさいね。そういえば子安君、藍子があげたネックレスは外してしまったの?」

「あ……。それが、昨日鎖が千切れてしまったかなにかで、道に落としてきてしまったんです。そのことを今日は藍子さんに謝りに来ました。一応交番には行ってみたんですが、まだ見つかっていなくて」

 嘘をついたことに理由はなかったが、本当のこともいえなかった。

「そう。戻るといいわね」母親は遺影に目を遣り微笑む。「あのネックレスを用意していた夜の藍子は、これまでで一番幸せそうに見えたわ。ほら、飾りのところになにかしまえるようになっていたでしょう。中を開けた、裏地にマリア様の絵が貼ってあるところよ。あの子あそこに、子安君への思いを全てこめた物をいれたのって、夢見心地だった」

「そうだったんですね……」

 そこまでいうと再び二人の間には沈黙が下りた。今度こそお暇させてもらおう。子安は持ってきた荷物を抱え腰を上げた。

「今日はありがとう。藍子もきっと喜んでいるわ」

 藍子の母は最後にいった。その顔は訪問した直後より穏やかで、少なくとも歓迎されたことは確かなようだった。

「いえ、時間が空いてしまってすみませんでした」

 玄関前で一礼し、撤兵は正面だけを見ながら藍子宅を出る。背中で扉の閉まる音が聞こえると、昨夜と違って雲一つない秋晴れの空を見上げ、

「ふうううぅ」

 藍子がロケットに入れたという、自分への思いを全てこめたなにか。その正体を、撤兵は一連の話からなんとなく察していた。昨日はあんなに返してほしかったペンダントだが、今ではむしろ手から離れたことにほっとしている。

 今でも彼女を大切に思っています――確かに藍子のことを大切に思っている。しかし、その気持ちを追い上げんばかりに、むくむくと不安が大きくなってきているのも事実だ。

「思われ物、か……」

 昨夜会ったメイドの姿が脳裏に蘇る。あのメイドはなにか知っている様子だった。名刺の電話番号が本物かは分からないが、一度かけてみる価値はありそうだ。




「――もしもし、ああ。昨夜はどうも。思われ物の返却、どうされますか?」

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