空にさよならを

ひなみ

本文

 ついに迎えた別れの朝。

 部屋のゴミ箱は、くしゃくしゃにした紙切れで一杯になっていた。

 目の下のクマをメイクで隠す。制服の乱れはなし。リボンはもういらない。念入りに歯磨き。爽やかな香料こうりょうのリップを塗る。無表情も我ながら完璧そのもの。


 この初恋は、永遠に誰にも知られずに終わる。


「やっぱりやめにしたほうがいい。なあ、今からでもまだ遅くはないだろう?」

「だからお父さん、その話はもういいんだって」

「元はと言えば僕達が――ああ、母さんからも何か言ってやってくれよ」

「あなたが後悔する事のないように、自分の好きに振舞って欲しいの。ねえ……わかるわよね?」


 食卓で向かい合った二人の視線の優しさに、決意は揺らいでしまいそうになる。

 私はいてもたってもいられず立ち上がった。


「個人の都合で決めていい事じゃないのは、とっくにわかってるでしょ。それに、私なら平気だって言ってるじゃない」


 目を合わせないようにして家を出る。

 振り返ると、両親はいつもと同じように心配そうな様子で見送ってくれていた。



 宮ノ内みやのうち家には代々≪世界を守護する≫という、何も知らない人間が耳にすれば、「大げさにも程がある」と思われても仕方のない使命がある。それは、決して外部には知られないよう粛々しゅくしゅくと受け継がれてきた。

 長い歴史の裏で宮ノ内家は暗躍あんやくしてきた。束の間の泰平たいへいの世でも、戦火の中であってもそれは変わらない。時には命をして立ち向かう。つまりこの家は、悪しき怪異や異形いぎょうの者を断罪する剣そのものであり、決してけがれる事のない誇りだ。


 この家に生を受けた私は、長女としてこれまで厳しくもしつけけられてきた。文武両道、弱きを助け強きをくじく、一般人と深い関わりを持ってはならない。世界の秩序を守る為なら己をも犠牲にする。その意識は幼い頃から植えつけられたものだ。

 両親からすればいわゆる聞き分けのいい子だった。そんな私は教えを信じ続け、鍛錬を怠たらず不満を漏らす事など一度もなかった。



 通学路には私しかいない。

 かばんの中の便箋びんせんに何度も触れて確かめる。

 側を歩く人は誰もいない、もう慣れた静かな道だ。

 今日もそうなるはずだった。


「おはよう。ねえ、どうして髪切っちゃったの? あんなに似合ってたのにさ」


 背後から近づいてくる声に、


「あなたには関係ない」

 そう言って、振り切るようにして足早に交差点へと差し掛かる。

 ちょうど青信号が点滅を開始するところだ。

 後ろから「待ってよ!」と叫ぶような声が聞こえる。

 そのまま速度を上げて渡りきると、信号は赤に変わっていた。


 振り返ると、道路を挟んで私と彼女は離れ離れになっていた。

 これで元通り。私達の間に存在していた初めの距離に戻っただけだ。

 ――なのに、どうして。顔をそむけられないのはなぜだろう。

 乗用車やトラックが騒々しく走り抜ける中で、その声だけは真っ直ぐ耳に届いた。


「わたしはっ! まだ、『友達』諦めてないからね! だからさ――」


 最後まで聞いてしまえば気持ちは流されてしまう。

 この場を背にして駆けて、チクチクとした痛みを置き去りにして駆け抜け、やがて大きく息を弾ませたまま歩いてゆく。

 こんな感情、知りたくなかった。

 段々とまなが見えてきて、近づく終わりの予感に足は止まる。これが本当に最後だと、自分に言い聞かせてゆっくりと目をつむった。


~~~


 出会いは一年前にさかのぼる。

 とある県立の高等学校、一年の教室。


「あ、えっと。ほら、向こうの席から。これ渡してくれって」

 彼はこちらに振り向いて、私に小さく畳まれた紙を手渡した。

「あ、う、ども……」


 前の席のたちばな君をいつも目で追っている。

 私達はこれと言って特に印象に残る会話をしたわけでも、出来事があったわけでもない。

 おまけに彼はそこまで格好いいわけではない。ただ、いつも友達と楽しそうに話している様子が微笑ましくて、誰に対しても向ける笑顔が素敵だと思っただけだ。


 それでもちょっとした話をするたびに、なぜだか気になって、他の女の子と話しているとそわそわして、意識をすべて持っていかれてしまう。こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。

 これがきっと、好きというものなのだろうとそれだけはわかった。


 ただ後ろから見ているだけだから、彼はきっと私の事を『個』としては認識していない。このままではいけない。クラスが変わってしまう前に何とかしなければ。


「宮ノ内さんは今日も一人なんだね。寂しくならない?」


 荻原おぎわらという女子生徒が今日も声を掛けてきた。

 ここのところ連日、私は話相手のようなものにされている。


「ならないけど、悪い? あとさ」

「『私に近づかないで』でしょ? 本当不思議、どうしてそこまで一人でいたがるのかな?」

「あなたには関係ない」

「冷たいなぁ。わたしは宮ノ内さんと友達になりたいだけなんだけどな?」

 と言って、彼女は顔を近づけてじっと覗き込んでくる。

 私の家は普通ではないと薄々感づいてはいたけれど。


「友達なんていらない」

 私はすぐに目を逸らした。

かたくなだねぇ。うん、そうだ――わたしと『友達見習い』になろうよ!」


 唐突に変な事を言われたのもあってか、私は「へっ?」と調子の狂った声が出てしまった。


「だからぁ、お友達になる何歩か手前の関係って事! 宮ノ内さんってお友達ができるのがアウトなわけでしょ。だったらさ、そこまでいかないくらいならセーフ寄りじゃない?」

「よく意味がわからないんだけど……?」

「つまり! お互いは苗字呼びする、赤の他人と顔見知りの中間くらいの雰囲気で関わっていく、みたいな?」

「友達じゃなければまあ、いいけど」


 これ以上しつこく言い寄られるのが面倒なのもきっとある。とにかく私は勢いに押されてしまった。


「あ、でも! わたし宮ノ内さんの事はあだなで呼びたいと思ってるんだ。そこは今後よろしくね! 例えば不思議の国の――」

「だから、そういうのは無理だって」

「え、そこはオッケーって言うとこじゃないのー!?」


 そういったやり取りもあって、荻原おぎわらさんとはクラスでもよく話す間柄になっていった。


 一方で、たちばな君との席替えは大体が上手くいった。

 唯一遠くに離れてしまった時には、視力が悪いからと嘘をついて彼の近くの席に替わってもらった。


「今回も隣だね。これからよろしく宮ノ内さん」

「よ、よろしくね……!」


 彼の視界にさりげなく入り続ける作戦がこうそうしたのかもしれない。ついに名前を覚えて貰うのに成功した。

 内心にあふれるにやけを、表面に出ないよう何度も噛み殺す。

 諦めるにはきっとまだ早い。


「なるほどなるほど。宮ノ内さんはたちばな君が好きなんだねっ!」

「ななななななっ!? は、違うし……。やめてよ荻原おぎわら

「だって、今すっごいにやにやしてたじゃない。意外と顔に出るタイプなんだね、覚えとこっと」

「いいからあっちに行って!」

「まあまあ、そんなに怒らないで。わたしに協力できる事があったら何でもするからさ?」


 少しずつ荻原おぎわらさんとの距離も近づいていき、それは日常となりつつあった。

 それでもたちばな君との間には特に進展があったわけではない。


 チャンスはいくらでもあった。

 夜中、布団を被って何度も繰り返す妄想だけでは何の役にも立たない。

 自信もなく弱い私は、放課後誰もいなくなった教室で途方に暮れるのみ。

 ただ見ているだけでは何も変わらない。そんな事はわかっているはずなのに。


「ん、どこがわからないんだ? ゆう、一旦それ貸してみ」

「えっ……? あ、あの、ちょっと近くないかな!?」

「あ? 何慌ててんだ。そうしないと見えないだろうが、ほら」


 どうやら彼には早坂はやさかさんという幼馴染がいるようだ。

 緊張して張り詰めていたのが、言葉を交わしただけでぱあっと明るくなる表情。額に流れる汗に上気した頬、泳いでしまう目。その姿はどうしてこんなにも光り輝いているのだろう。

 確実に彼女は彼の事を好いている。

 私も誰かから、こういう風に見えていたりするのだろうか。



「あのね。時間は掛かったけど……もっと荻原おぎわらと仲良くなりたいって思ってる」

「よしっ……! ようやくわたし達も『友達』だね! よっし!」

「さすがに喜びすぎでしょ。じゃあ私ちょっと……行ってくる」

「おやおやぁ? でも宮ノ内さんなら大丈夫、自信持ってこーね!」


 二年になれば。どんなに卑怯ひきょうののしあざけられても、あの子に競り勝ち、彼の隣に堂々と立ってみせる。

 今は劣勢に違いないだろう。それでも、大事にしたい心のり所もできた。私の勝負はここから始まっていくのは間違いない。


「またね、たちばな君!」

 それはきっと、ほとんど叫び声のようなものだった。


 終業式の日の帰り際に勇気を振り絞って声を掛けた。

 心臓の鼓動は速く、顔には引かない熱を帯びたまま、流れる汗が止まらない。

 本当は、下の名前で呼びたい。


「また同じクラスになれたら。いや、違うな。そうじゃなくても絶対に声を掛けるよ」

 その言葉にすら、ひきつった笑顔を浮かべるので精一杯だ。

 それでも、手を振る彼の姿は鮮烈に脳裏に焼きついた。


**


 二年の始業式を間近に控えたある日、夕食時に両親から唐突に打ち明けられた。


 一つは私達一家にとって鍵となる人物の存在について。無尽蔵な魔力をってして戦い続けるのは、いくら宮ノ内家の人間とはいえ不可能に近い。

 だけれどそれを可能とする力を持つ人間を側に置き、継続的に供給をしてもらう事ができるのならば勝機は限りなく近づく。ただ一方で、協力を仰げないとなると苦戦を強いられる事になりそうだ。


 その人物の家族構成を始めとした個人情報も把握済み。

 どんな手を使ってでも引き入れる。それが私の初めての任務となりそうだ。

 容易たやすい。それで世界を守れるのなら、容易いにもほどがあると確信していた。


 その対象が、たちばな君本人だったと知るまでは。


 血の気が引いていくのがわかった。震える手から滑り落ちたガラスのコップは、落下すると床の上で音を立てて砕け散った。私はその破片に映った自分の姿を、ただじっと見つめていた。


「あら……顔色が悪いようだけど、どうかしたの?」

「何でもないよ。今日はもう休むね、おやすみ」

 その場を誤魔化して、それから一日、二日を越え、ついに四日が経った。


 その間、一日のほとんどを寝て過ごした。

 ふと目を覚ましたら、普通の家の子供になっていればと奇跡を祈った。何度も何度もすがるように願った。

 けれど、そうなる事はなかった。


 これまで目を逸らし続けてきた。普通という言葉への憧れはついに、黒くドロドロとした感情の蓋を抑えきれず開け放ってしまった。


 ――今まで何も言わずに従ってきた、それなのに。


 家族で撮った笑顔の写真をすべて引き裂いて、大好きだったプレゼントのぬいぐるみを切り裂いた。全部が全部夢だったらいい。そんな願いはすぐに強い憎しみに変わっていった。すべて壊れてしまえばいい。衝動のままに叫び暴れると部屋じゅうをめちゃくちゃにした。


 駆けつけてきた両親は泣きながら、夜中にも関わらず声をあげて私を強く抱きしめ続けた。


 深夜、泣き疲れたのか眠る二つの影を見つめ、部屋に散らばった残骸ざんがい達に目をやる。「ずっと辛かったよね、ごめんね」。両親のその言葉を思い出すと、大きく溜息をついて首を振った。

 二人を起こさないように優しく抱きしめてそっと離れる。


 テラスに出ると夜空には月が浮かんでいて綺麗だ。

 こんな気持ちで見上げる事になるなんて思いもしなかった。

 告げられていたもう一つは、平穏を打ち破るような戦いの日々がすぐそばまで来ている事。

 来たる魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこ

 あの月もそう遠くないうちに見納めになるだろう。


 その場で寝転がって、星空をぼんやりと見ていた。

 月にはうさぎが住んでいておもちをついている。なんて、作り話を両親から聞かされていた。

 幼少期の私はそれを信じてやまなかった。大人になったら月に行くんだなんて意地になっていた記憶がある。

 その頃を思い出すと少しだけおかしくて、本当に懐かしくて、くすっと笑う。


 立ち上がり、リボンで束ねた髪を下ろす。優しい風が流れると少しだけふわりとなびいた。

 精神を研ぎ澄ますように目を瞑り大きく息を吸う。ふうっとゆっくり吐いて呼吸を整える。

 決意はもう二度と、鈍らせたりなんてしない。

 目を開けてこれまで誰にも見せた事のない、彼への笑顔を月夜に向ける。


「さよなら」


 この声は震えてしまっているだろう。

 優しく照らす光の下で、私はずっと伸ばしていた髪を切った。


 役目を放棄すると言う事は簡単ではない。

 それをひとたび選択してしまえばこの世界を守る者は消え、やがて終焉しゅうえんを迎えてしまうのだから。


 いっそ、この家族が悪い人達ばかりだったらそれもよかった。


 ここまでこの家が続いてきたのは、どれほど投げ出したい出来事があっても、絶望にさいなまれても、強い意思を持って任務を遂行してきた結果そのものに違いない。

 悲しいけれど、これは成すべき――この家が背負ってきた逃れられない宿命さだめだ。


~~~


 昼休み、校舎の屋上にたちばな君はやってきた。

 なんだか落ち着かない様子なのは明らかだ。

 それもそのはず。朝早く靴箱に忍ばせたあれは、ラブレター以外にはあり得ない内容だから。


 遅くまで何度も書き直した最後わたし抵抗てがみ

 叶わない気持ちはもう、あの中にすべて込めた。

 このくらいは我侭だけれど許されるはず。


 彼を真っ直ぐ見つめながら、抑えきれず震えた中指と人差し指で唇に触れ、滲んだ視界のまま空に向けて小さく投げた。

 無風の中、太陽からの眩しい日差しをさえぎるように目元を強く押さえつける。あの日の、手を振る彼の姿がキラキラと弾けて、伝う水滴は地面に一粒二粒と落ちていった。

 月の夜から何度も繰り返した「初めまして」とともに軽やかに歩みだす。


 ――弱い私では、この先戦ってはいけない。


「来てくれてありがとう、たちばな郁人いくと君。早速で悪いんだけど、ちょっとかがんでみてくれない?」

 素直に近づいてきた顔に顔を近づけて、一方的な口付けけいやくを交わす。その慌てふためく姿に向けて、続けざまに告げた。


「今のは事務的なものだから気にしないでいいよ。あたしは宮ノ内有栖ありす。あなたには悪いけど、この世界の平和の為に協力してもらうわ」


 ――――よろしくね、あたし。


 平和な時代の当主であった両親が、その力を失うとすぐに代替わりを果たした。

 これからは宮ノ内家を率いる者として、間近に迫りつつある災厄さいやく毅然きぜんとして立ち向かう。それは死力しりょくを尽くす戦いになるだろう。

 異変が収束を迎える頃、強大な力への代償としてあたしはすべてを失いこの世界から消えてしまう。言うならば早すぎる寿命のようなもの。

 幸いな事に歳の離れた小さな弟がいる。よってこの先の宮ノ内家は安泰あんたいだ。


 たった一人の命でいい。

 大切な人達の暮らす世界を守る事ができるのなら、躊躇ためらう理由なんてどこにもない。


 だから、この初恋は。

 誰にも知られないまま終わらせてみせる。


「ごめんね、もしかして初めてだった?」


 唇をそっと撫でて、舌先で指に触れる。

 最初で最後のキスは、ミントの香りに混じってから揚げの味がした。

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