牛タン

@aonori007

第1話

 その時代では少し特殊な職業だったかもしれないからか、私に秘密を打ち明ける人が後を絶たなかった。

 私はどこにでもいるような風情で、よく昨日どこどこにいなかった?と聞かれるが、多くはおそらく間違えでそこにはいなかった。そう相手に伝えるとたいていは「すごく似た人に出会ったよ。でも気が付いてはもらえなかったけど」と言われた。それだけ本当にどこにでもいるような容姿なのだと自覚して、寂しいようでありほっとするようなそんな気持ちをいつも持ち続けていたような気がする。

 「牛タン」で思い出した。その人は私と同い年で、何かを学んでいる途中なのか、その頃には珍しく定職に就かず、私の職場にアルバイトとしてやってきた。猫背の大人しい女性だった。本当は背が高かったのかもしれないが、なんせえらく肩を丸めていたので、その時は彼女がすらっとした体型だったことに気づかなかった。

 彼女が出会ってしばらくして語りだした。自分の幼い頃の思い出、今でも夢ではないかと疑いたくなる母親の仕打ち。

 ある日、彼女が家に帰るとテーブルに牛タンが載っていた。塊だ。生ではなかったらしい。

牛の舌そのままの大きな塊が目の前にあり、食べるように言われたそうだ。見たこともない大きな塊肉。表面のぶつぶつ。彼女はおののいて拒否したが「食べ物を無駄にするのか」と母親に強く言われて、泣く泣くその塊を口にしたそうだ。煮てあったらしいが、どのように食したのかは、聞いたのかもしれないが覚えていない。

 その頃、いろんなことに無頓着だった私は、どういった思いで彼女がその話をしたのか考えもせずに、気のない相槌を打ったのかもしれない。おそらく「そうなんだ」くらいの軽い返事でその話を受け流したような気がする。

 その頃はとにかく「そんなことは何でもないよ」と言うかわりに、態度で表すことがその人にとっていいことだと信じて疑わなかったのではないかと思う。

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