真の勇者

篠原 皐月

真の勇者……、その名は知らず

 今日は恋人である慎吾の、自宅マンションでのデートである。手料理を振る舞ってくれる彼に感謝と、その他色々な感情を抱きながら、萌花はドアのインターフォンのボタンを押した。


「悪い、萌花。あと10分でできるから待っててくれ」

「気にしないで、ゆっくり作って。私が約束の時間より、早く来てしまったのが悪いんだから」

 エプロン姿で出迎えてくれた慎吾は、幾分申し訳なさそうに断りを入れてきた。萌花はそれに笑顔で応じながら上がり込む。


「今日は自信作なんだ。期待しててくれ」

「そう……、楽しみだわ」

 萌花がオープンカウンターに接して配置してあるダイニングテーブルに歩み寄ると、カウンター越しに慎吾が満面の笑みで呼び掛けてくる。それを聞いた萌花は、ごく僅かに口許を引き攣らせながら頷いた。


(やっぱり、早めに来て正解。だって色々と心の準備があるもの)

 椅子に座って広々とした2LDKのリビングを見回しながら、萌花は慎吾に気付かれないように溜め息を吐いた。


(本当に……。顔が良くて稼ぎが良くて、既にマンションと車保有で、料理が趣味。唯一の欠点と言えばバツイチくらいと言うと、周りはこぞって「そんなの欠点になるわけないじゃない!」と言われたし、私もそう思っていたわよ。「別れた元妻って馬鹿じゃないの?」って)

 鼻唄混じりに手際よく調理を進める慎吾の様子を、萌花は横目で見た。そして無言で項垂れる。


(本当にできる人間って、きっと段取りが上手な人間なのよね。3つのIHヒーターを使い分けて、1つは煮込みをし、1つは蒸し焼きにし、1つは下茹でをしながら野菜を刻むような同時進行が、当然の事のようにできるんだから)

 音だけでカウンターの向こうで何が行われているのかを察知できる萌花は、キッチンとは別の方向に目を向ける。


(彼氏の手料理を味わうなんて、彼女の特権よね。しかも今日は私のために作ってくれているんだから、それを笑顔で感謝して食べて感想を述べて楽しくひと時を過ごすのは、私にしかできない事。この場を誰にも譲るつもりはないわ。ないんだけど……)

 萌花が密かに考え込んでいる間に料理が完成したらしく、彼女の目の前に次々に皿が並べられていく。その品数と多様さに、萌花は軽く目を見開いた。


「……こんなに?」

「色々萌花に食べて欲しくて。1つ1つの量は加減してあるから、食べきれるよな?」

「そうね……」

 確かに小皿と言っても差し支えない大きさの物に取り分けられた八種類の料理に、萌花の顔がはっきりと強張る。しかし慎吾はそれに気がつかないまま、笑顔で食べ始めた。


「いただきます。……うん、美味い! 最高! 自画自賛だけど、俺、また料理の腕を上げたよな。ほら、萌花。遠慮しないで食べて」

「ええ……、いただきます」

 上機嫌な慎吾に促され、萌花は控え目に箸を伸ばした。そして一番手前にあった皿の中身を口に運ぶ。


「………………」

 萌花がその料理を口に入れた瞬間、猛烈な辛味が口内に広がった。それはこれまでの経験から予想できていた事であり、彼女は無言のままそれを咀嚼し、無表情のまま飲み込む。

 しかし萌花には、それが限界だった。


「……二度と来ないわ」

「え? 萌花?」

 いきなり椅子から立ち上がった萌花に、慎吾は面食らった。しかしこれまでの積もり積もった鬱憤を晴らすがごとく、萌花は思うまま口にする。


「もうあなたの手料理を食べさせられるのは、真っ平御免なのよ。なにが『ちょっと辛党なだけ』『すぐに慣れるから』『この辛味の中の旨味に気づかないなんて、人生損してる』よ! こんな料理を喜んで食べてる人間の味覚の方がおかしいし、こんな料理に馴れて味覚を崩壊させるなんで真っ平だし、こんな料理の旨味に気づくまで食べてたら人生捨てるわ! 別れた元奥さんの選択は正しかったわけよね!? それじゃあさようなら!」

「……あ、ちょっと、萌花!?」

 言いたいことを一気に言い切った萌花は、バッグを掴んで駆け出した。なにやら背後で慌てて立ち上がる音がしたものの、それを無視して手早く靴を履いてドアの外に飛び出る。

 たまたまその階で止まっていたエレベーターに駆け込んでドアを閉めると、それはすぐに下降を始めた。


(やっちゃった……。でも、本当に無理だったんだもの。控え目に『辛すぎない?』とか『他の味付けの方が素材の美味しさを引き立てると思うけど』と言っても、笑って一蹴されたし。あれは矯正できないわよ。本当に、良く半年保ったわよね。元奥さんは勇者だわ)

 抵抗むなしく彼氏の味覚に敗北してしまった萌花は、むしろ清々しい気持ちでそう結論付けたのだった。


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