6 啄木のトラウマ3

 潮の匂いがする。体が全身揺れ、波の音が聞こえた。

 啄木は目を開けると、木造の船の上に倒れていた。身を起こすと、周囲は暗く夜空の明かりだけだ頼りだ。

 遠くに陸地がある。陸地の海辺には松明を持った数人が一人の女性を囲んでいた。女性は船に向かって祈っている。数人のうち、一人がその女性の腕を無理矢理掴む。


「っ……かかぁ!」


 助けようと変化を試みるも、啄木の姿は変わらない。気付けば、すでに変化している状態であった。子供の姿で人の耳がない角と耳。額に目がある異形の姿。あのときの記憶の再現であり、夢であることを思い出す。

 あのときは何としてでも陸地に行こうとした。船を押そうとして、海に入って溺れかけ船にまた戻るを何度か繰り返していた。

 夢とわかっていて、彼は小さな手で船を動かそうとした。


「っ……! 戻れ……戻れ……!」


 ばしゃばしゃと音を立てて、海の水を掻き分けていく。顔を上げて、啄木は多くの涙をこぼす。


「……かかぁ……かかぁ!」


 船は陸地から離れていく。船で行く意味がないならば、彼は海に入り、泳ごうとする。顔をあげて、息継ぎをしながら泳いでいく。


「……っ……! かかぁっ!」


 海の波に呑まれながらも、必死で手と足を動かす。

 全身が濡れ、服が重く感じる。小さい体で懸命に陸地へ向かおうとしている。夢であるがゆえに、母親を助けられる願望が叶う、はずはない。刻まれたトラウマは容易にくつがえるものではない。

 子供の体力では、陸地で向かおうとする前に溺れてしまった。

 夢の彼も例外ではない。手足の力が入り切らなくなる証拠に、手足の動きが鈍くなっていく。足が項垂れる。手が項垂れる。

 あとは啄木の視界が松明が見える陸地から海に変わるだけ。

 音もなく、ゆっくり体が海の中に落ち行く。

 啄木は知識と遭難した際の知識もある。だが、夢の中で生かせず、技術も利用できなかった。僅かな光が入る海面に啄木は手をのばす。


「……かかぁ……いかんで……いかんで」


 母親を求めるように呼んだ。海の中で喋れるのはおかしいと理解している。夢だと理解している。それでも、彼は母を求め助けずには、謝罪せずにはいられなかった。


「おいのせいで、かかぁ。おいに力がのうて……助けられんで……」


 手を伸ばしていると、その手が優しく何かに包まれた。


「……?」


 時々優しく撫でられ、顔と頭も撫でられる。

 握られた温かい手だと理解したとき、啄木は瞬きをする。一本の白い椿。その丘におり、啄木はいつの間にか元の姿に戻っていた。驚いて周囲を見るが、握ってくれた手の人を見て気づく。


 夢だと理解していても、彼はその懐かしい姿に目を丸くせずにはいられない。彼が助けられなかった少女の名を呼ぶ。


「──まゆ、みさん……」




 優しく撫でている最中、真弓は呼ばれて顔を上げる。


「えっ」


 啄木は薄く目を開けており、彼女を見ている。彼は真弓をじっと見続け、見たことないほど優しく笑っていた。あまりにも柔らかな表情に真弓は顔に熱をもつ。名前を呼ばれたが、いつも彼女を呼ぶ際は呼び捨てである。

 さん付けなどの敬称はしない。彼は唇を小さく動かす。


「……俺は貴女に……感謝を……」

「た、啄木さん……?」


 呼ばれて啄木は不思議そうに見続けたが、次第に間抜けた顔になる。


「……………………………………真弓?」

「う、うん。そうだけど……」


 啄木は目を丸くしていく。意識が覚醒したらしく、顔を赤くして謝り出した。


「っ! 悪い! 寝ぼけ……」


 謝るが、啄木は窓から見て気付く。海の上を動いて船に乗っていると。潮の香りが入って揺れる船内。フラッシュバックが起き、啄木は口を抑える。


「……うっ」


 次第に顔色を悪くしていき、啄木は背中を丸めて口を抑える。真弓は慌てて澄に声をかけた。


「高島さん、高島さん! エチケット袋をください!」

「了解。はいこれ、あと酔止めとお水」


 澄はスタンバイしていたかのように、黒い袋と薬とペットボトルを用意する。受け取って啄木はエチケット袋をすぐに受け取った。

 自主規制で音楽、エフィクトで誤魔化すようなものを袋に吐き出す。啄木は慣れたように袋を縛る。真弓は薬を一錠取り出し、ペットボトルの蓋を開けて彼に出す。


「啄木さん。酔止めと水!」

「……あ、ああ……ありがとう」


 啄木は受けとり、薬を口に放り込みペットボトルで流し込む。ペットボトルの水を腕でぬぐい、彼は息をつく。ペットボトルを真弓は受け取って、蓋をしてあげた。

 薬を飲み終えたが、啄木の船酔いが落ち着いたわけではない。

 啄木はメガネを外してケースにしまい、バッグを閉じる。席を座り直し、啄木は弱々しく声を出す。


「……っ悪い。つくまで眠ってる。ついたら起こして……」

「えっ、あ……うん」

「……なぁ、真弓」

「なに?」

「……手、繋いでほしい。少しだけ、怖いのが和らぐかもしれないから……お願い」


 小さな声で願いを口にする。

 彼女は彼が弱り果てた姿を想像できなかった。いつも助けられている故、少しでも恩を返したかった。真弓は手を握ってあげた。


「啄木さん。いいよ。いつでも握ってあげる」


 彼は一瞬だけ嬉しそうに微笑み、まぶたを閉じる。




 目をつぶっている彼を見て、真弓は聞きたいことがあった。

 まゆみさんと呼んだ自分と似た名前の人について。彼女は明らかに自分に向けて言ったわけでないとわかる。啄木の大切だった人だ。似た名前であることに変な縁を感じる。何故同じ名前で優しい時折微笑みを向けていたのかを聞きたかった。

 弱っている彼に無理矢理聞くわけにいかない。

 真弓はつくまで、彼の手を握り続けていた。

 しばらくしていると、船内のアナウンスが響く。そろそろ港につく頃合いだ。

 港につく前に、啄木を起こす。フェリーの船から乗客とともに彼らは降り立つ。

 車やバイクをフェリーに乗せた乗客を見送りながら、真弓はまだ啄木の手を繋いでいた。啄木の顔色は優れないが、船に乗っているときよりかはいい。

 船から降りたらいいものの、八一は茂吉に声をかけた。


「で、茂吉。ついたけど、お前が手配したホテルってどんな場所だよ」

「ん? そろそろ来るはずだけど」


 茂吉が言うと、道路を伝って小型のバスがくる。彼らの近くに泊まると車のエンジンが止まり、バスの扉が開く。

 バスには桜花御一行様とステッカーが掲げられている。従業員が降りてくると、茂吉たちに頭を下げた。


「おまたせしてすみません。皆様」


 従業員に茂吉が丁寧に対応する。


「いえ、今来たばかりです。迎えに来てくださり、誠にありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそありがとうございます。では、皆様どうぞお乗りください」


 送迎バスがつくとは思わないだろう。少女たち四人はびっくりとしており、八一は感嘆した。


「ほー、茂吉。あえて、西伊豆の老舗旅館って場所を選んだな?」

「まーね。相手側もどこで泊まるかは知らないだろうしね。あっ、やっちー♡ お金に困ったらいつでも奢るぞ☆」

「あほ♡ 全員分泊まるぐらいの金は余裕であるぞ。もっちー☆」


 明るく軽く言い合い、二人は従業員の案内でバスに乗っていく。後に続いて、真弓たちもバスに乗った。

 真弓は八一と茂吉のやり取りをちゃんとみて、なんとなく理解する。仲が悪いわけではないと。しかし、二人のやり取りは狐と狸の化かし合いの如く、全く感情と考えが読めない。あえてなのかも、本当にふざけているのかも不明だ。

 バスに揺られて、通り過ぎていく町並みを見る。今度は啄木が窓に座ってみている。隣の席にいる啄木の表情は少し良くなってきている。

 まだ手を繋いでいることに気付いて、真弓は離そうとする。が、啄木の手が離れない。彼を見てみると啄木は目を向け、頬を赤く染める。


「……悪い。まだ怖さが拭えてないからつくまでいい……我儘わがままで申し訳ない」

「……うん、いいよ」


 笑って了承する。旅館につくまで、真弓は啄木の手を優しく握ってあげた。





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