9 飛んで火に入る夏の虫

 彼女が目覚めたとき、石畳の上にいた。起き上がって周囲を見る。黄昏時に近い空。

 鳥居と獅子と狛犬がない小さなボロボロの祠。周囲には大きな木々があり、奥は鬱蒼とした森となっている。

 何処かの山の中。生き物の気配もせず、雰囲気もよろしくない。彼女は懐にあるお守りを出してみるが、無惨に破られていた。石畳の先には階段がある。彼女は立ち上がり、階段のある場所まで向かった。


「っ嘘……」


 階段は崩れ落ちて崖となっており、彼女は息を飲む。祠は切り立った場所にある。逃がすつもりはないようだ。

 祠の扉が開く音がする。彼女は首を向けると、祠からは人の手が伸びてきていた。大きな大人の手。その手は彼女に対して手招きをしている。彼女は怯えて下がろうとするが、背後が崖であることを思い出して足を止めた。


《ここは私の神域だ。そう怖がることはなかろう。私の器よ》


 祠から声が聞こえた。男の声ではなく、少女とも少年ともつかぬ子供の声。安心させるような声色に彼女は顔をしかめる。

 自分勝手に名前をとり、更に体まで奪おうとしている。更に友人までも巻き込み、直文を手にかけようとしていた。

 ■■は怒りを露にして、ナナシに言葉をぶつける。


「当然、怖がるでしょう。私は貴方の器じゃない。貴方に名前を奪われた被害者。……私の名前を返して。私の平穏を返してっ! 貴方のせいで私は、私の周りにいる皆は危ない目にあっているんだ!」


 このナナシに名を奪われなければ、彼女は普通に日々を過ごせたのだ。しかし、手は動きを止めて彼女を指差す。


《何故私のせいとなる? ■■■■も悪いのではないのか?

あの日、迂闊に社へと近づいたのが、悪いのではないのか?》


 違うと口に出したいが、否定が口にでなかった。言いたいことも言えない。唇も動かせず、全身に重力がかかったように感じた。ナナシからの名前を呼ばれて心臓が掴まれる感覚がある。名前を取られている■■は逆らえない。自分が悪くないと言っても、自身に非があるように感じてきた。


《■■■■が、あの日から失踪していれば良かったのだ。あの麒麟に守られてなければ良かったのだ。さすれば、被害も少なくなり、■■■■の友も危ない目に合わないのだ》


 彼女はゆっくりと首を横に振る。違うと意志で叫んでも、罪悪感が沸き上がる。彼女は目を潤ませた。

 祠から出ている手が手招きをする。

 ■■の足が勝手に動き、自由が利かず祠に近づいていく。祠の前につくと手が伸びた。力の限り彼女は体を逸らそうとするが遅い。彼女の体をすり抜けて、ナナシの手が■■の中に入る。

 言葉がでない。内臓を触れられている感覚はない。体の中を弄られる感覚はある。何かを掴もうとしている。彼女は瞳を潤ませていき、手は動きを止めた。


《ここか》


 何かを見つけたらしい。手はそれを掴もうと、手を伸ばした。

 じゅうっと音がし、悲鳴が響く。


《ひっ、ぎゃぁぉっ!》


 彼女から手が飛び退く。手は赤く晴れており、火傷をしている。煙を上げており、高温の熱に焼かれたかのよう。■■は体の自由が戻り、急いで離れた。


「ただで、彼女を触れさせるわけないだろう」


 空から冷徹な声が聞こえる。彼女は見上げると、空中に直文が浮いて祠を見下ろしていた。少女は目を丸くして、ゆっくりと降りてくる彼を見つめる。直文は彼女の目の前に降り立つ。勢いよく振り返って、少女を抱き締めた。


「本当にごめん! 作戦とはいえ、君を怖がらせてしまった」


 懸命に謝る彼に、彼女は瞬きをして問う。


「……ほん、もの?」

「うん、幻覚じゃない。麒麟の半妖久田直文だ」


 安心させようと直文は抱き締める力を強くする。温もりがあり、包み込む力には優しさがある。彼女は涙腺を崩壊させて、彼の背に手を回して抱き締めた。


《ぎぃがぁなざだぎびぃ……!》


 悲鳴が聞こえて、彼は振り返った。祠から出ている手が痙攣している。苦しげに悶えており、指は先から段々と黒ずんでいく。直文は呆れて祠を見つめていた。


「……まったく作戦に役立ったとはいえ、あの人も余計なことをするよ」

「余計……? あっ!」


 彼女は思い出す。彼のあの人は昼間にあった上司しか思い浮かばない。彼女は自身のしている勾玉のネックレスを出した。勾玉が淡い光を出しており、直文も下げているネックレスを出した。同じように光っており、彼は溜め息を吐く。


「これは、お互いの縁。所謂、リンク、繋がりを強くするものだ。繋がりが強化されているから、君自身に危険が及ぶとそれがわかる。あのナナシが君の魂に触れようとした時、俺が力を送ったんだ。……本当は外から一気に仕掛けようと思ったんだけど……まあ厄も送れたからよしとしよう」


 直文は祠を睨みつける。ナナシに凶、いや、厄が降り注いでいるのだろう。肌色の手が段々と黒ずんで蝕んでいる。祠からは声が聞こえた。


《っ……なぜ、だ。何故、我が神域に入れるっ!?

即席とはいえ、他の者は容易には……っ!》


「器だけに集中しすぎて、自身と状況把握ができなかったか」


 ナナシの疑問に、直文は呆れていた。彼女をお姫様のように抱えて宙に浮かぶ。浮かびながら淡々と彼は教えた。


「零落した神の神域なんぞ、高位の神からすればただの紙っぺら。気付かないのか? 此処が黄泉比良坂よもつひらさかでも、神の守護する場所は変わらない。そして、お前を信ずる陰陽師達は俺が殆ど葬って力も弱まりつつあると。その証拠に俺自身も容易には侵入が可能になっている」


 彼の答えにナナシは驚愕した。周囲の空にヒビが入っていく。多くのヒビが入っていくごとに音が聞こえてきた。幾つもの弓を射る音。多くの大軍が多くの矢を放っている。


《放てっ、神域を悉く破壊せよっ! 我らが領域を脅かす落ち神を逃してはならぬ。このヤタトタケルが命ずる。徳川と共にこの神域を破壊せよ──!》


《なっ……あっ……!?》


 多くの矢が空を割き、夕暮れの空を見せていく。

 ひび割れた空からは、宙に浮かぶ馬車と馬に乗った多くの武将がいた。羽衣をまとい宙に浮かぶ者がおり、その全員が弓矢をつがえて刃先を向けていた。徳川家康と言える人物は地面におり、馬に乗って幾つもの武将と足軽を従え、共に矢を放っていた。


 空の中央に、現れた凛々しい男性が雲に乗っている。日本武尊像の姿そのものの、草薙神社の祭神。剣を手に祠へと刃先を示す。


「零落した名を失った神よ。これは高天ヶ原より勅命である。直ちに魂を解放してその力を捨て投降せよ。然るべき、処分を下そうぞ!」


 高天ヶ原の勅命。内容はナナシにとっては追放命令そのものであった。それを聞き、祠から伸びた手は震えていく。充血した赤い目が見えた。


《……半妖め……はめたのかっ!?》


 直文は目を細めて、冷ややかに見る。


「今更だろ」


 ■■はこの作戦全容は祭りが始まる前から知っていた。

 ナナシを煽り、有度山まで誘き寄せて神々と共に囲いこむと。例え、あの世とこの世の境目とはいえ、神の守護する場所は変わらない。また茂吉がアポを取っていた際に、零落した神の処分の協力を願い出ていたのだ。周囲の神々と眷族、精霊をまとめている総大将は日本武尊。直文は口角を上げて、黄昏時の光を浴びながら不敵に告げた。


「俺が何もせずに行動するわけないだろう。俺の目的を果たす為なら、お前を何処までも追い詰めるさ」


 背筋をも凍らせる嘲笑いに、背後から声が聞こえた。


「きゃわー☆ なおくん、こわーい☆ 俺怖くて震えちゃーう☆」


 彼が後ろを向くと、変化済みの茂吉がいた。大きな式神の鳥に乗ってにこにことしている。思いっきりふざける彼に直文は呆れた。


「はぁ、もっくん。やっときたか」

「ええ、その溜め息ヒドイヒドイドイヒ!

俺、なおくんの頼み通り彼女の安全を確保しに来たのにー……」


 メンヘラのように振る舞ったのち、茂吉は普通に戻って胸をなで下ろしていた。


「けど、お前の目的を果たせそうでよかったよ。

──さあ、彼女を此方に。俺が守る役目を果たそう。直文」

「頼んだ。茂吉」


 両手を伸ばす彼に、直文は頷いて■■を託した。少女を大きめの鳥の上に乗せると、彼女は向いて大切な人に目を向ける。不安げに見つめる■■に直文は安心させるために頭を撫でた。


「そう、不安にならなくていいよ。大丈夫。俺は下手にやられはしないよ」


 手を放して、彼は背を向けて彼女達の元を離れる。日本武尊の前に現れて直文は空中で跪いた。頭を垂れて、感謝の意を示す。


「日本武尊様。領域の提供及び、策のご協力、誠に感謝致します。礼は本部から出るでしょう。言葉通り、後の始末は我らが『桜花』が勤めましょう」

「構わない。ここに住まう妖怪には是を得ている。領域を好きなように使い、倒すがよい。麒麟児よ」

「有り難きお言葉。後はお任せを」


 日本武尊の言葉に直文は感謝を丁寧に述べた。日本武尊が姿を消すと、周囲の神々と眷族も姿を消していく。

 茂吉と彼女、直文とナナシだけが残った。

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