叫んで五月雨、金の雨。

尾八原ジュージ

春ちゃん

 別荘は海を見下ろす高台にあった。そこから眺める海はとりたてて美しいものではなく、灰色と黒っぽい青とが混じった寂しい色をしていた。

 申し訳程度の玄関ホールの天井には時代遅れのシャンデリアがぶら下がっていた。昔、そこに紐をかけて首を吊った女がいるらしいということを、僕は子供の頃から知っていた。というのも女はうっすらと透けたまま、まだそこにぶら下がっているのだ。

 無地のワンピースにストッキングを履いた足、おそらく本物の死体というのはこんなにきれいなものではないのだろうけど、ひっそりと両目を閉じ、青白い唇を少しだけ開けた大人しい顔に黒髪がばらばらとかかっている。ここから眺める海の色のように寂しいひとだと思った。

 幼少期からそこそこ親しんだその幽霊は、僕にとってはさほど怖ろしいものではなかった。ただ、見える人と見えない人がいるというのは不思議だった。僕の他には従姉のはるちゃんにしか、その女を見ることができなかったらしい。僕たちは別荘で顔を合わせるたびに「今年もいるね」と囁きあった。

 五つ年上の春ちゃんは、僕よりも十歩くらい早く大人の階段を上っていた。背が高く、すっきりと整った細面の顔は、彼女と同世代の女の子よりもずっと大人っぽく見えた。彼女もまた、寂しそうな海の色がよく似合った。


 あのとき、僕は中学三年生だった。だから春ちゃんは二十歳だ。

 僕は五月病になっていた。あれを五月病というのかどうか厳密にはよくわからないのだが、とにかく時期は五月だったし、僕は周囲に「五月病だ」と勝手に宣言してもいた。

 突然学校に行くのがひどく億劫になった僕は、連休が終わっても外に出ず、ひたすら家でごろごろしていた。あのときどうしてああいう状態になったのか、今でもよくわからない。もしかしたら春ちゃんに呼ばれていたのかもしれない。

 それまでは絵に描いたような優等生をやっていたから、両親や担任の心配は一通りではない。で、彼らは僕を甘やかしてくれたし、僕自身もだいぶ意識して甘えさせてもらった。勉強だけは家でやっていたが、あえて登校しようとする努力はひとつもしなかった。

 五月の終わりごろ、あえて家にいる必要がないと気付いた僕は、急に例の別荘に行きたくなった。あの海を見つめてセンチメンタルな気分になりたかったし、なんとなく女の幽霊にも会いたかった。それから何日か後、十日分ほどの食料を持って別荘を訪れると、思いがけず春ちゃんがそこにいた。

 二十歳の春ちゃんは女子大に通っていて、今は前期の真っ最中のはずだ。でも玄関ホールに立って、女の首つり死体を眺めていたのはまぎれもなく春ちゃんだった。

「春ちゃんも五月病?」

「そうかも。せいちゃんはそう?」

「うん」

 という、幼い子供のころそのまんまみたいな会話をしたのを覚えている。

「ずっとカップ麺で過ごすつもりだったの?」

 僕が買い込んでいった食料を見て、春ちゃんは咎めながらも笑った。

「だめかな」

「飽きると思うよ」

「そっか」

 春ちゃんはそういうとき、「私が何か作ってあげる」というタイプではなかった。「飽きるよ」と忠告しておきながら、実際早々に飽きてしまった僕を見て、「ほーら飽きた」と笑うようなひとだ。でも、このときは食事の用意ができない理由がちゃんとあったのだ。

「星ちゃん、まだあの幽霊見える?」

 春ちゃんにそう訊かれたとき、僕は「うん、見える」と素直にうなずいた。

「春ちゃんは?」

「見えるよ。でも結構薄くなってきたね」

 僕は揺れている女を見やった。薄くなったようには見えなかったが、それは言わずにおいた。春ちゃんが悲しむような気がしたのだ。

 到着してまもなく、雨がしとしとと降り始めた。もう梅雨が始まっていた。

「五月雨だね」

 春ちゃんがそう呟いた。

 雨は上がるでもなく、かといってざあざあ降るというほどでもなく、しとしとと降り続いた。寒いねというと、春ちゃんはそう? と答えた。

 袖の短いボタニカル柄のワンピースはあまり保温効果があるように見えず、でも彼女は寒がるでもない。ただ顔色はひどく悪かった。


 別荘に到着して二日目の朝、僕は春ちゃんの横顔を透かして、向こうにある窓枠が見えるのに気づいた。

 予想はしていた。つまり春ちゃんは幽霊だったのだ。食事もせず、風呂にも入らず、家の中をうろつき、僕とは話すけれど頑なに触れようとはしない春ちゃんには、生きている人間みたいな手触りがまるでなく、やっぱり幽霊だったんだと知ったときは驚きもしなかった。ただその「やっぱり」はとても悲しいと思った。

 春ちゃんが透けていることを僕は言わなかった。春ちゃん死んじゃったの? いつ? どうして? そんなことは尋ねもしなかった。すべて彼女を傷つけるような気がしたし、もしもそのつもりがあるなら、それは春ちゃんが彼女のタイミングで僕に教えてくれるだろうとも思った。

 幽霊の春ちゃんはなぜだろう、生前よりももっと綺麗に見えた。繊細極まりない硝子細工のようだと思った。僕は彼女の前でカップ麺を食べ、「飽きたぁ」とぼやいた。春ちゃんは「ほら」と笑った。背後にある海が彼女越しに透けて見えた。

 雨は相変わらずしとしとと降り続いていた。僕は洗濯物をバスルームに干し、家中に掃除機をかけた。シャンデリアで首を吊っている女は相変わらずゆっくりと揺れていた。春ちゃんは彼女をじっと見つめていた。

「ああやってるのが楽なのかな」

「あんまり苦しそうではないよね」

「ね」

 しばらく上を見上げた後、春ちゃんは「死ぬほどつらいことがあったんなら、誰かに言えばよかったのに」と、ぽつりと言った。それにつられた僕はつい「春ちゃんは誰かに相談したの?」と言ってしまい、すぐに(しまった)と思った。僕が春ちゃんが幽霊だと気付いていることを、彼女に悟らせてしまったかもしれないと恐れた。

 春ちゃんは僕を見て笑い、急に「『ホレのおばさん』って知ってる?」と訊いた。

「知らない」

「グリム童話だよ。母親と姉からいじめられてる女の子が、井戸の底で不思議なおばあさんに会って、下界に雪を降らす手伝いをするの。女の子は真面目に働いて、最後におばあさんに教えられた門から家に帰るのね。そしたら門を出たところで女の子に金の雨が降り注いで、体中に金がくっついてお金持ちになるの。で、その話を聞いた姉娘が同じようにおばあさんのところに行くんだけど、こっちは全然働かなかったので、最後は金の雨じゃなくてコールタールの雨に降られてしまう――という話」

「やっぱり知らないや」

「本当は違う解釈があるんだろうけどさ」と春ちゃんは断ってから続けた。

「私、この物語を読んだときね、ご褒美が与えられるのは最後の最後なんだよって、そういう話だと思った」

「ふうん」

 僕に笑いかける春ちゃんはやっぱり寂しそうで透けていて、金の雨に降られたようにはとても見えなかった。


 五日目に母から連絡があった。薄々予想していた通り、それは春ちゃんの死を報せるものだった。葬儀に参列するために帰ってこいと言われ、僕は了承した。

「なんで春ちゃん亡くなったの?」

 電話の向こうに沈黙が訪れた。

「母さんもよく知らないの」得られた答えはそれだけだった。

 詳細を伏せて「一度家に帰らなきゃならないんだ」と告げると、春ちゃんは「そう」と言った。

「また戻ってくるの?」

「戻ってきたいなぁ」

「そう」

 裸足の爪先をすり合わせながら、春ちゃんは「やめなよ」と呟いた。僕は聞こえないふりをした。

 支度を整え、春ちゃんに「それじゃまた」と言って別荘を出ようとしたとき、僕はふとあることが気になった。

「春ちゃん、この人さ」

 僕は玄関ホールで首を吊っている女の幽霊を指さして「まだ見える?」と訊いてみた。

 春ちゃんはぽっかりと目を開けて僕を見た。次の瞬間、彼女の口が大きく開いて、「わあああああん」と聞いたこともないような大声が飛び出した。

「消えちゃった! 星ちゃん! 星ちゃん! 死んだって何にもないんだよ! 何にもない!」

 耳がキンと痛くなり、思わず目を閉じた。次に目を開けると春ちゃんは消えていた。

 別荘中を探し回ったけれど、どこにも彼女の姿はなかった。


 棺の蓋は閉じられていて、僕は春ちゃんの死に顔を見ることができなかった。親族だけのひっそりとしたお葬式を終え、セレモニーホールの外に出ると、五月雨はここでもしとしとと降り続いていた。

 別荘と、首を吊っている女の幽霊と、消える直前の春ちゃんの顔が目に浮かんだ。ふいに叫び出したい衝動に襲われた。

 気が付くとみんながこっちを見ていた。僕はセレモニーホールの駐車場で、大声で春ちゃんの名前を呼んでいた。雨は雨のままだった。金にもコールタールにも、永遠に変わりそうになかった。


 春ちゃんが自ら死を選んだ理由を、結局ぼくは何も知らない。別荘にいるのは相変わらずあの知らない女だけで、春ちゃんの姿はあれ以降見ていない。

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叫んで五月雨、金の雨。 尾八原ジュージ @zi-yon

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