第2話
息の詰まるような国語の授業が終わった後は、それはもう大騒ぎだった。
「ねぇ先生結婚したってマジなの?」
「冗談で言わないだろ」
「えーでもさ……」
桐谷くんは授業が終わっても席を立たなかった。なぜか私も動かなかった。
人気者の桐谷くんだけど、今だけは不思議と誰も彼の席を囲わなかった。
「眞島、今日俺ら日直だよね」
「あぁ、そうだね」
「黒板消しに行こう」
「うん」
次の授業は地学だった。みんな仲の良い友達同士で教室を出て行った。私たちを除いた最後の生徒は桐谷くんがいつも一緒にいる人たちだった。
「桐谷ー先行ってるぞ」
「おう」
ヒラヒラと黒板消しを持った手を振るものだから、自分にチョークの粉が舞って制服がほんのり白くなっていた。焦げたマフィンに、誤魔化すように粉砂糖をかけたみたいに。
桐谷くんは自分の制服をはたき切った後、遠慮がちに私の肩を叩いた。チョークの粉が舞っていた。
「ありがとう」
桐谷くんは少し笑った。
今度はその顔がよく見えてほっとした。さっきよりも日は陰り、雲に覆われてきているようだった。他のクラスの騒めきが遠くに聞こえる。先生の結婚報告にみんなが驚いているのだろうか。
「眞島?行かないの?」
桐谷くんが荷物を持って扉の前で待ってくれていると、呼ばれてから気づいた。
「待って」と慌てて準備をして二人で廊下に出た。人気が少ない。もうすぐ授業が始まる時間だ。
「桐谷くん急ごう。もう三限始まっちゃう」
「えぇ?日直だから遅れても大丈夫だよ」
「そうだけどさ」
「地学室遠いから急いでもあんま変わんないと思う」
確かに。納得してしまって自然と足が遅くなる。誰にでも怠け心はあるのだ。どうせ遅れていくなら、もう少し。
「あ、鳴った」
本鈴が鳴ってしまった。「ほらね」とでも言いそうな表情で桐谷くんがこちらを見た。
怠けたい気持ちがあっても、それでもちょっと心拍数が速くなる私はいわゆる小心者なのだと思う。
他の教室の前を通るときには体が硬直しそうだった。それに対して桐谷くんは悠々と長い脚で廊下を闊歩する。
彼は私の数歩前を歩いていた。でも突然、その足が止まりかけた。
奥の薄暗い階段に向かって廊下を横切る先生が見えた。先生は早足で階段を登っていった。
私は俯いて、冷たい床を見つめたまま桐谷くんに問いかけた。
「桐谷くんはさ、先生のことが好きなの? 」
聞いてしまった、と思った。心臓が早鐘を打つ。ここが使われていない生活資料室の前だったことだけが不幸中の幸いであった。
桐谷くんが私の方に向き直るのがわかる。何て言われるんだろう、怒っているかもしれない。そんな思いが余計に心臓を動かした。
彼の沈黙は随分と長い時間に思われた。もはやこれは肯定と捉えても良いのではないかと早まってしまいそうだったところに、桐谷くんが笑った。笑ってこう言った。
「何言ってんの。ちがうよ」
「……そっか、そうだよね」
雲が太陽を完全に覆ったらしい。日の光は入ってこない。白い雲を通した細かな弱々しい光だけがただ廊下を明るくしている。
桐谷くんはまた歩行速度を元に戻して、私の前を歩いている。私は彼の隣に駆け寄った。彼は今度は私に合わせるように足を遅く運んだ。
「ゆっくりいこう」
「そうだな」
曇り空は風が吹いても変わることはなかった。それでもゆっくりと流れていく雲の流れに私は身を任せた。
私と彼は表裏の空 緒羽もなか @A-girl
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