VS怪盗グアバ 果汁に溺れる少女戦 問題編




[VS怪盗グアバ 果汁に溺れる少女戦 問題編]





 気が付けば午後10時になっていた。

 この場所に、湯にも浸からずに一時間以上滞在した者なんて、従業員を除いたら私くらいだろう。


 ハスカップは不潔なスーパー銭湯である。

 脱衣所もロビーも、あちこちに埃が溜まっている。建物もボロボロで、歩くとギシギシと音が鳴る場所がいくつもある。

 だから、グアバ効果で訪れた客も長居はしない。見所はどこにもないのだ。



 ハスカップでの事件が掲載された『娯楽新聞ヤマボウシ・第六七号』は本日刊行されたばかりである。

 しかし、午後8時を過ぎた頃にはもう、ロビーには数人の客しか残っていなかった。

 それでも常連からすると異様な光景ではあるけれど。


 惜しむらくは、ここにミカンちゃんを連れてきて反応を楽しむという計画が頓挫したことだ。グアバマニアの彼女は、きっと朝方にでも訪れてしまったことだろう。




 ロビーの隅に置かれた木製の長椅子に腰かけたまま、私は項垂れる。グアバの暗号も解けないし、聖域は目の前で汚されるし、踏んだり蹴ったりだった。


 今日はもう帰ろう。

 湯に浸かる気にもならない。

 あくまでも、人が少ないから気に入っているのだから。



 そう踏ん切りをつけて立ち上がろうとした時、




「――あれ? お姉ちゃん?」




 頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。



 見上げる。

 黒い帽子に黒いスーツ。華奢で色白の中性的な男の子――カシス君だ。



「久しぶりだね、お姉ちゃん。また会えて嬉しいよ」



 ああ、やっぱり。

 その澄んだ瞳を見つめていると、なぜか胸がドキドキしてしまう。不思議な感覚なのだ。

 突然のことに口を開けずにいる私の隣に――カシス君が腰を降ろす。


 胸が高鳴った。



「……えっと、カシス君もグアバの件で?」



 なんとか、言葉を紡ぐ。



「うん、因縁があるからね」

 カシス君は無邪気な笑顔で続ける。

「やっぱりお姉ちゃんも、『ヤマボウシ』を読んでここに来たんだね?」



「……え、ええ、そうですね」

 常連なのでよく来ています、なんて言えない。


 以前、怪盗グアバによって『カリン』からドリアンダイヤが盗まれるといった事件が発生した折に、私とカシス君は知り合った。

 彼は宝石店『カリン』のオーナーの息子であり、こんな汚い銭湯とは無縁の男の子なのだ。



「また暗号に挑戦中?」

 私の顔を覗き込みながら、カシス君が微笑む。

「ええ、まぁ」

「僕も考えてみたんだけど、全然わからなくて」

「意味不明ですよね。息抜きに他の記事を読んでしまいます」

「うんうん。わかるわかる」



 苦笑しながら頷いて、カシス君は私が持っていた『ヤマボウシ』を指さす。



「それにしても、マプラーン先生ってのは凄い人だよね」

「そ、そうですか? 私はあのセンス、理解できませんけど」

「いや、絵の方じゃなくて……」

「ああ、グアバの謎を解いた件ですか」



 4月29日。マプラーン先生の画廊から未発表の作品が盗難された。

 『娯楽新聞ヤマボウシ』の六六号によると、当該事件はマプラーン先生本人の手によって同日中に解決されたらしい。



「僕はね、マプラーン先生と探偵グレープは同一人物だと思うんだよね。即日解決なんて只者じゃないもん」


 突飛な推理である。


「カシス君はグレープファンですか」

「そりゃあね。グアバのライバルといえばグレープだもん。『ヤマボウシ』には、二人を主役にした創作小説も載ってるでしょ?」

「ミネオラ先生の『ランプータン』ですね」


 グアバを主役にした倒叙ミステリと、グレープを主役にした王道ミステリを交互に掲載するといった構成の連作短編ミステリ。

 ミネオラ先生の熱心な読者であるミカンちゃんには劣るが、彼女の影響で、私も最低限の知識は持っていた。



「最近はネクタリンなんて新キャラが出てきちゃって、僕はうんざりなんだけどね」

 カシス君は、少しムッとした表情で嘆息する。

「僕が見たいのは、グアバとグレープの戦いなのに」



 悪魔ネクタリンは、怪盗グアバと探偵グレープの攻防に横槍を入れるスパイス的なキャラクターである。

 彼が口にする悪意的な虚偽と煽りは、探偵と怪盗の二人のみならず、読者をも翻弄する。しかし、それが嘘であることすら論理的に推理可能だから性質が悪いのだ。



「グアバの物語はさ、いわゆる『人が死なないミステリ』だった訳でしょ。でも、悪魔ネクタリンが登場してから、死人が出始めた。作風を変えてしまうキャラクターってのは、やっぱりダメだよね」



「私もネクタリンは好みではありませんが」

 会話を続ける為に、少しだけ反論してみる。

「死人と言っても、直接的な描写はありませんよね。ただ死んでいたというだけで」



「うん。でも、それが一番残酷なことだとは思わない?」



 カシス君は人差し指を立てて、真面目な顔で続ける。



「キャラクターが絶望的な目に合うってのは、エンタメ的に楽しまれたりするでしょう。でもさ、その時、そのキャラクターは、強烈なスポットライトを浴びて、劇的に描写されている訳だ」



「……なるほど。確かにその理屈なら、死だけを描かれる方が残酷とも言えるかも知れませんね」



「うん。でもまぁ、死という結果が描写されているだけでも、まだマシかも知れないね。


 だって、キャラクターの絶望を楽しんでいる現実世界の鑑賞者は、もっと脇役な訳でしょう?


 彼らが絶望しても、その命を終えても、そこにはスポットライトなんてない。

 ただ勝手に絶望して、勝手に死んでいくだけだ。



 だから、真に残酷なのは、『結果すら描かれていない絶望』なんだ。


 

 勿論、物語である限りそれは不可能だ。

 どんなフリがあっても、描写されていない限りは、希望があるからね。

 勝っている可能性を否定することはできない。

 だからフィクションは安全地帯なんだ」




 なるほど。確かにそれは目から鱗な視点だけれど。


 一体、何の話だったっけ?


 私の表情の変化に気づいたのか、カシス君は慌てて取り繕う。



「ああ、ごめんごめん。話が逸れたね。

 ネクタリンのやり方はフィクションの中では最も残酷だし、グアバとグレープの横槍も邪魔だなって思っただけなんだ。


 ……まあ、横槍という点においては、僕らもネクタリンみたいなものだけどさ」



「……それは、確かにそうですね」

「だから、暗号を解いた人がグレープだったら良いなって思っちゃうんだ。希望的観測」


 なるほど。その心理は想像に難くない。私だって期待を裏切りたくはないけれど。


「そうそう!」

 と、カシス君は楽しそうに続ける。

「前回、お姉ちゃんと一緒に考えた暗号があるでしょ? ウチのドリアンダイヤが盗まれた事件」

「え、ええ」

「あれを解明した匿名の女子高生も、グレープであって欲しいなーって。あはは、流石に節操なしだよね」


 ギクリとする。この流れでどんな顔をすれば良いのか。

 心苦しい話である。しかし一方で、秘密にしておくのも不義理な話だなと思っていた。

 前回一緒に暗号の解読した仲なのに、結論を話さずにまた新たな暗号について議論するなんて、そちらの方が心苦しい。



 私は覚悟を決めて、口を開く。


「……ごめんなさい。それは私です」


「……え」と、カシス君が目を丸くした。


「匿名の女子高生。私です」


「…………」



 気まずい沈黙。



 しかしカシス君は、

「……す」

「す?」



「――凄いね! あの後、暗号解いちゃったんだ!」



 目を輝かせてそう言ってくれた。



 気を遣わせているのかも知れないが、少なくとも表向きは好意的な反応だ。


 ならば、全て話してしまおうか?


 怪盗グアバに、私個人がターゲットにされたなんて現実、一人で抱えていると不安が増すばかりだ。



「暗号の答え、聞いてくれますか?」

「勿論! 聞かせて!」

「わかりました」

 頷いて、私は事件の概要を滔々と語り始めた。






 ミカンちゃんに借りたミステリ。それを突っ込んでいた学生鞄こそが知の箱だった。

 そこまで語り終えた所で、



「F推理研究会――面白そうだね」



 カシス君が感嘆の溜め息を吐いた。


 そっちかい、と思わず心の中でツッコミを入れる。

 話の流れで、部活のことも一通り話してしまったのだ。



「ザクロお姉さんが少し不憫だね。だって『Fアップルパイ盗難事件』は即席で書いた練習問題だった訳でしょ? ろくな推敲ができなかったのだと思う」


 カシス君の興味はそっちに移ってしまったようだ。聞き上手な彼に乗せられて、長々と詳細を語ってしまった私が悪い。


「それよりも、グアバが私を狙った理由ですよ。真剣に考えてください」


 軌道を修正する。



「うーん。相手が接近して来ているなら、容疑者は近くにいるんじゃない? だとしたら、F推会って凄く怪しい訳だけど?」

 勝手なことを言う。

「特にメロンお姉さんとか、怪盗っぽい臭いがしない? 急用とか言って、グアバとしての仕事を熟してた――とか」



 前回の事件で披露した『カシス父犯人説』に忸怩たる想いを抱いていた私が馬鹿みたいだ。とはいえ、今カシス君が言ったような可能性は、私も考えたことがある。



「あるいはミカンお姉さん自身が――とかね」


 でも、考えるだけで、頭が変になりそうな妄想なのだ。知人の中に怪盗グアバがいるなんてのは、創作が現実を侵食するような悪夢である。


 ――いや、怪盗グアバは間違いなく現実の存在なのだから、カシス君の推理の方が現実的なのかも知れないけれど。


「あるいは――」

「――それより!」

 私は堪らなくなって口を挟む。

「それより、今回の暗号について考えませんか」

 このハスカップで、絵画『果汁に溺れる少女』が盗まれた事件。

 わざわざ現地にまで来て、暗号を解読しようとしているのだ。それはカシス君も同様だろう。



 カシス君は、少し名残惜しそうにしながらも「そうだった」と苦笑する。

 長椅子に並んで座りながら、私達は『娯楽新聞ヤマボウシ』に視線を落とす。








『B9A13ヤ三C10C7オB16A9B1ロ。

 共通している頭を落として分解せよ。』
















 ………………





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