Fブラックチョーク消失事件 Fエピローグ
「……ひひ、メロン君、急用とやらはもう済んだのかい」
「ええ、終わらせて来たわ。簡単な仕事だった」
メロン先輩の手のひらの中で、一瞬何かが煌めいた気がした。
彼女は優雅な足取りでこちらに近付いてきて、そして、テーブルの上に置いてあった私の原稿を手に取る。
その手のひらの中を注意して見ていたけれど、勘違いだったのだろうか、特に何も見つからなかった。
いや、そんなことはどうでもいい。
メロン先輩が私の原稿を読んでいる。そのことの方が遥かに重要だ。
スモモ先輩もリンゴちゃんも、そして出て行こうとしていたミカンちゃんでさえも、時が止まったかのように動けないでいる。
ザクロ先輩だけが、
「……ひひ、じゃあ僕はこれで失礼するね」
なぜかがそう言って、そそくさと部室を出て行ってしまった。
「――ふむ」と、
私の原稿を読み終えたらしいメロン先輩が怪しげに微笑んで告げる。
「解けた――と言っても、証拠がないものね」
ロウソクの明るい影が暗い部屋を舞う。彼女はそれを優しく操るように愛を込めて、
「扉の前で聞き耳を立てていたのかも知れないし、そもそもゲームにおいて重要な攻防に参加していない時点でフェアじゃないしね――貴方にとっても、わたくしにとっても」
ゆっくりと囁いた後、ふっと息を吹きかけて炎を消した。
煙の臭いがして、部屋の明かりが少し落ちる。
何かの演出のようにも見える行動だが、彼女にとってはただの気紛れだったのだろう。けれどなぜか、私はその時思ってしまったのだ。
―― 一瞬で暴かれてしまった。
「悪くはなかったわよ、イチゴ」
メロン先輩はうっとりとした表情で私を見つめ、
「『者』という漢字を一切使用していない所なんて、とってもフェア」
当たり前のように、誰も気付かなかった仕掛けを破壊した。
「ううん、一切というのは不適切ね。あなたが行き届いているのは、執拗に『者』を『もの』と表記していたのに、一か所だけしっかりと『者』と表記している所」
メロン先輩は、指で宙に文字を書きながら解説を続ける。
「確かに、厳密性を重視するなら鳥に対して『者』という漢字を使用するのは危険かも知れない。だから、あなたはとても注意深かった。
『者』という漢字を使用することで、鳥という動物が屁理屈でスルーされるのを避ける為に、鳥が行動する場面、もしくは鳥の行動がスルーされては困る場面では例外なく『もの』と書き、そして――間違いなく人間が行動した一か所だけは堂々と『者』と書いた。
文学界では表記振れだなんて言って、表記を統一しちゃう考え方が一般的ではあるけれど、漢字、ひらがな、カタカナが持つ意味は同じ音でもそれぞれ全く違う。人に魅せる為の文章を書く際は使い分けたいものよね」
確かに、同一作品の表記は統一しなければならないなんて思想は意味不明だ。作家さん達は、どうしてあんなルールに従っているのだろう。尤も、そのような提言をする気は一切なかったのだけれど。
ごくり、と。メロン先輩は、勝手に私の紅茶を飲んでから続ける。
「『もの』の中に『者』が混ざっているというヒントと、『何者』という熟語を使用することで不自然さを隠す工夫。気付かなかったザクロやスモモを恥じてしまうほどにフェア――いいえ、むしろ貴方にとって不利な挑戦をしていたわね」
「バレてしまいましたか」
私がそう言って話を切り上げる前に、
「でも、一番面白かったのは、例の矛盾。あれを仕掛けた本当の理由の方よね」
メロン先輩は、私が残していた最後の隠し砦までもを粉砕してしまった。
「午後1時30分に中央廊下を通過したものがいないのは絶対におかしい。
本文と補足に矛盾があるというのは中々面白かった。
では、何の為にあんなことをしたのかしら? 勿論、一つは別解を防ぐ為だろうけど、もう一つ、とても可愛らしい理由があるのでしょ?」
可愛らしいなどと言われて少しムッとするが、ここまで見抜かれているのであれば仕方がない。
「はい」
私は素直に白状する。
「あれは保険でした」
その時、メロン先輩が意地悪く笑ったのを私は見逃さなかった。
彼女はすぐにそれを楽しげな笑みに変えると、
「正直、貴方の問題はパズラーとしての側面ではザクロに及ばない。ミステリとして解く楽しみは犠牲にしてしまっている。真相の意外性も到達した喜びもまだまだ未熟。
ただし一方で、別解を前提とした上での対処の仕方を含め、ミスディレクションの面では上回っていた。
けれどそういう問題って、考えながら読んでいないが故にミスディレクションにすら気付かない人が、全ての罠を無視してあっさりと真相に辿り着き、結果的に大したことのない問題という烙印を押すことが往々にしてあるのよね。
だからあなたは、それをやられた時の為に、あの矛盾を作った」
その通りだった。他人の口から語られることで、自分のその考えが酷く言い訳染みたもののように思えてきて途端に恥ずかしくなるが、見透かされているなら黙っている方が恥だと覚悟して、私は口を開く。
「……想像や経験、勘や感情で現実の事件を解決すると、とんでもない冤罪が生まれるのと同じです。そんなものはミステリを解いたとは言えませんよね。
だから、もし真相だけを当てられたら、『こんなわかりやすい仕掛けに気付かなかった貴方は何の推理もしていない』とカウンターするつもりでした。
つまりあれは、ゴールテープの先に仕掛けた罠です。ゲームのルール的には、それでも私の『負け』になるのでしょうけど」
「残念ながらそうね」
メロン先輩は嘲笑しながら続ける。
「道中の標識を一切見つけずに、勘でゴールテープに辿り着いたとしても、テープを切った時点でその人の『勝ち』よ。
貴方はそれが悔しいから、テープの先に落とし穴を掘った。しっかりと標識を見て辿り着いた人は、テープを切った後に歩いてはならないという情報を事前に得ている、という加虐的な選別を加えて。
まぁ、貴方の作ったコースでは、ゴールにすら辿り着かず、道に迷った子羊ばかりだったみたいだから同情するけれど」
スモモ先輩が恥ずかしそうに俯いた。
なるほど、ザクロ先輩が早々に立ち去った理由がわかった気がする。
出題者の私ですら、先程までの満足感を一瞬で粉砕されて、悔しさばかりが湧きあがってくる。
「じゃあ、未熟なイチゴミステリの解体ショーはこの辺で辞めておきましょうか」
まるで「まだ続けられるけど」と言われているみたいで不服だった。どうせなら受けて立とうと口を開きかけたが、メロン先輩は既に私から興味を失っているようだった。
私から外れた冷たい視線。
彼女の刃の矛先は、気付けばミカンちゃんに向いていた。
「――どうかしら、ミカン。イチゴのこの出題。『F宛女学園』の件もそうだけど、ミステリを暴くというのは、真相ではなく作者の仕掛けや工夫を暴くことと同義だとわたくしは思うのよね。
場所の誤認なんていう単純な真相は、今回はサブウェポンであって本質ではない。
真相ではなく煙幕がメインディッシュだなんて発想、この原稿に施された様々な装飾が何一つ見えていなかった貴方には、永遠に思いつきもしない類のものでしょう?」
ミカンちゃんが奥歯を噛み締める。
プライドの高い女の子だ。もしかしたら、これをきっかけに退部してしまうかも知れない。
今回は流石に、親友である私がフォローする必要があるだろう。しかし、きっかけを生み出したのが私自身の原稿であるという点が、大きな懸念事項だ。
一体、なんて声をかければ?
そんな私の逡巡を打ち砕くかのように、
ミカンちゃんは――口の端を釣り上げて、攻撃的な笑みを浮かべていた。
初めて見る幼馴染の表情に背筋が凍る。
メロン先輩。貴方、私すら知らないスイッチを押してしまったみたいですけど?
「あはははははは」
ミカンちゃんは愉快そうに哄笑する。
「よく考えたら、こんなママゴトミステリに付き合ってあげていたあたしが寛大過ぎました」
「ふぅん。じゃあもう退部するのかしら」
「いいえ。メロン先輩――あたしがお手本を見せてあげます」
…………お手本?
それはつまり――
「――次の出題は、あたしがやると言っているのです」
攻撃的な笑みは、自信家の笑みへと変貌していく。
この部室で、彼女がこんなにも楽しそうな表情を浮かべるのは初めてのことだった。
メロン先輩とミカンちゃん。部長と新入部員。笑みを浮かべた二人が、初めて対等に向かい合う。
「――メロン先輩」
挑発的な声で、ミカンちゃんは続ける。
「どうせなら、何か賭けましょうか? これまでとは違って――相互に」
「望むところよ」
メロン先輩は即答する。
……いやいや、ちょっと待って?
私を無視して話を進めないで貰えませんか?
「――よし決めた」
楽しそうな口調で、メロン先輩は続ける。
「次回のゲームで、わたくしを含めた全員を負かせば貴方の勝ち。貴方が勝った場合――F推会のルールを自由に作り変える権利を与える」
「ちょ、ちょっと! メロンさん!」
スモモ先輩が動揺して抗議する。
メロン先輩はその声を無視して、
「ルールFを削除して、それ以外のルールを大量に追加してもいい。以後、わたくし達は貴方がつくったルールに従ってゲームを行うわ。けれども貴方が負けた場合、二度とルールFに対して文句は言わせない」
「面白いですね。受けて立ちます」
ミカンちゃんの瞳には、革命家のような闘志が宿っている。
メロン先輩も、賭け金のテーブルから『ルールF』を取り下げるつもりはないらしい。
いくら部長とはいえ、ソレは独断で賭けても良いものなのか?
「――決定ね」
……良いものなのか。
F推会の女王たるメロン先輩は、挑発的な笑みで宣言する。
「では、4月25日、来週の放課後。この場所でF推会の運命を決めるゲームを執り行う。出題者はミカン。勝敗によって、F推会のルールは変化する。貴方が負ければもう二度と文句を言わない。それでいいわね?」
「――ええ。残念ですが、子供の御遊戯はこれでお終いです」
ミカンちゃんはメロン先輩の目を真っ直ぐに見つめて、
「あたしが皆さんに――本物のミステリというものを見せてやります」
私達全員に宣戦布告した。
F推会を破壊しようと目論む革命児のミカンちゃんは、一人でスタスタと帰ってしまった。
ただし先週と違って、悔しそうにではなく、楽しそうな笑みを浮かべて。
問題は放っておかれた私の方である。
今日は私が出題者で主役のはずだったのに、どうして『メロン先輩VSミカンちゃん』の構図で幕を閉じてしまうのだ。
おまけに、F推会の世界観をひっくり返すような本気の賭けまでして。
モヤモヤする。
こんな気持ちのまま一人で帰宅することになるのだろうか。
そう思っていると、なぜかスモモ先輩が「一緒に帰りませんか?」と声をかけてくれた。
突然の申し出に戸惑いつつも了承し、彼女と共に帰宅することとなった。
予想していたことだが、スモモ先輩は歩くのがとても遅かった。
ミカンちゃんの半分くらいのスピードだなと苦笑しつつも、彼女のペースに合わせる。
いつもと違って、景色を楽しむ余裕がある。夕焼けの赤が目に染み込んで、たまには、こういうのもいいものだなと思った。
――とはいえ何を話せばよいのだろうか。
スモモ先輩はとても接しやすい人ではあるけれど、趣味や趣向がいまいちわからない。
思い切って、どうして髪をピンクに染めているのかとか訊いてみるか?
そう思っていると、彼女の方から会話を初めてくれた。
「イチゴさんは、好きな男の子とか、いますか?」
けれどそれは、私が苦手とする類の、何とも気恥ずかしくなる話題だった。
ミカンちゃん以外の人と接していると、こういった会話もしなければならないのだろうか。
嘆息しながら、私は「いません」と正直な所を答える。
けれど、スモモ先輩はこちらの気を知ってか知らずか、話題を変えてはくれなかった。
「どういった男の子が好みですか?」
「好み、ですか?」
思わずおうむ返しをして時間を稼いでしまう。しかし、無言でいる時間が長くなるほど答えにくくなることを懸念して、
「中性的で、ミステリアスな男の子が好きです」
正直に答える。その瞬間に、夕焼けの赤では誤魔化し切れないほど、自らの顔が朱に染まるのを感じた。
「そ、そういえば次回の出題!」
私は堪らなくなって話題を変える。
「ミカンちゃんが名乗りをあげなければ誰が担当する予定だったのですか? なんとなく、次はスモモ先輩なんじゃないかなーと思っていたので!」
「いえ、わたしではありません。順番的にはメロンさんかと。きっと、イチゴさんの問題を細部まで暴いた後、そのままの流れで宣戦布告するご予定だったのでしょう」
つまり、ミカンちゃんはその計画を横取りしたという訳か。
いや、それよりも、
「スモモ先輩が出題する予定はないのですか?」
「……ええ。お恥ずかしい話なのですが、わたしはミステリのような難しいお話を考えるのが苦手で、実は一度も出題者になったことがないんです」
「一度も?」
「はい。去年も出題は任せ切りで、今年こそは――という意気込みで机に向かってはいるのですが……ごめんなさい、少なくとも次回までに形にするのは厳しいです」
「意外ですね」
そう返事をしつつも、確かに優秀な読み手が優秀な書き手とは限らないという話はよく耳にするなと思った。
「ザクロさんやメロンさんとは一年以上の付き合いですから、今更下手な問題を出て失望されたら、という不安もあるのかも知れませんね」
スモモ先輩は寂しげにそう言ったかと思うと、一転して明るい声色になり、
「ですので、問題が完成したらまずはイチゴさんだけに見てもらえたら嬉しいなぁ、なんて思っております」と微笑んだ。
スモモ先輩のその笑みが少し挑戦的に見えて――それにドキリとしつつも、
「お安い御用ですよ」
と、私は宣戦布告の意を込めて了承する。
「いつか、スモモ先輩の問題を独り占めできる日がくればいいなと思います」
「あはは、恐いなぁ」
「身構えるのは私の方ですよ。それに恐いと言えば、今日のメロン先輩の方がよっぽど……」
「あ、やっぱりそう見えちゃいましたか?」
見えちゃいましたもなにも。
「スモモ先輩はそう見えなかったのですか?」
「ええ」
涼しげな顔で微笑んで、
「だってあれ、全部演技ですから」
彼女は懺悔するように、そう呟いた。
「……演技?」
「色々とおっしゃっていましたが、ミカンさんへの負の感情なんて絶対にないのでご安心ください。
メロンさんもザクロさんも何もおっしゃいませんが、お二人とも、ミカンさんには感謝しているのですよ。勿論わたしも」
「感謝? 何かありましたっけ?」
「ええ、そりゃもう。ミカンさんのおかげで、F推会は廃部を免れた訳ですし」
初耳だった。
「知りませんでしたか? 部員が六名以上いない部は廃部なのですよ。ミカンさんがイチゴさんとリンゴさんを連れて入部してくれなければ、今頃F推会は存在していませんでした」
だからか――と思った。
初対面のあの時。先輩方のテンションはいつもより少しだけ高かった。無論それは、今だからこそ比較できることなのだが、それ以外にも――
あの日、部室のテーブルの周りには、最初から座布団が六つ置かれていたことを思い出す。
考えて見れば、一年生が三名入部してくることを先輩方があの時点で知るはずがないのだ。
『六』を越えなければ、廃部になってしまう。だから、願掛けのような意味合いがあったのだろう。そんなことにも気付かなかった自分に苦笑してしまう。
レモン先生やザクロ先輩が初日に口にしていた『良かった』という言葉は、想像以上に重かったのだ。一気に三席が埋まる。大げさかも知れないが、それは奇跡のような出来事だったのかも知れない。だとすれば、ミカンちゃんの功績はとても大きい。
「……帰ったら、このことをミカンちゃんに伝えてもいいですか? 皆が感謝しているって」
「ええ、是非そうしてください」
「それで、演技というのは?」
「ああ、そうでした」
スモモ先輩は申し訳なさそうに微笑んだ後、小さな声で続ける。
「わたしは先程、皆で演技をしてしまったのです。メロンさんは独断であんなことを提案した訳ではありません」
「あんなこと? F推会のルールを賭けた条件のことですか?」
「ええ。実はあれ、ザクロさんの発案なのです」
「ど、どういうことですか」
「『Fアップルパイ盗難事件』が終わった直後に、『いつかミカン君が爆発したら、この条件で勝負を仕掛けてねじ伏せよう』と提案されました。こんなにも早いタイミングでそれが起こるというのは予想外でしたが」
用意周到な保険だった。
「……さ、さっきは感謝してるって言ってたのに」
「負けても一興――と、メロンさんはおっしゃっています。ミカンさんが退部されて五人になればF推会は廃部です。それなら、彼女主導で普通のミス研なんてのをやってみるのも面白いかも知れない。
だから、ミカンさんが爆発した瞬間に決着を付けに行くという計画だったのです。F推会であれ、ミス研であれ、どんな未来であっても確実に六人の部員を残す為に」
まさか、数分前の剣呑な雰囲気が計算された物だったとは。
どこまでも、先輩方の手のひらの上である。
それを少し痛快に感じてしまっている私は、言い訳の仕様もないくらいに、ミカンちゃんと対立してしまっているのだろう。
先輩方はF推会を遊び尽くしたから、それもまた一興なんて言えるのだ。私はまだ、あのゲームを失いたくはない。
ミステリマニアがつくる『本物のミステリ』は確かに凄く気になるけれど、今はそれに対する敵意が勝る。
人生の楽しみを賭けた、絶対に負けられない戦いなのだ。
けれど後に私は、『Fブラックチョーク消失事件』の、その『ただのブラックジョーク』のようなレベルの低さを、酷く恥じ入ることになる。
そう。きっとこの時の私は、まだまだ舐めていたのだと思う。
ミカンちゃんのことも――メロン先輩のことも。
[第三話【VS怪盗グアバ ドリアンダイヤ戦】へ続く]
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