第7話 ⑤

 その時、部屋の扉を叩くものがあった。ギストが扉を開けると、女性が飛び込んできた。

「ギスト様。いらっしゃるなら言って下さればいいのに」

「悪いね、今日は別の人に話を聞いていてね」

 普通の服を着ているその女性は、ギストに抱き着いたままアゼルの方を見る。セリスとほとんど変わらないくらいの年齢だろうその女性は、顔の右側を髪で覆っていた。大きな傷と潰れた目を、そうやって隠しているのだ。

 ギストはその女性に銅貨を渡すと、アゼルに行こうかと声を掛ける。名残惜しそうな女性に宥めるような別れを告げてギストはその店を後にし、アゼルも慌ててその後を追った。

「あの店は、この界隈じゃ一二を争う高級店なんだ」

 たいていは辻で客を取り、土間なら室内であるだけ上等、路地裏で済ます事も珍しくはない、そんな場所なのだとギストは言った。彼女達の事情も察してやって欲しいという彼の言葉に、少年に過ぎないアゼルは返す言葉もなかった。ギストは聖堂の活動として、そんな女性達の保護や指導を行っているのだという。

 光と闇の二柱の神が睦み合う調和の中でこの世界は誕生した。すなわち、男女の睦み合いは寿ぐべき事である。しかし、二柱の神が睦み合うとされる七日に一度の日は、聖堂の扉を固く閉め聖堂に勤める者も聖堂の外で過ごさねばならないとされている。すなわち、男女の睦み事は秘すべき事でもあるのだ。

 春をひさぐ者は、その秘すべき睦み事を露わにしてしまうが故に、忌避される存在なのであった。そのため多くの街で、聖堂が彼女らの管理や取り締まりを行っている。

「金を取るだけだがな」

 女性を扱う店は聖堂に定期的に金を納め、聖堂はその店を保護する。そういった店に雇われていない女性も、個別に聖堂に金を納めれば保護を受けられる。支払いを巡るいざこざの解決や、病気にかかった場合の治療なども聖堂が行っていた。

 アゼルが庇おうとした女性は、聖堂に金を納めた証明となる符を持っておらず、あの男達はそれを咎めていたのだ。そういった女性を指導するのも聖堂の仕事だった。

「そんな事もするんだ……」

「ああ。とても大切なそんな事だよ」

 広い通りに出ると、ギストは露店で炒った木の実を買い求める。店の主人の疲れきった表情が、銅貨の受け渡しの時だけ緩むのを、アゼルは複雑な思いで見つめていた。袋に入った木の実を一握りアゼルに分け、ギストは食べながら話を続けた。

 アンリンに逃れてくる人でも、家財や財産を持って来た人は、市中に住まいを確保する事もできる。しかし当然、そんな人ばかりではなかった。

 南のケレタロン侯との和睦は成立したが、長く続いた小競り合いの結果、身一つでアンリンに流れてくる人も多いのだ。魔物の出現も、その傾向に拍車をかけている。そういった人達は、街の最も外側にあたる街壁付近に住み着くようになっていた。

 ここは早くから人が住むようになった場所なので既に建物が建ち並んでいるが、別の場所にはいまだに地面に天幕を張って過ごすしかない人達もいる。

「こういったところじゃ、安全すら十分に確保されていない」

 安全な場所を求めて必死の思いでたどり着いたアンリンの街で殺される、それすら珍しい事ではないのだ。道の隅の黒く変色した土の上に、蓆を被せられたものが置いてあった。アゼルは息を飲んでギストを見る。表情の変わらないギストの顔は、アゼルの無言の問いを肯定している。

「魔物の事は恐ろしかった事しか覚えていない。けど、その後の事は一切忘れていない」

 ギストは静かに言った。

 魔物に襲撃され、僅かに生き残った隊商の人達ともに逃げた事。命を失った者、家族を失った者、体を失った者、財産を失った者。失った事で引き起こされる全ての苦しみを目にし、あらゆる悲しみがその身を襲った。

 ここにある全ては、決して他人事ではない、ギストはそうつぶやく。そしてアゼルに言った。

「神器が見つかればどうするのかと聞いたね……それは愚問じゃないのか?」

 もう少しここで仕事があると言って、ギストが立ち止まった。いつまでアンリンの街に留まるのかと彼は聞いたが、アゼルはそれに答えず、代わりにまた来ていいかと聞く。

 ギストは、アンリンを発つのが予定より早くなりそうだとだけ言った。軽く手を挙げて歩き去ったギストの後ろ姿を、アゼルはじっと見つめていた。






 谷間を流れる川と、その両岸の山肌にへばりつくような街を見下ろす位置に、その城は建てられていた。古城を増改築して整備したであろう事がはっきりと見て取れる姿だ。青年は一人、城で一番高い塔の上から辺りを眺める。見慣れた山間の風景は、緑が濃くなり始めていた。

 青年の厳しい視線は足元の街を飛び越え、山の向こう側へ向かっている。強い風が栗色の髪をなびかせ、青年は忌々しそうに舌打ちをする。

「王冠を着けなされ、髪留めくらいの役には立ちましょう」

 背後からの声に、青年はゆっくりと振り返る。魔術師の服を着た痩せぎすの老人が、杖を片手に塔の上に上がってきた。腰は少し曲がっており、歯が何本か抜けているため言葉も少し聞き取りにくい。

「確かに、髪留めに過ぎんな」

 青年の言葉に、老人はひやひやと笑う。老人の態度に顔をしかめながら、青年は落ち着いた言葉で問う。

「昨晩はどんな夢を見られたのです?」

「良い食べ物に美味い酒、柔らかな寝床ですでな。夢も見ずに寝とりますよ」

 笑いながら言う老人に、青年は冷めた視線を向ける。この魔術師は、夢で未来を見る魔術を使うのだ。魔術自体の成功率は低いのだが、魔術師が夢で見た事は間違いなく現実となる。その予言の正確さは、青年自身が身をもって知っていた。

 そのため青年は、その魔術を神器探索に使うため、老人を召し抱えたのだ。老人は最近の神器や魔物に関する状況を聞く。

「やはり増えとるようですな。探索の手も足りますまい」

「どの道、大臣どもは反対しかせん」

 今日の会議も無駄に終わったと、青年は吐き捨てるように言った。老人は笑うのをやめ、アンリン辺境領での神器探索の首尾を訪ねた。

「ゼバックからの報告はまだだ」

「逃げられましたかな」

 もう少し早く夢を見ればよかったと老人は言う。アンリン辺境領の北の外れにある村から旅に出た男女が神器を持っている、老人はそんな夢を見たのだ。それは直ちに神器探索を行っている者へと伝えられた。情報が間に合っていれば、すぐにでも神器の確保が出来たはずだ。詳しい事は報告書と、本人の口から確かめねばならないが、おそらく取り逃がしたのであろう。

 老人は、遠くを見つめている青年の横顔をじっと見ていた。この小さな谷間で、青年の英邁さがもがいている。そして青年の若さは、もがく以外の手段を知らない。老人は、この青年に関する夢を見ないで済むよう願った。

 それが、良い夢であるようには思えないからだ。老人は、塔の中に戻ろうとした。

「ネイ師、どのような些細な夢でもご報告をお忘れなきよう」

「分かっとるよ。他の魔術師連中と違って、寝て夢を見るしか能がないでな」

 ひやひやと笑いながら老人は言う。青年は、老人以外にも多くの魔術師を召し抱えているのだ。再び強い風が吹き、老人は顔を背ける。

 塔の上に掲げられている旗がはためいていた。旗にはアラタシア王家の紋章が描かれている。

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