第7話 ③
かつて栄華を極めたアラタシア王国では、全国を覆うように密偵網が張り巡らされていた。諸侯の庭、領主の台所、貴族の寝室に至るまで、密偵は入り込み様々な情報を王宮に伝えていたという。国の危機をいち早く察知し、問題が起こる前に対処する、それが王国の繁栄を支えていたのだ。
古い言葉で陰を意味するサヒューラと呼ばれていた密偵達も、王国の崩壊とともに散り散りになった。個々の能力を買われて王侯諸侯に仕える者はいたが、網ではない密偵に出来る事は少なかった。
「ではゴーラン卿、お気をつけて」
「サヒューラ再興の件、考えておいてくれ」
アンリンの街にいる密偵の老人は曾祖父の代からサヒューラであり、各地を転々としながら独自の密偵集団を作っていた。今はアンリンを拠点に金銭による契約で情報を提供しているのだが、正式に召し抱えたいという打診を受けていた。
それも、単に手足となる密偵としてではなく、かつてのように全国に張り巡らされた密偵網を再構築したいという申し出なのだ。老人は腕を組んで、今しがた見送った若い男の事を考える。
彼の部下を含め、全員が若者だ。契約のために一度だけ会った事のある彼らの主君も同じく若者であった。老人の目から見れば彼らは未熟であり、やっている事は密偵の真似事に過ぎないと感じる。
サヒューラとして個人的な技能や組織的な技術を受け継ぎ、小さいながらも密偵集団の頭目として部下や協力者達を束ねる者としては、そんな彼らからの申し出を簡単に受ける事は出来ない。それでもなお、その申し出には抗しがたい魅力があるのも事実だった。密偵網の再構築、それはおそらく手段だからだ。
その先には、ある目的が存在するはず。そしてそれはきっと、若者の無謀な夢や、無軌道な野心といったものではない。
「王命のままに、か」
かつての王国時代、サヒューラは王に直接会う事が許されており、その言葉は王への忠誠を示すものだったという。日の出のラッパが城の方から聞こえてきた。
「旦那様、お客様がおいでです」
店の従業員の声に、老人は頭を切り替える。密偵の最も大切な仕事は、市井の人間として真っ当に生活する事だ。そうすれば、たいがいの情報は向こうからやってくる。経営する茶店の常連にはファロ村から出てきた者もいた。何らかの話は聞けるはずだ。老人は店に出て、朝からやって来る常連達に挨拶をして回る。
従業員が店先に看板を掲げ、通りに向かって開店を告げた。
アンリンの茶店は、椅子とテーブルと炉そして湯だけを提供する店であり、茶や食べ物は客が各自で持ってくる。飲食のできる店と比べて格段に安いので、裕福でない人でも集まれる社交場なのだという。掲げられた看板を横目に、アゼルは聖堂に向かっていた。
露店を片付けている人と、露店を建て始めている人が、通りのあちこちで声を上げていた。丁度、夜の露店と昼の露店が入れ替わる時間なのだ。夜に仕事をしている人がいるというのは、アゼルにとっていまいち理解しにくい事だ。
聖堂は昨日よりも人が多い。今日は二柱の神を祀る日で、男性も女性も聖堂に入れる日だからだろう。昨日のように揃いの服を着ている聖堂の人に声を掛け、人を訪ねて来た事を告げる。ギストは不在であった。
「多分、あそこだと思うんだけどな……」
「教えてもらえますか?」
アゼルの頼みに、その人はどこか気まずそうな様子を見せながら、地図を描いて場所を教えてくれた。その様子に首をかしげながら、アゼルは聖堂を後にする。
教えられた場所は、聖堂のある街の中心からずっと離れており、街壁の近くだった。この辺りになると、街並みも雑然とした感じになり建物も質素な物ばかりとなる。排水路の整備も不十分なのだろう、ときおり嫌な臭いが漂ってきた。
人々の活気は中心街と変わらない感じだが、その視線の端々からどこか澱んだ雰囲気も感じる。アゼルは腰の長剣に手を添えて歩いた。狭い路地をすり抜けるようにして、露店が並んでいた通りの裏手側へ回る。建物が密集していて、この時間ではまだ薄暗い感じがする場所だ。
「この辺りのはずなんだけど……」
聖堂の人が木切れに書いてくれた地図を見ながら、アゼルは周りを見回す。誰か人はいないかと思ったところに、建物から出てきた人がいた。薄衣を一枚着ただけの大人の女性。慌てて目を逸らした彼に、その女性が声を掛けた。
「可愛いお兄さん、朝早くから元気ね」
耳を撫でる様な艶っぽさと、泥のような疲れが同居した奇妙な声。アゼルは足早にそこを後にする。
しかし周りも見ずに慌てて歩いたため、完全に道が分からなくなってしまった。一旦、広い場所に出て人に聞こうとかと考えたが、耳に入ってきたか細い悲鳴がその考えを吹き飛ばす。アゼルの足は悲鳴の方に走り出していた。
いくつもの怒声の間から、許しを請う弱々しい女性の声が聞こえる。うずくまった若い女性を、三人の男が取り囲んでいた。
「符がねぇ奴が客を取っちゃならねぇって、分かってるはずだよな」
「許して下さい、許して下さい」
「最近、あんたみたいなふざけた女が多くてな。真っ当な女が困ってんだわ」
「どうか、どうかお情けを」
「ん……?」
男の一人がアゼルが駆け寄ってくる音に気付いて視線を向けた。アゼルは足を緩め、今度はゆっくりと近づいていく。
「何の用だ、ガキ」
「……悲鳴が聞こえたから、駆けつけただけだ」
「なら、心配ねぇよ。失せな」
うずくまっていた女性が顔をあげた。涙と崩れた白粉と砂で汚れた顔、怯えた目が助けを訴えている。アゼルは男達から数歩だけ離れた位置まで足を進めた。
男の一人が立ち塞がるようにアゼルの前に立った。男は威嚇するような眼をそのままに、口調だけを柔らかくしてアゼルに言う。
「ガキの小遣いで買えるのを探してるのか?」
「……」
「俺がちゃんとしたのを紹介してやる、だからちょっと待ってな」
その男が合図をすると、後ろの二人は女性を抱え上げ連れ去ろうとする。それを押し留めようとアゼルが体を動かした瞬間、男に足を払われた。崩れた体勢をそのままに、アゼルは地面を転がって、女性の腕を掴んでいる男に体をぶつけた。
体をぶつけられた男がよろめき、もう一人の男が激高して脚を振り上げる。アゼルは歯を食いしばって両腕で男の蹴りを受け止めた。つま先が胸に当たってアゼルはむせ込むが、蹴った男も脛をおさえてうずくまった。掴みかかる腕をかいくぐるようにしてアゼルは立ち、両拳を眼前に構える。
「ここの商売を知らん田舎者か」
「女から金を巻き上げるのが商売か?」
「勘違いするなよガキ、払うべきものを払ってんなら俺らも何も言わねぇさ」
男はそう言いながら両手を広げた格好でゆっくりと近づいてくる。アゼルの拳が届かないギリギリの距離を見極めるように足を止めると、不意に視界から消えた。同時にアゼルの視界そのものが傾く。男が身をかがめると同時に足を刈ったのだ。受け身を取るアゼルは、二人の男が同時に飛びかかってくるのを見た。地面の砂を掴んで一人の男の目を潰すが、もう一人の男の蹴りは受け止めざるを得なかった。
建物の壁が背中にぶつかるが、アゼルは何とか起き上がった。口の中の血の味を吐き捨て、男達を睨みつける。男達の目つきも変わった。アゼルの足を刈った男がゆらゆらと近づいてくる。
アゼルは視線をわざと足元に向けた。次の瞬間、男の拳がアゼルの顔面を襲う。
「ぬぁっ!?」
アゼルの拳が男の拳を止めていた。しかも単に拳を合わせただけでなく、男の小指を狙って拳を当てた。怯んだ男に追撃の拳を見舞おうとするが、その前に男は腰砕けになったように倒れてしまった。
後ろにいた二人も同様に倒れており、煙のようなものが辺りに漂っている事に気付く。
「眠りの煙、下手に近づくと君も夕方まで熟睡だぞ」
その声にアゼルが振り向くと、ギストが建物の陰から姿を現した。その後ろには、聖堂の服を着た人達が何人かいる。アゼルが庇った若い女性は、彼らを見て怯えの表情を一層強くした。
ギストはアゼルが声を発する前に、後ろの人達に指示を出した。
「彼女はいつものように保護を、その三人も介抱してやってくれ。この彼は私の知り合いだ、しばらく外すぞ」
ギストは何か言いたそうなアゼルに、ついてくるよう言った。角を数回曲がって、一軒の建物の前で立ち止まる。扉をたたくと、口元だけが笑っている男が顔を出した。
「これはゼヤ師。いつもの娘なら、」
「いや、今日はその件じゃない。部屋を開けられるか? 立って話すには長い話でな」
ギストが差し出した銅貨を数え、男は二人を中に招き入れた。外見よりは立派な内装だ。だがそれよりもアゼルの視線を奪ったのは、所在無げにたたずむ女性の姿だった。薄衣をまとっただけの女性が数名、疲れた視線を投げかけてくる。目を逸らすアゼルの耳に含み笑いが聞こえるが、ギストは気にしない様子で階段を上っていく。
粗末なベッドが一つだけ置いてある狭い部屋に通され、ギストがどこから持って来たのか椅子を運び込む。それに座ったギストは、アゼルに座るよう言った。アゼルは恐る恐るベッドに腰を掛ける。
「まぁ、色々と聞きたい事はあるだろうが、私から一ついいかな」
そう言ったギストは、セリスがどこにいるのか、一緒にいなくていいのかを聞く。アゼルには答える義理のない質問だ。彼女はテミウに神器や魔術についての詳しい話を聞いているところだった。
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