第5話 ④
長く話して疲れたのだろう、マーレンは昼食も食べずに眠ってしまった。セリスは昼食を終えると、リノン達をアゼルに頼んで家を出た。少しの間、一人で考えたかった。池の岸辺に立ち、春の日の光を受けてきらめく水面を見つめる。
彼女はここでアゼルに助けられた。その時の記憶はなく、目覚めたのはマーレンの家のベッドだったが。
それ以前の記憶は彼女にはない。セリスという名を覚えていただけで、それ以外には何も思い出せない。言葉も分かり、日々の生活の様々な事は出来るので、自分に関する事だけを忘れているようなのだ。
「でも……」
マーレンから聞いた神器の話は、セリスに一つの疑問を生じさせていた。怖くて、マーレンには聞けなかった疑問。自分はいったい何者なのかという疑問。二柱の神の意志としてこの世界に遣わされる武器、それがセリスなのだろうか。
もしそうだとすれば、セリスはいかにあるべきなのか。
アンリンの魔術師が言ったように、神器を正しく使わなければならないというのは理解できる。人に害を及ぼす魔物を倒すためにこそ、神器の力は使われなくてはならない。神器がそのようにあるべきであるのなら、セリスもまたそのようにあるべきなのか。
今日までのセリスは、あるべきではなかったのか。
この村で過ごした一年、それは彼女にとって記憶の全てであり、人生の全てだ。食事をし、洗濯をし、買い物をし、機を織り、服を繕い、畑を耕し、草を刈り、木の実を取り、家畜を世話し……そんな毎日をセリスは過ごしていた。リノンに編み物を教え、ナギとヤナンに本を読んで聞かせ、マーレンの手伝いをし、アゼルとともに笑いあう……そんな日々を送っているのがセリスだった。
それはセリスとしてあるべき姿ではないというのだろうか。
「それは、違う」
口に出して否定した。セリスは視線を巡らせる。もう魔物の残骸は残っておらず、池の端は元通りの姿に戻っている。
しかし、あの時の恐ろしさは今もセリスの中から消えていない。そして、自分の中の光から剣が現れた事も、それが魔物を倒した事も否定できない。神器がセリスへと遣わされた事は、まぎれもない事実なのだ。
セリスの黒髪が風に揺れる。彼女は自分の胸を押さえる。
「神器が私に遣わされた意味、か」
魔物を倒すため、それは神器が遣わされる意味であって、セリスに遣わされた意味ではないはずだ。魔物を倒すためであれば、ただ武器として現れ、聖堂の者が正しく使えばいいのだから。
そういった形で、この神器は遣わされなかった。そこにある神の意志を考えろとマーレンは言ったのだ。ただの武器としての神器ではなく、セリスという神器が遣わされた意味。
「ただ正しく使われるだけの道具としてではなく、私として神器がいかにあるべきか」
自分自身に何が問われているかが分かりかけて、セリスは踵を返す。
その問いに答えを出すには、知らなくてはならない事がたくさんあるのだろう。そして今や、マーレンからそれらを教わり、その答えを導き出す事は出来ない。
だが、答えを出さずに済ませる事も出来ないのだ。
神器のあるべき姿が、あの魔術師が言っていたようにただ正しく使われるだけの物であるなら、セリスもまたそのような物として存在しなくてはならない。彼女が過ごしたこれまでを否定し、あの魔術師の語ったあるべき姿で過ごさねばならない。
それを違うと否定したのならば、セリス自身が神器のあるべき姿を知らねばならない。この村で過ごした日々こそが自分のあるべき姿なのだと言うためには、セリス自身が神器のあるべき姿を知らねばならない。
セリスは家の扉の前で呼吸を整える。自分が考えた事を、早くアゼルに伝えたかった。
そよぐ風に秋の気配が漂う。暑く長かった今年の夏も、ようやく終わる兆しを見せていた。一時は心配されていた村の畑も、何とか例年並みを見込めそうだ。畑の手伝いを終えたアゼルが、背負っていた籠を下ろす。
リノンがかき回している鍋から野菜を煮込んだスープのいい匂いが漂ってくる。ヤナンに籠の中の物の片付けを頼んで、アゼルは手を洗いに外に出た。帰ってきたセリスに手を振ってみせる。
「日も短くなってきた感じね」
一緒になって手を洗い、食卓の準備を始める。ナギがかまどの灰の中からいくつもの塊を取り出していた。芋を灰の中で焼いていたのだ。指先に息を吹きかけながら、真っ黒になった芋の皮を剥いていく。
野菜のスープと焼いた芋の夕食。森で仕留めた鳥を捌いてスープに入れているため、いつもより味がある。いつまでも骨をしゃぶっているナギをたしなめながら、セリスはスープを小さな鍋に取り分けた。
村で分けてもらった牛乳とスープを合わせ、麦を煮る。マーレンの分だ。
「あぁ、美味しいねぇ」
セリスが口に運ぶ粥を口にし、マーレンは嘆息を漏らす。椀の半分ほどで満足してしまうマーレンに、セリスは困った微笑みしか見せられない。
自らに遣わされた神器がいかなるものかを知るために、セリスは村を出て王都タシアの聖堂を頼る事を決めた。アンリン辺境領のそのまた北の外れにあるファロ村からは、はるか遠くを目指す旅となる。
マーレンは春からずっと、そのための準備をしていた。紹介状をしたため、神器に関する情報を知っている限り与えた。旅に必要な技術を伝え、薬や治療に関する知識も教えた。それがマーレンに負担をかける事は明白だったが、彼女は無理をおしてそれらを行った。
それに加えて今年の夏の厳しさが、マーレンの体力を削ってしまった。今では、自分で食べる事も出来ないくらいに弱っているのだ。耳も悪くなり、言葉もつかえながらにしか出てこない。
セリスが食事を下げようとすると、マーレンは他の者も呼ぶように言った。アゼル達がベッドの脇に集まる。
一人一人の名前を呼び、マーレンはその顔を見つめ手を握った。子供達が聞く。
「マーレンはいつ元気になる?」
「元気には、ならないよ」
「何で?」
「いっぱい、生きたからね。いっぱい、生きたら、ちゃんと死ぬのが、決まりだよ」
「何の決まり?」
「世界を作った、二柱の神様の決まり。あんた達も、知っているだろ、調和と秩序」
涙を浮かべるアゼルとセリスに、マーレンは微笑んだ。
「ありがとうね。あんた達のおかげで、私は、調和と秩序に満ちた、人生を送る事が出来た。あの時あれだけの、魔術が使えたのも、調和と秩序が私の心身に、満ちていたからさ」
マーレンは満足げに息をついた。そしてベッドに沈み込むように眠りに落ちる。
それからは、ほとんど目を覚まさなくなった。熾火のようにゆっくりと、マーレンの命は消えていく。そしてある涼しい朝の日、マーレンはその亡骸をベッドに横たえていた。
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