第5話 ③

 水を張ったたらいの中で、リノンが神妙に座っていた。セリスはその頭に、少しずつ水を掛ける。冷たさを失ってしまっている汲み置きの水でも、きらめくさまには涼しさがあった。今年は、毎日でも行水をしたくなるほどの暑さだ。

 とっておきの石鹸を手に取り泡立てる。リノンの顔や首筋に泡を乗せ優しくこすった。頭と髪も洗ってよく濯ぐ。リノンが頭を振ると、伸ばし始めた金髪から盛んに水飛沫が飛ぶ。手拭いで顔や頭を拭いた。

 水に濡れた薄い下着が体に張り付いているが、この日差しならすぐに乾くだろう。セリスはリノンにうろうろしないように言って、自分も行水を使う。同じように下着を濡らしてしまうが、涼しくなっていいくらいだ。

 セリスはその長い黒髪をリノンがいじるにまかせ、体を乾かす。そよとも風の吹かない日中は、とても静かだ。何となく視線を巡らせると、庭先に顔を出したアゼルとばっちり目が合う。

「セ……あっ、いや、ゴメン」

 慌てて引っ込んだ彼の後を、彼女の小さな悲鳴が追いかける。わざとでは決してないが、アゼルは弁解の言葉を述べ続けた。

 きちんと服を着て、頬を少し赤らめたままのセリスと入れ替わるように、アゼルはナギとヤナンに行水を使わせる。素っ裸ではしゃぐ二人を何とか押さえつけながら、アゼルは二人の体を洗った。

 とある草の根を細かく砕き水に晒した上で乾燥させた粉を、二人の体にまんべんなくはたき付ける。真っ白のまま裸で駆け回る二人を、セリスの怒った声が追いかけている。それを聞きながら、アゼルはたらいと桶を片付け、絞った手拭いで全身を拭く。

「アゼルも早く服を着て、真似するでしょ」

 上半身裸のままのアゼルにそう言うと、セリスは服を投げて渡した。彼はそれを着ると、ナギとヤナンを簡単に捕まえて服を着せる。

 森で採ってきた酸っぱい果物の果汁と乳を混ぜた飲み物を三人に飲ませると、涼しい場所で昼寝をさせた。ようやく落ち着いたという表情で、セリスは椅子に座る。アゼルが淹れたお茶を口にして、小さく息をつく。

 二人の視線がぶつかるが、どちらも目を逸らさない。このような日々を噛みしめられるのも、もうそれほど長くはないという事は、二人とも分かっていた。

 彼らはまだ、自分自身が何者なのか、何を課せられたのかを知らない。だが、それを知らねばならない事は分かっていた。セリスの身に秘められた力は、魔物を打ち倒した。その力がいかなるものかを正しく知らなければ、それは彼女自身のみならず周りの人をも巻き込む災いともなる。

 二人はもう、ここに留まってはいられない事を理解し、ここを出ていくのだという事を受け止めていた。

 だからこうして、今までと変わらぬ日々を噛みしめているのだ。開け放たれた扉から、ほんの少しだけ、涼しい風が吹き込んできた。






 神器の探索にマーレンが出発したのは、五十年以上前の話になる。王都タシアの聖堂を出発した彼女は他の魔術師を頼りながら、戦乱を避けつつ神器についての研究を続けた。聖堂の魔術師長が示した神器の手がかりは、非常に不確かなものであり、詳しい検証が必要だったのだ。

 各地を転々としながら十年以上も研究を続け、マーレンは神器の一つがアンリン辺境領の北の外れに出現する可能性が高いことを突き止めた。彼女はその地に赴き、まだ寒村だった頃のファロ村に居を構えた。以来彼女は、村で静かに生活しながら、密かに神器の探索を続けていたのだ。

 光と闇の二柱の神が遣わす神器。混沌を祓うそれは、魔物を倒す武器として姿を現すとされていた。しかし例外も多く、記録や研究は昔から行われているものの、未だにその概要すら掴めていない。

 マーレンが研究を始めた時点で、現存している神器は五つとされていた。アラタシア王が代々受け継ぐとされる剣を除き、それぞれ別の聖堂が管理していた。しかし今でもそれらが残っているかは不明である。その役割を終えた神器は神の元へ還り、消えてしまうのだ。

 裏を返せば、神器が現れるのはそこに役割があるからであり、それはそのまま魔物の出現を意味する。神器の出現とは、決して吉兆ではない。

 そして神器が武器として現れるという事は、それを扱う者が必要とされるという事でもある。神器を扱う者が何らかの特別な存在である事を示唆する研究もあるのだが、誰にでも扱う事の出来る神器が記録されている資料も少なくない。

 そのため神器そのものよりも、それをいかに扱うかの方が重要ともいえた。魔物を倒す力は、そのまま権威や権力に直結する。そうなれば、神器は本来の使われ方ではない形で使用され、最悪その神器が魔物を倒す前に消えるという事態も招くだろう。アラタシア王国成立以前の古い記録の中には、そのような逸話も残されている。

 聖堂と魔術師はそういった事態を発生させないために、神器とその遣い手が正しく混沌を祓うよう導くのが役目であった。マーレンもそのために、ファロ村で神器の出現を待っていたのだ。

 この地に現れるであろう神器の名は『鞘の乙女』。魔物の姿に応じて、最も適した形の剣を生み出す神器。

「セリス、あんたが見せた力がそれだ」

 マーレンが咳をする。セリスはその背をさすり、煎じ薬を差し出す。一口それを飲んだマーレンは、礼を言うと居住まいを正した。ベッドの脇には、セリスとアゼルが椅子に座っている。マーレンの言葉を聞き漏らすまいとする、二人の真剣な表情が並んでいた。

 穏やかに微笑んだマーレンは遠くを見つめる。窓の向こうには春霞に滲む空が見える。ようやく見つかったとつぶやくマーレンは、二人に視線を戻すと一言謝った。

「どうして、謝るの?」

 セリスの問い掛けに、マーレンは悲しそうな眼を見せた。

「その身に神器を宿す人間なんて、少なくとも私は聞いた事がないんだよ。本当なら、私がきちんとその力を調べて、その扱い方を教えなくちゃならない」

 それが今の自分には出来ないのだとマーレンは言う。一度にたくさんの魔術を使ったマーレンの体は、魔術の源でもあるウィドによって、心身の調和と秩序を著しく乱されていた。もはやそれは回復不能な段階まで来ている。調和と秩序を失った体は、ただ死にゆくだけなのだ。

 マーレンの口から出た死という言葉に、二人は表情を硬くした。覚悟していなかったわけではないが、実際の言葉はその覚悟以上に重いものだ。

「私の事はいいのさ。やり残した事はあるが、もう十分に長生きした」

 明るい声でそう言ったマーレンは、セリスを見つめる。問題は、神器である彼女の方なのだ。そしてマーレンはセリスに、王都タシアの聖堂へ行くよう言った。

 彼女の中にある神器がいかなるものなのか、それを知るには魔術師の力が必要になる。聖堂と魔術師はそのために存在するのであり、協力を求めるのが最も正しい道であった。それを聞いたセリスは、アンリンの聖堂から来た魔術師の事を話す。彼もまた、同じような事を言っていたのだ。

「アンリンの聖堂から……まぁ、そうだろうね」

 マーレンは深く息を吐くように言う。神器を探しているのは、彼女だけではないのだ。

 ならば、どこの聖堂でも同じなのかと問われれば、マーレンも答えを躊躇するだろう。各地の聖堂は互いに緩やかな繋がりを持っているが、それぞれに立場も考え方も違う。事実マーレンも、村に来て以来アンリンの聖堂とは極力関わらないようにしてきた。

 どのような立場、考え方があろうと、神器を正しく扱うという目的に違いはない。そう前置きした上で、マーレンは自分自身の考え方をセリスに伝えた。

「神器はただ遣わされたんじゃない、セリスへと遣わされたんだ。二柱の神のその意志をしっかりと考えて欲しいんだよ」

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