第4話  混沌を打ち払うもの

第4話 ①

 魔物が歩いて行く方向には、アゼル達の家がある。全力で走るアゼルは、その勢いをそのまま乗せて魔物の膝に木剣を叩き込んだ。だが、太い木にでも当たったかのように木剣は弾かれ、アゼルはのけぞるように背中から転ぶ。彼は、眼前を鋭い爪の付いた指が通り過ぎるのを見た。

 転ばなければ間違いなく死んでいた。全身に怖気が走り、アゼルは地面を転がって逃げる。それを追うように、魔物の指が地面を穿っていく。

 もう駄目かとアゼルが思った時、笛の音が響いた。魔物にもそれが聞こえたのだろうか、一瞬だけ動きが止まる。アゼルは仰向けのまま、必死になって木剣を魔物の顔に突き出した。

「……ギィィィィィィィッ」

 魔物の口には隙間なく牙が生えている。その牙が木剣を挟み、不気味な音とともに口の中へと吸い込んでいった。慌てて手を離したアゼルの顔に、細かな木片が降りかかる。魔物がそのまま顔を近づけてきた。牙がうごめく口は、アゼルの顔を粉々にしようと迫ってくる。

 もはや悲鳴も上げられなかった。死という抽象的なものへの恐怖ではなく、血と痛みという具体的な恐怖が、アゼルの体を縛っている。

 だから不意に魔物がアゼルから離れても、彼は動けないままだった。頭を無理やり後ろに引っ張られるような格好で、魔物が地面に倒れていく。

「アゼル! 離れな!!」

 その声、マーレンの叱りつける様な声に、アゼルは全身の力が抜ける。嗚咽を絞り出しながら立ち上がり、流れ出る涙をそのまま走り出した。

「よく無事だった。頑張ったよ」

 マーレンはそう言うとアゼルの頭を一撫でし、セリス達とともにこの場を離れるよう指示する。素直に走っていくアゼルの背を見送ると、マーレンは魔物の方に向き直った。土から生えているかのような金属の鎖が、魔物の全身に巻き付いて地面に縛り付けている。

 だがその鎖の数は、マーレンが魔術で生み出した数よりも減っている。魔物が鎖を一本一本引きちぎっているのだ。マーレンは周りを見回して人がいない事を確認すると、大きく息を吸い込み魔術を発動させる呪文をつぶやく。

「全ては混沌より生ず。我が混沌は炎を生ず」

 マーレンの前方に炎が立ち上がった。それはだんだんと大きくなり、同時に明るさを増していく。青白く光り揺らめきもしない炎が、マーレンの指差した方へと飛ぶ。最後の鎖を引きちぎった魔物に、その炎が命中した。

 周囲は一瞬明るくなり、次の瞬間には聞いた事のない大音響と、熱い空気が吹き抜ける。命中した青白い炎は魔物の体を舐めるように広がり、その全身を焼いた。しかしマーレンは油断なく呪文を唱え続ける。魔物は、何事もなかったかのように前進してくるのだ。

 マーレンの周りに靄がかかった。日の光を受けてきらめく靄の中には、無数の氷が浮かんでいる。靄はやがて一塊になり、無数の氷もまた一つに固まった。丸太のような大きさのツララが出現し、マーレンが腕を振ると同時に魔物目掛けて飛んでいく。

 固く尖った巨大なツララが魔物の体にぶつかるが、それを突き通す事は出来ない。だが、砕けて散った無数の氷は魔物の周囲を飛び、その鋭い破片が再度魔物に襲い掛かる。そうして細かくなっていく氷の破片は魔物にまとわりつき、やがてその体を凍らせていく。

 マーレンは次の呪文を考える。魔物はこの程度では消えない。

 ウィドが形を成した魔物は、どれほど傷つけようとウィドがあるかぎり再生する。そのため絶えず魔物の体を傷つけ続け、ウィドが尽きるまで魔物に再生を続けさせる。それが、魔物と戦う時の魔術師のやり方だ。

 魔物の体が震えだす。体にこびりついた氷が割れて地面に落ちる。魔物は首を真後ろに向けると、そのまま後ろ歩きのような格好で動き出した。今までとは違う動きに、マーレンも身構える。

「全ては混沌より生ず。我が混沌は風を生ず」

 猛烈な勢いで突進してきた魔物が拳を振るう。マーレンはふわりとそれを避けた。太い腕と鋭い爪が、マーレンを捉えようと目にもとまらぬ速さで繰り出される。その全てをかわす事が出来るのも魔術の力だ。速駆けの風の魔術は、マーレンの動きを何倍にも速くしている。

 だが息もつかせない魔物の攻撃は、マーレンに次の魔術を使わせる暇を与えない。魔物が不意に頭から突っ込んできた。腕の動きに注意を向けていたマーレンの反応が、ほんの少しだけ遅れた。

 魔物の口が開かれ、不気味に動く密集する牙が急接近してくる。マーレンに食いつかんとするそれは、しかし突然動かなくなった。魔物の顔が歪み、牙にはヒビが入る。

 マーレンの周囲に巡らされた風の魔術が、魔物の動きを遮っているのだ。しかもその魔術は、魔物の動きを遮るだけではなかった。いつの間にか、魔物の顔の周囲には渦が巻いている。

 それはやがて、魔物の顔をねじ切ろうとするかのように勢いよく回り始める。魔物の顔面にはいくつもの裂け目が生まれ、口の中の牙は砕け折れていく。顔を覆っていた魔術が消えた時には、魔物の顔面はやすりで削り取られたかの様に無くなっていた。

「ったく、多少は効いてもいいんじゃないのかね」

 マーレンは、魔物の顔がゆっくりと元に戻っていくのを見ながらつぶやいた。そして焦りや恐怖を深呼吸とともに吐き出すと、別の呪文を唱える。その声は、少し震えていた。

 稲光が走り、雷鳴が轟く。マーレンの指から放たれた雷の直撃を受け、魔物は大きく跳ね飛んだ。それでも魔物は、全身から煙を吹き出しながらなおも突進してくる。地面から現れた鎖がその足に絡みついて引き倒し、倒れた背中に無数の石が勢いよく降り注ぐ。

 マーレンは膝をついた。肩で息をしながら、何とか呼吸を整えようとする。石の下敷きになった魔物が起き上がる前に次の呪文を唱えたい。

 だが先に動いたのは魔物だった。石の中から上半身だけ起こすと、その石をマーレンに向けて投げつける。風の魔術が石を防いでいるが、その効力が弱くなっている事は石の軌道からはっきりと見て取れた。

「全ては混沌より生ず。我が混沌は杭を生ず」

 立ち上がり呪文を唱えたマーレンは拳を突き出す。空中から湧き出すように現れた黒い靄が彼女の腕を取り巻くように集まっていく。それはやがて太い一本の杭となった。裂帛の気合とともに、杭は高速で飛び出す。

 魔物が投げつける石を弾きながら真っ直ぐに飛ぶ杭は、その体に衝突するや猛烈な回転を始めた。魔物の腕はそれを受け止めようとするが、杭の回転はその腕をも削る。じわじわと魔物の体にめり込んでいく杭は、ついに魔物の体を貫通しその回転を止めた。上半身に巨大な杭を打ち込まれた魔物は、その重さによろめくかのように、数歩だけ後退る。

 激しく咳きこんだマーレンは、風の魔術をもう一度使った。杭で体を貫かれたまま動き出す魔物の姿に、マーレンは突き出した拳を開き「爆ぜろ」とだけ言う。

 魔物に刺さった杭が大爆発を起こした。

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