第3話 ⑤

 しかし、そうやって何らかの行動に移せた者は少ない。その見た事もないものを見ている人は多かったが、それが何物であるかを知るには、それが人を手にかけるところを見る必要があった。外で焚火に当たっていた老夫婦は、最後までそれが魔物である事を知らないままだっただろう。

 老夫婦の頭を跳ね飛ばした魔物は、焚火を踏み越えて歩き続ける。

 細い悲鳴と、子供の泣き声。ようやく異変に気付きだした人々も、その事態を把握し理解し行動に移すまでは時間がかかる。アゼルは走りながら大声を出す。

「とにかく離れろ!」

 幸いにも魔物の動きは素早くなかったが、池の端に集まっている人達は子供と老人ばかり。逃げる側も素早く動ける者は多くない。魔物が逃げ遅れた老婆の頭を掴んで腕を振ると、その体だけが大きく投げ飛ばされて池に落ちるのが見えた。子供を抱きしめてうずくまっている老人に、アゼルは走るよう言って無理やり立たせる。

 魔物が適当に腕を振るだけで、建てられている家が壊れる。池の端の家屋は立派でも丈夫でもないが、まるで藁束でも崩すように壁も柱も簡単に壊していく。中にいた人は、そのまま生き埋めになってしまうだろう。さらに、中で使っていた火が、崩れた家を燃え上がらせていく。

 何人かの男性が、火の着いた薪を手に魔物に向かっていった。人がたくさんいる場所とは逆方向に誘導しようと、魔物から一定の距離を取りつつ薪を大きく振り回して魔物の気を引こうとしている。

 しかし魔物は関心を示す事なく、逆に逃げている人々を追いかけるように足を踏み出した。薪を持っていた人が、それを投げつけて魔物の体にぶつける。すると魔物は足を止め、首だけをくるりと真後ろに向けた。

「グゥゥゥゥゥゥゥッ!!!」

 奇妙な唸り声とともに、そのまま後ろ歩きのような格好で動き出した魔物は、それまでとは打って変わった素早さで突進し、薪を持って魔物を牽制していた人達をまとめて掴み上げる。右手に二人、左手に三人の男性を掴んだ魔物は、彼らを掲げるように持ち上げた。

 低い呻き声が高い絶叫に変わり、不意に静かになる。上半身と下半身で切断された死体が落下し、魔物の腕がおびただしい血に濡れる。二本の指で人の体を切断するまで締め上げたのだ。それを目撃した人は、恐怖に唖然とするだけだった。

 風が運ぶ血の臭いが吐き気を催させ、アゼルは我に返る。こみ上げってくるものを飲み込むと、腰を抜かしている人を助け起こし、泣いている子供を叱咤し、何とかあの魔物から距離を取らせようと走り回る。

 魔物は首を元に戻し、再びゆっくりとした足取りで歩き出していた。その歩く方向を見て、アゼルは思わずそちらに足を向けそうになる。だが、その彼の肩を掴む者がいた。

「あれは何なんだよ!」

「……!! 俺が知るか!」

 青ざめた顔のゲランにそう怒鳴り返すが、アゼルも同じように引きつった表情だ。そのまましばらく、お互いに次の言葉を告げられないまま睨み合う。アゼルは一声吠えて、ようやく言葉を繋いだ。

「この場にいる人達を、魔物から遠ざけろ」

「なっ……俺に命令っ」

「頼むって言えばいいのか!? お前には子分もいるし、言う事を聞いてくれる人も多いだろう!」

 新住民の中心的な家の息子と、池の端に住む魔術師と暮らす孤児では、影響力が違うのだ。ゲランは大きく息をつくと、了解の意志を示すように首を振った。振り返って、遠巻きに見ている手下たちに大声で指示を出していく。

 ゲランがアゼルに、お前はどうするのかを聞こうとした時には、アゼルはもう走り出していた。魔物が天幕に使われていた棒を無造作に投げている。

 恐ろしい速度で投げ放たれるそれは、ディカルダの家の壁を次々と突き破り、ついに倒壊させてしまった。その様子を見ていたセリスは、中に逃げ遅れた人がいたかもしれないと思うと同時に、ここも同じように危険だという事に気付く。

「ナギもヤナンもリノン姉ちゃんの手をしっかり握るのよ」

 三人の子供に、村長の家に向かうよう言い聞かせた。こわばった表情の三人に、セリスは何とか微笑みを返す。そして、先日運び込まれた怪我人を連れて、自分もすぐに追いかけると言った。

 リノンは意を決した表情で頷くと、スカートのポケットから何かを取り出す。

「兄ちゃんが大事なものだから持っとけって言ってたの、姉ちゃんが持ってて」

 それは、マーレンがアゼルに渡した笛だった。何かあった時の合図のためにとマーレンが用意してくれていたものだ。あまりの事態に今の今まで完全に忘れていた事を、セリスは悔やむ。

 急いで家の外に出ると、今まさに魔物がアゼルに襲い掛かろうとしているのが見えた。セリスはリノンから受け取ったそれを口に当て、悲鳴の代わりに思い切り息を吹き込んだ。空気を引き裂くような高い音が響き、家の中の子供達も思わず耳を押さえる。

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