第2話 ④

 村長が帰り、手土産の入った袋を開けてみると小麦の粉だった。隊商から手に入れたものを、わざわざ分けてくれたのだろう。せっかくなので今日はご馳走にしようと、マーレンは扉の陰にいたセリスに声を掛ける。

「ごめんなさい、盗み聞きしてたわけじゃ」

「いいんだよ、秘密の話でも何でもない」

 夕食の支度を手伝いながら、セリスはあらためて礼を言う。記憶もなく素性も分からない自分を何も言わずに住まわしてくれる、それは決して普通の事ではないはずだ。

「魔術師の行動にはそれなりの理由があるものさ。単なる親切でも慈善でもないんだよ」

 そしてセリスも早いうちに独立できる算段を付けなくてはならないとマーレンは付け加えた。マーレンの家にいていいのは、十六歳になった翌年の春までと決められているのだ。そうなれば、ファロ村を離れて別の場所で暮らさなくてはならない。アゼルも、来年の春にはここを出る事になっていた。セリスの年齢ははっきりしないが、年恰好を見ればアゼルとそれほど変わらない年齢のはずだ。

 マーレンはこの村で暮らし始めてから、ずっとその決まりで孤児を育ててきた。どこかから孤児を拾ってきては、大人になるまで育ててくれる。どんな理由があろうと、それは親切であり慈善であろう。アゼルを見ればその育て方が正しい事は分かり、リノンやナギやヤナンを見れば彼女らが幸せに暮らしている事が分かる。セリスはそう言った。

「正しく育ってくれたのかね。昨日も喧嘩をしたそうじゃないか」

「あれは喧嘩じゃありません。私や、マーレンさんのために戦ってくれました」

 はっきりとそう言うセリスに、マーレンは微笑んだ。控え目に見えるが、真っ直ぐな良い子だ。

「池の端うんぬんはさておいて、魔術師は怖がられるくらいでいいんだよ」

「どうしてですか? マーレンさんは……」

「ウィドはこの世の力じゃない。滅多な事で使うものではない、危険な力だからさ」

 実際、マーレンが魔術を使っているのをセリスが見たのは一度だけ、怪我で大量の出血をした人に癒しの魔術を使ったのを見ただけだ。マーレンは、そういうものだと言う。

 魔術師は、魔術を習得する過程で様々な知識を身に着けていく。マーレンのように薬草や香草についての知識を多く持つものや、水路を作る土木や塔を立てる建築の知識を有するもの、複雑な計算を得意とするものや正確な絵を描く技術を持つものもいる。それらを人々の役に立てるのが魔術師の本来の仕事なのだと。

 納得していないような顔のセリスに、マーレンは話題を変える。隊商の責任者に、何か話は聞けたのかと。セリスは首を横に振った。

 行方不明になった女性の噂や、女性を探している人がいないかなど、セリスにつながるかもしれない情報がないか、聞いてみたのだ。しかしその手の話は珍しい話でもないので、どれも決め手に欠けるものばかりだった。表情を曇らせるセリスに、記憶が戻るのを気長に待てばいいとマーレンは言った。

 ディカルダの家から、アゼルが魚をぶら下げて戻ってきた。それを焼いて食卓に加える。

 干した魚と根菜のスープ、細かく切った塩漬け肉と芋を混ぜ込んだ卵焼き、豆とチーズと刻んだ干し果物を酢と油で和えたもの、小麦の粉で作った薄焼きのパンにバターと蜂蜜。コップには牛乳が注がれると、子供達は目を輝かせ大はしゃぎした。

 光と闇の二柱の神の調和と秩序に感謝を述べると、めいめいが匙と串を手に食膳に手を伸ばす。






 領主に収める税が、今年は減額された。正確には臨時戦費という名目で長らく取られていた分がなくなったのだ。ファロ村を含む一帯を治めているアンリン辺境公が、小競り合いを続けていた隣のケレタロン侯との間で和議を結んだためであった。

 今年は徴税人とのやり取りも揉め事なく終わり、余剰の物資の存在を聞きつけた隊商がやってきたりもした。例年に比べて穏やかで賑やかで、同時に慌ただしく過ぎた秋を、アゼル達も忙しく過ごした。

 冬を越すための準備が入念であるに越したことはない。穀物の保存、肉や魚の加工、燃料などの備蓄、やる事はいくらでもある。セリスも冬に向けてリノンに編み物を教えていた。

「そう、ゆっくりでいいから。ちゃんと数えて」

 相変わらず、自分自身に関する事は思い出せないが、体や手先が覚えている事はたくさんあった。編み物もそうであるし、織物や針仕事も上手に出来た。セリスはそんな自分を不思議に感じる。同時に、別に記憶など取り戻さなくてもいいのではないだろうか、そんな風にも思う。

 最初は確かに不安だった。何も分からない自分の存在を不確かなものと感じていた。しかし、分からない事が自分自身の事だけだと分かると、何故か安心した。

 この村でこうして暮らしていく分には、自分自身の事など、どれほど重要なのだろうか。必要な事は全て覚えているのだ、きっと不必要な事だけを忘れたのだろう。それが、セリスの偽らざる思いであった。

 周りの人は、そのうち何か思い出すだろうと言ってくれている。だから彼女は、自分の思っている事を誰にも話さなかった。ただアゼルには、そんな思いを伝えた事がある。冬も半ば、冬至を過ぎて年が明けた日だった。

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