第2話  セリスという名の少女

第2話 ①

 夏の日差しが、くっきりと影を描く。先ほどのにわか雨で風は涼しくなったが、もうしばらくすれば蒸し暑くなってくるだろう。庭先で黒髪の女性が、取り込んだ洗濯物を再び干している。

 軽く縛っただけの黒髪を風に揺らし、女性は物干しに並ぶ洗濯物を眺め満足そうに笑った。その笑顔はまだあどけなく、彼女がまだ少女を脱し切っていない事を見せている。彼女は、家に向かってくる人影に手を振った。

「参った、急に降ってくんだもん」

「拭く物いる?」

「いや、ほとんど乾いてる」

 その女性と親し気に言葉を交わすアゼルは、そのまま彼女とともに家の中に入った。背中の荷物を降ろすと、中のものを取り出していく。マーレンの作る薬や調味料の配達をして、その代金の回収してきたのだ。銅貨で支払いをしてくれる配達先が半数ほど、あとは物との交換であるため、帰りの方が荷物が増える。一握りの煎じ薬の代金が、籠に一山のイモだったりするのだ。

 保存の利くものと利かないもの、すぐに加工が必要なものとそうでないものをより分け、作業に取り掛かる。夏は特に気を付けないといけなかった。

「静かだけど、リノンたちは?」

「お昼寝。雨で少し涼しくなったから」

 桶に張った水につけている瓜は三人が起きてから切る事になった。アゼルは村で聞いてきた事を話す。市が立つ日が決まったそうだ。

 彼らの住むファロ村はいわゆる辺境にあり、定期的な市が立つような村ではない。しかし王国分裂による混乱と騒乱によって、辺境に流れてくる人も少なからずいた。そのため村も昔と比べれば大きくなり、今では付近に点在する小さな集落の中心的な村にもなっている。

 そのため不定期ながら隊商が訪れるようになり、それに合わせて市が立つようになったのだそうだ。アゼルはマーレンから教わった村の来歴を話した。

 近隣の村からも人が集まるため、しばらくは村もにぎやかになる。それに、遠くからやってくる隊商であれば、何か手掛かりを知っている人がいるかもしれないと、アゼルは付け加えた。

「こんにちは、暑いわねぇ。あら、セリスちゃん、元気になったみたいね。軟膏もらいに来たんだけど、マーレンいないの?」

 家の扉が開いて、賑やかな声とともに女性が入ってきた。三年前にこの家を出て隣村の男性に嫁いだ人で、時折こうして訪ねてくるのだ。あの日、池から引き揚げられた女性の手当てをした時にも居合わせていた。

 静かに微笑んだ女性が、マーレンの居場所を教える。セリスという名は、彼女が覚えていた名前であった。






 蒼白だった顔には赤みが差し、色を失っていた唇にも血色が戻っている。呼吸も落ち着き、脈も安定していた。いつ目覚めてもいいはずなのだが、池から引き揚げられて三日、女性は眠り続けていた。戸口の陰から中をうかがうナギとヤナンを遠ざけ、アゼルはずっと付き添っているマーレンに様子を聞く。

 老人の家からこちらの家に移しての看病が続いているが、意識が戻らなければ薬を飲ませる事も出来ない。ベッドの脇に屈み、女性の顔を覗き込むアゼルの不安そうな顔に、マーレンは小さく首を振った。

「ディカルダさんの処置は正しいし、あんたはよくやってた」

 体が冷え切ったまま手をこまねいていたら、本当に死んでしまっていただろう。発見が早かった事と素早く体を温める処置がなされた事が、最悪の事態を招かなかった要因だ。だから、彼女が目を覚まさないのは、別のところに原因がある。マーレンはそう考えていた。

 明日の朝までに目を覚まさないようなら癒しの魔術を試してみよう、そのマーレンの言葉にアゼルは少しだけ表情を緩める。

 滅多な事では使わないマーレンの魔術だが、それが効かなかった事はないのだ。ベッドの上で昏々と眠り続ける彼女もきっと目を覚ますだろう。アゼルは確かめるようにそう言う。マーレンは、そんなアゼルの頭を撫でた。

「ユンハに頼んでおいたから、今日は早く寝な」

 マーレンが育てていた孤児の一人で、隣の村に嫁いでいた女性がたまたま訪ねてきていたので、子供達の世話や家の事をやってもらっていた。そのため、マーレンもこの女性につきっきりでいられたのだ。

 マーレンは、女性の体を診ているうちに一つ気になる事を見つけていた。彼女から魔術のようなものを感じるのだ。

 魔術師は、この世界の外側に広がる始原から、混沌たる『ウィド』を引き出すための魔導図、引き出した『ウィド』から様々な力を生み出すための魔術式を、その身に刻んでいる。そのため魔術師が魔術師の体を調べれば、その人の来歴などがある程度は分かるのだ。

 しかしこの女性からマーレンが感じるのは、そういったはっきりとした魔術師の証拠ではない。それに近いのだが、それでいてはっきりと何かが違う事も感じる。癒しの魔術を使うのをためらっていたのも、この何かがどう影響するか分からないからだ。

 用心に越した事はない、マーレンはそう考えると、明日に備えて仮眠をとる事にする。魔術に必要なのは何よりも自らの調和と秩序であり、そのためには整った体調が必要不可欠なのだ。

 だが結局、その用心は必要なかった。翌朝早く、その女性は目を覚ましたのだ。それからは体力の回復も早く、すぐにベッドから起き上がれるようにもなった。そのまま、彼女はマーレンの家に身を寄せる事となる。

「まぁ、そのうち思い出していく事もあるんじゃない?」

 木陰で瓜を食べる子供達を見ながら、ユンハが明るい調子で言った。マーレンは、ただ曖昧に頷く。目を覚ました女性は、辛うじてセリスという名を覚えていたが、それ以外には何も覚えていなかったのだ。

 しかし日常の事や、様々な仕事は普通に出来るため、生活する上での不便はなかった。時折、マーレンが診察をするが、眠っているときに感じた魔術のようなものも今は感じなくなっている。セリスがマーレンの家で一緒に暮らす事になったのは当然の成り行きであり、働き手が増えたのはマーレンにとっても助かる事だった。

 瓜の果汁で口の周りをベタベタにしているリノンが、セリスに拭いてくれるようせがんでいる。ユンハが家を出てからお姉さんぶっていた彼女も、今ではしきりにセリスに甘えるようになっていた。

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