第1話 ④

 アゼルの言葉に、老人も立ち上がって彼が指さす方を見る。そして慌てて舟の櫓を漕いだ。池の微かな流れに乗って、その人は浮いたり沈んだりを繰り返している。溺れている様子はないため、少し不思議な感じがした。

 老人は慎重に舟を近づけ、アゼルは浮いてきたその人を掴む。着ている服と髪型で女性だと分かるが、たっぷりと水を含んだ服と髪は予想以上に重い。舟を大きく傾けながら、何とか引っ張り上げる事が出来た。

 蒼白な顔にぐったりとした手足、そして冷たくなった体。アゼルは水死体かとぎょっとした。老人は素早く首筋に指を当て、鼻の近くに耳を寄せる。

「生きとるぞ!」

 老人は大急ぎで舟を岸に戻す。自分の家に女性を担ぎ込ませると、アゼルに服を脱がせて体を拭くように言い、火を焚く準備を始めた。冷え切った体を温めなくては、命に係わる。

 暖炉に火をおこして湯を沸かす用意をし、毛織物の床敷きを準備し、毛皮の上着を持ってくる。老人はバタバタと準備を整えていくが、アゼルの方は手間取っていた。女性の長い髪は拭きにくく、水に濡れた服は脱がす事が出来ない。

「何、恥ずかしがっとる。命がかかっとるんだぞ!」

 老人は刃物を持ってきて女性の服を切る。女性の体を抱え込むようにして拭きながら、アゼルにも服を脱ぐように言う。驚いて何かを言う彼を一喝すると、女性を抱えて火のそばに連れて行った。そして、意識を失ったままぐったりした女性を、背後から抱きしめるよう彼に指示する。

「何で!?」

「火に当たるところ以外からも温めんといかんのだ!」

 裸の女性を床敷きの上に座らせ、彼女を背後から支えるようにアゼルに抱きしめさせて二人の体を密着させる。そのまま二人の体を包むように毛皮の上着をかぶせ、火の当たる前面だけは広げて熱が伝わるようにした。

「マーレンさんを呼んでくるからな! 湯が沸いたら木桶に汲んで股座を温めるんだ!」

 火傷をさせるなよと言って、老人が家を駆けだしていく。アゼルは突然の事態に、頭の混乱が収まっていなかった。

 まだ彼自身の浮いた話はないが、女性に対して人並みに関心はあるし、興味もある。だが、心構えも準備もなく、いきなり女性の裸を抱きしめなくてはならない事態に、平静でいられる男子がいるのだろうか。

 彼の混乱する頭を鎮めたのは、冷たく冷え切ったその女性の体だった。

 冷たいのに震える事も出来ないほどぐったりした体。密着している背中の丸みや、腕を回しているお腹の柔らかさも、温もりがなければ人ではないようにも感じる。生きている事を示しているのは、微かな呼吸音だけだ。その蒼白な横顔に、アゼルは自分の浮ついた思いを恥ずかしく感じる。

 自分の赤茶けたくせっ毛とは違う、綺麗で真っ直ぐな黒髪。血の気を失った唇は、本当なら少し厚めで可愛らしいものなのだろう。閉ざされた瞼から見える睫毛は長く、アゼルはその奥の瞳を見たいと思う。

 だから彼は、真剣に彼女が意識を取り戻すのを願った。自分の体温を分け与えるくらいしか出来ないが、だからこそ真剣に願った。

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