第1話 ②

 擦り傷切り傷、コブに痣。顔も少し腫れているし、服も破れている。だが、アゼルが不機嫌なのは傷が痛むからではない。ずっと小言を言われ続けているからだ。

「朝っぱらからバカだよ、まったく」

 小さな鍋で作られた薄赤い液体をアゼルの傷に塗りながら、老婆が呆れた口調で今日何度目かの同じことを言った。

「ちゃんとした決闘のはずだったのを……」

「何が決闘だい。田舎もんが気取ってるんじゃないよ」

 言い訳のネタも尽き、ムスッとした顔のまま、それでも傷の手当てが終わるまでアゼルはじっとしていた。

 いつも世話になっている傷薬の臭いが、古びた家の中に漂う。きちんと整理整頓された家財道具、手入れが行き届いている事を示すように清潔な床。家自体は古びていても、みすぼらしさは微塵も感じない。家主である老婆が、しっかりした生活を送っている事がはっきりと見て取れる。

「ありがと」

 不満げな表情は隠さず、照れくささは隠せない小声で、アゼルはそれだけ言うと自分の部屋に向かった。彼もこの家の住人なのだ。理由が理由だけに、破れた服は自分で繕わなくてはならないだろうが、とりあえず着替えて出掛ける準備を整える。他の家族は、もうみんな出掛けているようだ。

 かまどの鍋の中にある、もう冷めてしまった麦粥を皿に山盛りにした。それをあっと言う間にかき込むと、アゼルは扉を勢いよく開けて外に飛び出す。その後ろ姿に、老婆はため息も漏らさなかった。代わりに、薬をもらいに来た村人が苦笑いを交えて言う。

「元気も良すぎると、マーレンさんは苦労するだろ」

「この年になって苦労なんかありませんよ。あの子らの方がずっと苦労してるんだから」

 開け放たれた扉から射し込む光に目を細めながら、マーレンと呼ばれた老婆は穏やかな微笑みを浮かべる。

 そんな彼女の様子を知る事もなく、アゼルは愛用の木剣を持って走っていた。同じように村外れに住む老人に、剣術の稽古をつけてもらう日なのだ。小さな家の庭で薪割りをしている老人に大声で呼びかける。老人はアゼルの顔を見て笑った。

「なかなかの男前になったじゃないか」

 今朝の騒ぎの事は、村でも話題になっているらしい。アゼルは不服そうに言った。

「師匠の教えてくれたように、正々堂々には正々堂々と、卑怯には卑怯で戦った」

「負けてちゃ意味ないぞ」

 あの後、アゼルはゲランに組み付いて馬乗りになり、その顔をひたすら殴り続けた。しかし、取り巻き達が戻ってきたところで、逆に袋叩きになってしまったのだ。それでも最後までゲランを殴るのをやめなかったアゼルは、自分が負けたとは思っていない。騒ぎを聞きつけた大人達に引きはがされなければ、自分が参る前にゲランを参らせたはずだと。

 そんな事よりも早くと急かすアゼルに、老人はまずは薪割りからだと言った。教えを意識して、丁寧に薪を割っていけと。

 斧を手に素直に薪割りを始めるアゼルを見ながら、老人は一服の準備をする。専用の缶を熾火で温め、マーレンが調合してくれた薬草をよく湿らせて缶に入れる。上がってくるいい匂いのする湯気を、長い管を使ってゆっくりと吸い込む。胸の奥の息苦しさが収まってくる頃には、アゼルの息が少し乱れてきたのが見えた。

 休憩するようアゼルに言い、老人は家に道具を取りに戻った。この後、手伝って欲しい事があるのだ。

 稽古に来たはずだという文句を言うアゼルを宥め、舟を準備する。村の北側には大きな池があり、魚が捕れる。ただし、漁の時期や方法、漁を行う人に関する細かな取り決めがあるため、自由に魚を捕れるわけではない。昨日から老人が舟を出してもいい日程になっていため、アゼルにも手伝わせようというのだ。

「いつもみたく網は使わないの?」

「今年は仕掛けを試してみようと思ってな。昨日のうちに仕掛けておいた」

 目印の棒に舟を寄せて、仕掛けていた網を引き揚げていく。若い男手があると作業も早いと感心していたが、肝心の魚は思ったほどかかっていない。老人は、明日はいつもの投網に戻すか、それとももう一度仕掛けを張ってみるかと思案する。アゼルは舟に載せてあった竿で釣りを始めた。

 池は周りを木々に囲まれ、その向こう側は大きな森が広がっている。森の奥深くから延びる細い川が池に流れ込んでいて、池から流れ出す小川は村の東側を少し流れた後に向きを変えてずっと遠くの大きな河へ向かっていく。アゼルが二匹目の魚を釣り上げた時、老人はもう一度仕掛けを張る事を決めた。

 二人はいったん岸に戻り、釣った魚を焼いてイモの粉で作った団子とともに昼食とする。前回の場所とは少し位置を変え仕掛けの数も増やそうと、老人が言った。これはアゼルに、明日も手伝えという事だ。

「明日は長老のところの畑仕事があるんだけど」

「昼過ぎでいいぞ、二人ならちゃっちゃっと終わる」

 老人は気楽な調子でいうと、舟を引き揚げて後片付けをはじめた。今日の仕掛けにかかっていた魚から大きなものをいくつか見繕ってアゼルに渡す。魚の入った大きな籠を下げて、アゼルは家路についた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る