ケジメ
一齣 其日
ケジメ
もうすぐ、桜が咲く。
日が長くなって、冬が置いていかれようとしている。
三月はもう、十日も過ぎていた。
就活も卒論も終わって、今は大学四年間のケジメをつける卒業式を待つばかりとなった。
ただ、僕の大学四年間のケジメは卒業式なんかじゃあない。
ドアを開けば、誰もいないがらんとした部室。
四年間、僕らが過ごしたボクシング部の部室だ。
いつもは汗と熱気、そしてサンドバックを叩く音だったりスパーリングやトレーニングで発せられる激しい声だったりに満ち溢れていたのに、今はどこもかしこもしんと静まっていた。
下手をすれば、ここで過ごした数々の過酷な日々が夢だと言われてもつい信じてしまいそうな、そんな気さえする。
センチメンタルが過ぎたかな。
我が校ボクシング部は、卒業生を除いて今は合宿中だ。大会を控えて、追い込みにかかっているんだという。
部室が空なのはそういうことなだけだ。センチメンタルになる必要なんてないし、ボクサーには似合わない。
何より、今からグローブをつけるんだ、軟派っぽい気持ちはいらないはずだった。
「ようノブ、先に着いていたのか」
「いや今来たばかりだよ、ヒサシ。時間通りだから問題無い」
ギィっと鳴らしたドアの向こうに、ヒサシはいた。
そうか、とだけヒサシは返すと、僕のように感慨深げに部室を見やるなんてことはなく、一直線にリングへと向かった。
脱いだ服にはもうトランクスを履いている。
瞬間、静まり返り生気なんて無かった部室は、肌がひりつく様な緊張感に支配された。
ヒサシはそういう男だ。僕のように感傷的になるなんてことはない。
大学一年の春、初めてボクシング部に入って顔を見合わせた時から、リングの上で戦うことしか目に無かったように思えた。
部室に来れば同期と会話することすらもない。人一倍体をいじめ抜いて、槍のようなパンチをサンドバックに叩き込み、例えスパーリングであっても相手がKOしかねないハードパンチを常に打つ。
服を脱いだ体は、何度も練って何度も削った彫刻のようで、しかし闘争心が筋繊維の一つにまで組み込まれたような代物だ。
彼の生き様をこれでもと語っているように思えた。
無糖のコーヒーのように甘さなんて欠片もない、ストイックという五文字を体現した様な男がヒサシだった。
「上がれよ。最後に俺とやりたいと言い出したのはノブ、お前だろ?」
もうヒサシはリングに上がっていた。
行動が早い。僕なんか浸る必要が無いとわかりながらも、またセンチメンタルになっていたというのに。
そういうところが、心をどうしたって疼かせる。
ヒサシという男の隣にいたら、僕だって嫌でも彼を意識せざるを得ない。
ストイックに生き続けられる彼が羨ましくも妬ましくも思え、それがこの四年間他のことなんてどうでも良くなるくらいボクシングに打ち込んでいく結果になったのだと思う。
彼に負けたくない、僕だって人生の大半をボクシングで過ごしてきたような男だ。
けれど、この四年間彼の拳を喰らうだけで、彼と僕との差を突きつけられた様な心地を何度も覚えさせられた。
打ち込む熱量が違う。
僕がセンチメンタルになる様な気持ちの隙間すらも、彼はボクシングに打ち込まさせている。
どこまでもボクシングに、打ち込んでいく。
その姿を見せられれば見せられるほど、僕も熱に浮かされた様になった。
気づけば、彼との差を埋めようと躍起になっている自分がいた。
血反吐を吐くぐらいにサンドバックを叩いた。
痛みの感覚が遠くなるほどスパーリングに明け暮れた。
試合は常に攻勢、相手に反撃の余地を与えさせずに叩きのめす。
強くなったと思う。高校までの日常の一環としてボクシングを続けてきた時よりもずっと密度の濃かった四年間は、ヒサシとともにあり続けた四年間は、僕をずっと強くしてくれた。
この先もボクシングをやっていける、なんて浮かれたような、けれど確かな手応えを感じていたのも嘘ではない。
ただ、今一歩まだ、ヒサシの背中に届かない。
どれだけ僕が強くなったと感じても、一歩前を先に行っている。
僕の様に誰かを意識することなんてない、自分がやってきたことをさらに研ぎ澄まして先へと進んでいく。
彼は常に、僕の前を駆けて行っていた。
そんなヒサシの背中を超えなければ、僕は先へと進めない。
次なんて、望むべくも無い。
今日が、その背中を超える最後の機会だった。
服を脱いで、グローブをつけて、リングへと上がる。
ヒサシと真っ直ぐに、対峙する。
ジャブの一つも打ってないのに汗が滲み出そうだった。
ヒサシの前に立つ緊張感というのは、どの試合と比べても圧倒的だ。
リングで拳を交えたどの男たちと比べても、ヒサシの鋭さは一段上を行っている。
こうなるともう、羨ましさも妬ましさもどうでも良くなってしまう。
憧れだ。
彼のようになってみたいと、湧き上がった憧れに脳髄いっぱいが支配されそうだった。
だから、同時に歯痒かった。
「本当にこれで最後……なんだな」
「決めたことだ」
大学を卒業して、ヒサシは就職する。
ボクシングとは無縁の大手企業だった。
元々、ボクシングはこの四年間が最後だと決めていたという。
家計がそこまで良くなく、大学に行けたのも奨学金でなんとか学費を払えたからだったらしい。
就職後は親孝行、ボクシングとはスッパリおさらばして生きていくんだと。
そうでもしないとこの先を暮らしてはいけないから。
彼の話を風の噂で聞いた時、なんとなく彼の生き様に合点が行った様な気がした。
別れが間近にあったからこそ、彼は全てをボクシングに注ぎ込んだ。
未練も全て灰にするぐらいに注ぎ込まなきゃ、悔いが残るから。
酷い話だ。
僕のような人間がボクシングのさらに先を行こうとしているのに、僕の目の前を行く彼がここでおさらばなんて。
「もういいだろ、言葉なんてリングの上じゃあいらない。それともノブはなんだ、わざわざ俺とここで喋るために呼んだのか? 違うだろ」
それ以上の言葉の代わりと言わんばかりに、ヒサシは構えた。
ガードを固めながらもクラウチングの姿勢、試合が始まれば一気に間合いを詰めて、ハードなパンチを食らわせる腹づもりだろう。
いや、いつまでもセンチメンタルな僕に発破をかけるために構えたのか。
兎にも角にも、彼はもう拳でしか語らない。
それにそうだ、彼の言う通りだ。
僕は彼と喋るためにここに上がったんじゃあない。
僕は、彼を超えるためにここに上がったはずだろう。
ケジメをつけるために、ここに立ったんだろう。
拳を強く握る。
脇を締めて、いつ試合が始まってもいいように注意深く構えをとる。
……違う、これは試合じゃあない。
レフェリーもいなければゴングの鳴る気配すらもない、ラウンドなんて論外だ。
なんだったらもう、僕が構えた時点で戦いは始まっている。
いつ打っても打たれてもおかしくはない。
とことんやるために、僕とヒサシが望んだことだった。
「俺を越えるために、もうボクシングをやめる俺とやりたいなんて、よく真っ正直に言うんだな」
ヒサシの話を聞いた時、僕はいつの間にか彼の前に立っていた。
四年間のありったけ、妬ましさに羨ましさ、憧れも引っくるめて何もかもを恥ずかしいほど言葉に乗せて、彼にぶつけた。
そして、言ったんだ僕は。
「最後なら、僕ととことん闘ってくれ」
僕だって、彼に未練を残したくない。
悔いの一つも残したくない。
このままじゃ、この先プロのリングに登ったって喉奥に骨がずっと刺さり続けて取れやしないだろう。
だったら僕は戦うんだ、ヒサシとの四年間のケジメをつけるために。
「とことんか、だったらとことん闘ろうぜ。お前とだったらノブ、俺はとことん闘ってやる。だから、言葉じゃなくて拳に乗せてこい」
ヒサシは、笑って応えてくれた。
そして今がある。
このリングに二人、僕と君が立っている。
……そうだ、今僕にあるありったけ全てを拳に乗せてヒサシにぶつけなきゃ、どうしてここに立ったか分からなくなるじゃないか。
この時この瞬間、一瞬一秒を全てをヒサシに向けろ。
悔いを残すな、未練を全て灰にするんだ。
全て空になるまでぶつけてやれよ、この四年間ヒサシと共にあって、ヒサシを追いかけてここまできた僕の全てを。
君への羨ましさも、妬ましさも、そして憧れもすべて乗せて、君にぶつけてやる。
君という、ヒサシという壁をここで超えてやるために。
とっくの昔に言葉は語り終えている。ヒサシの芯までこの僕を届かせるには、あとは拳で語るしかない。
ステップを刻み、間合いを測る。
視線と視線がぶつかり合う。
ヒサシの眼で静かに、だが眩く燃える闘志の炎。
いつも先ばかり向いていた瞳が今、僕一人だけに向けられている。
嬉しかった。
リングの上は僕と君たった二人だけ。
外にセコンドもいなければ、観客だって一人もいない。
ただ、僕ら二人だけの世界。
決着を決めるのは、僕と君とだけに許された。
さあ、そろそろとことん闘ろう。
僕らにだけのケジメを、ここで今つけようじゃあないか。
脚がリングを蹴った。
血流が沸騰したように、一気に身体中を動かした。
肉が躍動する。
賽は振られた。
拳は膠着を破り、熱く、激しく互いの体で爆ぜてみせた。
ケジメ 一齣 其日 @kizitufood
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