雛さまを見送れり

山田沙夜

第1話 雛さまを見送れり

「雛さまの船に乗る」から四年後……


 母が送ってくるLINEのメッセーッジは短い。

 その短いメッセーッジが縦に列をつくる。

 金曜の夜、まもなく十時になろうとしている。


 まずは『こんばんは』のスタンプからはじまった。

──明日はまぁちゃんとランチすることになった

 まあちゃんは母の妹である。

 母は三十年以上前に寿退社した地元銀行から声がかかり、ここ二十年ほど契約社員として働いている。叔母は総合病院で看護助手をしている。

 そんなカンレキ越え姉妹が、有給をとったりせず無理なくランチをするなら土曜か日曜ということになる。

──ちょっと前に莉帆のとこへお雛様の一揃い持ってったでしょ

 ちょっと前って……四年前になるよ。わたし、お雛さまを三回飾ったもん。ちゃんと二月の風にあててたもんね。

 とは言うものの飾ったのはお内裏さまとお姫さまだけだ。1DKのわが城で五段飾りは無理というものです。


 お内裏さまとお姫さま。

 三人官女。

 五人囃子。

 右大臣、左大臣。

 三人仕丁。


 ずらりと横並びにする場所はないし、そもそも変だ。

 本棚の本を部屋の隅っこに積みあげて、そこへお雛さまを並べていくのも抵抗がある。本棚に飾ったお雛さまって、なんだか狭くるしい。

 だからといって雛壇を五段で飾るなんてやっぱり無理だ。

 わたしはお雛さま一族の代表としてお内裏さまとお姫さまを飾った。緋毛氈のかわりに赤いフエルトを敷いて。


──天満宮さん、人形供養してくれるんだ

──だから天満宮さんで御祈祷してもらってお焚き上げしてもらおうと思うんだ

──天満宮さんへお願いしてからランチするんだ

──明日の朝一〇時ごろにお雛さん取りにいくから、お雛さん全員を紙袋に入れといてね

──お雛さんの飾り物と持ち物も全部だよ

──持ち手も袋も紙製だよ

──お焚き上げしてもらうんだから、紙ね、紙!

 わたしは『かしこまり』とスタンプを送り、ほうーとため息をついた。肩の荷をひとつ、おろした気がする。

 わたしは、心からほっとしたのだ。

 雛飾りは母に押し付けられたという心しか持てなくて、そんなふうにしか思えない自分の心にも嫌気がさすし、おまけに全員いっしょに飾れなくて、お雛さまに申し訳ないとさえ思えてくる。

 正直いいことなしだった。


 四年前の二月二十二日、母はお雛様の支度をはじめた。

 平成最後の二月の風にあてようと思ったのだ。

 そしてニャンニャンニャンの猫の日、実家のお隣の猫、ミケが御殿を破壊した。

 母が「古いタイプのお雛さま」と言う、御殿つきのお雛さまだ。

 お雛さまを二月の風に当てようと掃き出し窓を開け、御殿を組み上げた母は、トイレにいったのか、お茶でも飲もうと台所へでもいったのか、その隙にミケは破壊という楽しい時間をすごしたのだった。

 まだ二月、虫が入るなんて考えず、母は網戸のことなど思いつきもしなかった。


 御殿つきのお雛さまは終戦後十年ほどたったころ、母と叔母へ祖母、わたしの曽祖母からの贈りものだ。

 母の実家は田舎で、お雛さまを客間へ雛壇を仕立てて飾ることができた。

 団地住まいだったわが家は御殿飾りを置ける場所はあっても、お雛さまが飾ってある間は窮屈な生活になる。お雛さまを壊してしまうだろううっかりには事欠かない。空気がピリピリしていたような気がした。

 なのでお雛さまは母の実家で飾ってもらっていた。お雛さまは叔母のものでもあるから、母がもらうわけにはいかないということも理由のひとつだ。

 けれどお雛さまを飾ってくれていた祖母が亡くなった。


 そのころには父が「清水の舞台から飛び降りて爆死だ」とぐちぐち言いながらローンを組んだ家に住んでいた。

 それもあって、「長女はおねえちゃんだがね」という叔母のひと言が後押しという圧力となり、お雛さまをわが実家へお越しいただいたのだ。

 だからといって、母に(わたしにも)毎年お雛さまを飾るほどの殊勝さはなく、御殿を組み上げてお雛さまを飾った年を数えると、五本の指が片手だけでも余ってしまう。 

 お雛飾りはそもそも母と叔母への贈りものだ。それを1DK住まいのわたしが引き継ぐなどおこがましいではないか。


 お雛さまたちに入っていただくつもりの白い紙袋はA4サイズがゆったり入るもので、マチが十センチ、持ち手は直径五ミリほどの布紐(化繊かも)で腕に掛けられる。

 結婚した友人が、「ほらこれ見て、莉帆もがんばんなさい」とブライダル関連の雑誌を五冊、わたしの気持ちなど忖度なしで持ってきてくれたときに使っていた紙袋と同じものだ。

 結婚に向けてがんばるつもりのないわたしに、ズシリと思い紙袋を下げてケーキまで持ってきてくれたのだ。

 しかたがないのでアッサムティーをいれ、のろけ話を聞きながら三種のベリーショートケーキをいただいた。

 ブライダル雑誌はともかく、紙袋の使い勝手はよさそうだ。

「この紙袋、どこで買ったの?」

 購入先の事務用品専門店はウチの会社も利用していて、紙袋の売り場も知っている。わたしはさっそく一束五十枚を買いに行った。

 白い紙袋の残りは七枚になっていた。無頓着に使える価格のよさだ。そろそろ買い足しておかなくちゃとリマインダーに追加した。

 紙袋を一枚取り出しマチを広げて袋を立てる。このサイズなら一枚でわがお雛さま一族は収まりそうだ。

 お雛さまはぼろぼろの段ボールに入っている。母と叔母のもとへお雛さまが届いたときの段ボールをそのまま使ってきたのだ。


 クローゼットの上から段ボールを下ろして、お雛さまたちを一体一体取り出して床に並べた。

 窓を少しあけて四月の風にあてる。四月の夜風はまだ冷たい。

 もしかしたらお雛さまたちが四月の風を感じるのは初めてかもしれないと思うと、ふっと涙ぐんでしまった。

 お雛さまたちの顔立ちは品があって大好きだ。

 とくにお姫さまのお顔は美しい。清楚という言葉がよく似合う。

 静かな方だろう。優しい方だろう。わがままなどひと欠けらもお持ちではないだろう。

 お姫さまをずっと見つめていられる。

 ふとお姫さまだけ手元に置いておこうと思ったけれど、そんなことをしてはいけないと写真でしか知らない曽祖母に睨まれたような気がして、お内裏さまの隣へお戻しした。


 まず紙袋の底にマチの寸法に切った赤いフエルトを敷いた。

 橘と桜を両端に置く。

 そして仕丁三人を並べるだけの場所がないので一人が斜めになる。隙間に持ち物の立傘、沓台、台傘を置いた。

 それから右大臣、左大臣。五人囃子を入れていく。

 お雛さまたちは下の人形の上に乗りつつ斜めになりつつ収まっていく。弓矢、太鼓、大鼓、小鼓、笛と謡の扇を隙間に入れる。

 五人囃子に笛方の、青々と剃りあげた頭の額あたりにネズミが齧った痕がある。三年たったからといって治っているはずはなく、やっぱり齧られたままだ。その痕を指腹でそっとなでて顔を覆う薄紙をちょっと直した。

 お内裏さまとお姫さまは二人並んでほしいので、三人官女と五人囃子をあっちに向けたり、こっちへ向けたり横にしたりとお仕えしてもらう。

 お内裏さまには笏を、お姫さまには扇をお持ちしてもらい、ほかの持ち物は三人官女の持ち物といっしょに隙間へ入れた。

 薄紙を上掛けに、お雛さま一族をふんわり覆って玄関へ置き、窓を閉めた。

 ぼろ段ボールはいさぎよく燃えるゴミに出そう。


 母は待ち合わせしても時間どおりに来たことはない。母は遅刻しない人なのだ。

 そしてわたしの金曜の夜は夜更かしで、土曜の朝はゆっくり起きてブランチをとる。

 けれど、今朝がそういうわけにいかないことは、昨夜のラインで承知した。


 玄関のチャイムが鳴ったのは朝の九時四五分ごろだった。

「叔母さんは? コーヒーいれてあるよ。叔母さんも呼んでよ」

「いい。このあたりって近くに駐車場ないがね。一番近いあそこの駐車場の駐車料金は高いし」

 あそこの駐車場まで歩いて五分もかからないのに、近くに駐車場がないと宣う。  

「まぁちゃんの車はそこに停まっとるに。あ、その紙袋だね。もらってくね」

「ランチは何食べるの?」

「平針にバラがいっぱいのお店があるでしょ。そこでアフタヌーンティーセットを予約しといた」

「いいなあ、誘ってくれればいいのに」

「言うのが遅い。それにさ、そう言うわりには部屋着のままだがね。いっしょに行くつもりなら、その気を見せなさいよねー」

 母はさっさと玄関に踏み込んで慎重にやさしく紙袋を持つと、「んじゃね」とエレベーターを使わずに階段を降りていった。三階だから下りるためにエレベーターを待とうとは思わなかったようだ。

 わたしは廊下の手すりにもたれかかり下を見た。

 車にもたれている叔母が手を振ってくれる。アプローチから出てきた母も見上げて手を振る。

 エンジンがかかり、二人を乗せた車はゆっくり走りだした。

 わたしは車が左折して見えなくなるまで見送った。

 三年うちにいたお雛さまたちとあっけない別れだった。


 昼十二時をすぎて、母からラインが送られてきた。

──ミッションコンプリート!

 !はピンクでふっくらしている。

 画像はアフタヌーンティーセットだ。きれいで、かわいくて、華やかで、うっとりする。なにしろ美味しそうだ。


 そろそろバラの季節だ。誰かを誘ってぜったい行かなくては。


 夜九時ごろに叔母から電話があった。

 ランチのアフタヌーンティーセットについて自慢げで詳細な報告をうけ、一息ついてから『あのね』といった。

『ねえさんね、莉帆ちゃんにお雛さまを渡したこと、気にしとってね。後悔しとったんだよ。

 わたしらがばあちゃんに貰ったもんなのに、莉帆ちゃんに世話を押し付けちゃって悪かったかなぁってさ。

 わたしもねえさんの気持ちがわかるもん。悪かったねえ、ごめんね。莉帆ちゃん、お疲れさん。

 ねえさん、莉帆ちゃんがお雛さんをずっと持っとると、結婚が遠のくような気がするから、なんとかせなかんって言っとって、自分で人形供養してくれるとこを探したんだワ。

 大須観音? 観音さんの人形供養いいよね。見てると涙ぐんじゃうもんねぇ。けど観音さんの人形供養は年に一回しかないもんで。年中受け付けてくれるとこを探したんだに。

 それにさ、莉帆ちゃんとこへお雛さんがいってから四年だがね。でさ、お雛さんを飾ってちょうど三年。三年目って意味ありげだよね。ぜったい今年中に供養してもらうって、ねえさん言っとった。

 で、ついでにランチしよかってことになったんだ。

 莉帆ちゃんも早よ片づかなかんよ。ねえさん、心配しとるに』

 スマホを耳から離しぎみにして、叔母の声を聞いていた。

 片づくってなに? なんなら押入れにでも入ろうか、と憎まれ口のひとつも言いたいところを我慢した。


 三年目って何よ。意味なんかあるの?  (了)


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雛さまを見送れり 山田沙夜 @yamadasayo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ