初恋のお相手は

平 遊

初恋のお相手は

チリン。


咲彩さあやが動くと、涼やかな鈴の音が辺りに響く。

スマホに付けたカエルの根付に付いている鈴の音だ。


「ねぇ、さぁちゃんはさ、初恋の人ってどんな人?」


中学に上がってから出会った、親友とも呼べる友達の言葉に、咲彩はカエルの根付にそっと触れた。

よみがえって来る、小さな胸の疼きと、ほんのりとした高揚感。


(きっとあれが、わたしの初恋)


次第に早まる胸の鼓動を感じながら、咲彩は1年ほど前のある日へと思いを馳せた。


************


咲彩はその日、家を出ると学校には向かわず、トボトボとした足取りで、家から少し離れた小さな神社に向った。

小さな頃から通い慣れた神社。

鳥居をくぐった先では、狛犬ならぬ二匹の蛙が、参拝者を出迎える。

毎年の初詣。

お宮参り。

七五三のお詣り。

縁日のお祭り。

それから。

楽しいことがあった時

嬉しいことがあった時。

悲しいことがあった時。

咲彩はいつも、この神社に来ていた。

この神社は咲彩にとって、いつの頃からか心安らぐ大切な場所になっていた。


境内の奥。

いつものように、人目につかないこぢんまりとした石段に座ると、咲彩の目からは、それまでずっと我慢していた涙が溢れ出してきた。


『お父さん、転勤が決まったって。遠くの場所になるからお引越ししなくちゃいけなくなるけど、良かったわね、ちょうど中学校入学のタイミングで』


今朝、母親から突然告げられた言葉を、咲彩は受け入れることができなかった。


(嫌だよ・・・・わたし、行きたくないよ、みんなと別れたくない。ここから、離れたくなんかないよ・・・・)


中学生になったらどの部活に入ろうか。

そんな話を、咲彩はついこの間、友達としたばかりだった。

みんなと一緒の中学に通えるものと思っていた。

そして。

楽しいことがあった時。

嬉しいことがあった時。

悲しいことがあった時。

この先もずっと、この神社に足を運べるものだと思っていたのに。


(行きたく、ないよ・・・・)


咲彩の周りの空気が、フワリと動く。

いつものように。


楽しい話をしているときには、一緒に笑ってくれているかのように。

嬉しい話をしているときには、一緒に喜んでくれているかのように。

悲しい話をしているときには、優しく慰めてくれているかのように。

咲彩がこの石段に腰をおろすと、優しく温かい空気が、咲彩に寄り添うように訪れる。

誰にも言えないこの不思議な感覚が、咲彩は大好きだった。


その空気に向かって、咲彩もいつものように、心の内を言葉にして吐き出そうとした。

けれども。

この空気にも、もうすぐ触れられなくなる。

そう思うと、思いはなかなか言葉にならず。

いつもであれば、優しく温かい空気に包まれて直ぐに晴れるはずの悲しい気持ちも、今日は一向に晴れることなく、より大きくなるばかり。

涙はあとからあとから溢れ出してくる。


そんな咲彩の頭の上から突然、優しい声が降ってきた。


「困ったな」


驚いて咲彩が顔をあげると、いつの間にか隣に、袴姿の青年が座っていた。

年は咲彩より10歳は上に見える。

長い黒髪をポニーテールのようにして、白い紐で頭の後ろに結んだその青年は、本当に困ったような顔をして咲彩を見ている。


「どうしたら、笑ってくれるのだ?」

「えっ?」


真剣な眼差しで咲彩を見つめるその青年は、咲彩の知らない青年。

けれど。

青年から感じる優しく温かい空気を、咲彩は知っていた。

それはいつも、ここで咲彩が触れていた、大好きな空気と同じもの。


「お兄さんは、誰ですか?」

「私か?私は、ここの氏神だ」

「氏神さま・・・・」


氏神。

幼い頃、咲彩は祖父から聞いた事があった。

この神社に奉られているのは、この辺り一帯の土地の氏神さまだと。

そしてこうも聞いていた。

少しばかり不思議なものを見る力のあった祖母が、若い頃に氏神さまの姿を見た事があった。そのお姿は、長い黒髪を頭の高い位置に白い紐で結わえ、凛とした空気を纏いながらも、優しい目をしたとても美しい青年のお姿だったと。


今、咲彩の目の前にいる青年の姿は、祖母が見たという氏神の姿そのまま。

何の確証も無かったが、咲彩は青年の言葉を素直に信じる事ができた。

いつも咲彩に寄り添っていてくれたあの優しく温かい空気は、この青年-氏神さまだったのだと。


(この人が、この土地の氏神さま・・・・)


「ああ。何の力も無い、ただこの土地にいて、この土地に生きるものたちの幸せを見守っているだけの神、だがね」


そう言って、氏神と名乗った青年は寂しそうに笑う。


「私はもう随分と長い間ここにいる。そしてずっと見守って来た、この土地の全てを。もちろん、咲彩のことも」

「わたしのことも?」

「そうだ。覚えているか?初めて歩いてここへ来た時、親とはぐれてしまっただろう?心細かったろうに、咲彩は泣くこともせず、必死に親の姿を探し歩いていた」


氏神の言う通り、咲彩は両親と共に来た初詣ではぐれてしまい、迷子になったことがあった。

小さな神社のためそれほどの人混みではなかったものの、幼い咲彩が抱いたのは、とてつもない恐怖と不安。

だがその時、温かくて大きな手が咲彩の小さな手を取り、両親の元へと導いてくれたことを、咲彩はぼんやりと覚えていた。

もっとも、両親は『咲彩は1人で戻って来た』と言っていたが。


「だのに、買ってもらったばかりのリンゴ飴を落としてしまった時には、咲彩は驚くほどに泣いていたね。よほど食べたかったのかと思ったが、違ったのだな。食べられる事なく地に落ちて汚れてしまったリンゴ飴の姿を哀れに思い、泣いてしまったのだったな。私は、知っているよ。咲彩があの後、泣いて謝りながらリンゴ飴を処分していたことを」


これも、氏神の言う通りだった。

祖父に連れてきてもらった縁日。

買ってもらったリンゴ飴を、一口も食べる事無く、不注意で落としてしまったことがあった。

綺麗で美味しそうなリンゴ飴が、土まみれになっている姿に、咲彩はショックで涙が出た。

祖父は笑いながら、もう1つリンゴ飴を買ってくれようとしたけれど、咲彩はそれを断った。ただただ、リンゴ飴に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

だから、落ちたリンゴ飴を拾い上げて大事に持ち帰り、水でできるだけ土を洗い流して綺麗にしてから、『ごめんね、本当にごめんね』と謝り、泣きながら生ごみ入れの中に入れた。

このことは、おそらく祖父も両親も知らないことだ。


「親に叱られた時、初めて『遠足』に行った時、友達とケンカをした時、折に触れ咲彩はここへ来て私に様々な話をしてくれたね。ここを訪れ私へ願いを届けてくれる人は多いが、咲彩ほど私の元を訪れて話を聞かせてくれる人は、他にはいない。私は純粋に嬉しかったのだよ、咲彩。だからこそ、他の誰よりも咲彩の事を見てきたつもりだ」


そう言って、氏神は苦笑を浮かべる。


「私は、この土地の全ての生き物を見守り、安寧あんねいを願う存在だ。本来であれば、人ひとりに特別な想いなど抱いてはいけないのかもしれない。だが、私は思ってしまうのだよ。咲彩には、誰よりも幸せになって欲しい、笑顔でいて欲しいと」


咲彩をまっすぐに見つめる氏神の目は、吸い込まれてしまいそうなくらいに透明で美しく。

見つめられながら咲彩は、悲しみとはまた別の痛みを、胸に感じた。

もどかしいような、疼くような、それでいてくすぐったいような、初めて感じる痛み。

同時に、頬がホワッと熱を持ち始める。


「先ほども言ったとおり、残念ながら私には、特別な力は何も無い。だが、胸の内を聞くことくらいはできる。その涙の訳を、話してはくれないだろうか、いつものように。咲彩が今抱えている思いを、私に」


『いつものように』

そう、氏神は言った。


この場所で。

楽しい話をしているときには、一緒に笑ってくれて。

嬉しい話をしているときには、一緒に喜んでくれて。

悲しい話をしているときには、優しく慰めてくれていたのは。


(やっぱり、氏神さまだったんですね)


胸にじんわりとした温かさと早まる鼓動を感じながら、咲彩は氏神に心の内を吐き出した。


父親が転勤になったこと。

小学校を卒業したら、遠く離れた所へ引っ越すこと。

お友達とお別れしなければならないこと。

大好きなこの場所から、離れなければならないこと。

・・・・ここから離れたくない、と思っていること。


話しているうちに再び溢れてきた咲彩の涙を、氏神の手が優しく拭う。


「私は、咲彩が羨ましい」

「え?」


氏神は微笑みながら、やしろの方を振り返る。


「私には、ここを離れることはできないからね。確かに、えにしの深い者達との別れは悲しく、また寂しいものであるだろう。見知らぬ土地で始める新たな生活は、不安も多いことだろう。だがね、咲彩。そこには、新たな出会いがある。新たな道がある。それはとても、素晴らしい事だ」

「でも・・・・」

「それに」


社から視線を戻し、氏神は再び咲彩へ笑顔を見せる。


「人と人の縁など、そう簡単に切れるものでは無い。ここで咲彩が繋いだ縁は、これからもずっと繋がっていくはずだ。もちろん、氏神と人との縁も、同様に」


そう言うと、氏神は袖のたもとから取り出したものを、咲彩のてのひらの上に乗せた。


「可愛い・・・・」


咲彩の掌の上に乗っていたのは、小さくて可愛らしいカエルの姿をかたどった根付ねつけ

あまりの可愛らしさに、思わず咲彩の頬が緩み、笑みがこぼれる。


「私の眷属けんぞくのひとつ、蛙だ。『カエル』と『帰る』の言の葉の韻が同一のため、人は縁起物としているようだね」


大きな手をポンと咲彩の頭の上に乗せ、氏神は言った。


「いつでも、帰ってくるといい。そしてまた、私に咲彩の話を聞かせて欲しい。私はいつでもここで、咲彩を待っているよ」

「はい!・・・・あれっ?」


大きく頷いて顔をあげた咲彩の隣には、もう誰の姿も無い。

ただ。


『やはり、咲彩は笑っているのが一番だ』


氏神の声だけが、咲彩の心の中に響いた。


掌の上のカエルの根付をギュッと握りしめ、咲彩はその手を胸に当てた。

心臓の音が、いつもより少しだけ大きく、少しだけ早い。


「氏神さま・・・・ありがとう」


大好き、と。

最後は言葉には出さずに心の中だけで呟き、咲彩は立ち上がる。


「行かなきゃ、学校!」


そして、学校に向かって走り出した。


************


「ちょっと?おーい、さぁちゃん?もしもーし、咲彩ちゃんっ!」


友達の呼びかけにハッと我に返り、咲彩はテヘヘと舌を出す。


「あー、さては初恋の人との思い出に浸っていたな?」

「うん。まぁ・・・・そんなところ」

「で?どんな人なのよ、その初恋の人って」

「ふふふ・・・・内緒」

「えーっ?!なんでよ、教えてくれてもいいじゃない~!」

「内緒だよー!」


笑いながら追いかけて来る友達をかわすように、咲彩は走り出す。


(氏神さま、わたしね、大事なお友達ができたの。色々大変な事もあるけど、楽しい事もたくさんあるんだ。次のお休みに、お話に行きますね。あなたに、会いに。だから・・・・待っててね、氏神さま)


「こらーっ、教えなさいっ、さあやー!」

「やーだよー!」


チリンチリン、と。

涼やかな鈴の音が辺りに響き渡った。


【終】

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