春の靴擦れ

探求快露店。

***


 女は人形マネキン。男は服飾ドレス

 飾り飾られ、互いを引き立て合って、輝きを増す。

 ……そうありたいと望んだ私が間違っていた?


 鼻筋にシワを寄せた恋人がこちらを見ないまま、ゆっくりと吐き出した言葉を何度も何度も反芻リピートする。

 花を謳った金曜日。

 壊れたラジオデッキを抱え込んで、ブリキの人形と化した私は、もはや壊れ朽ちて泥に塗れた醜悪な残骸と大差がなかった。

 宝石のようなネオンに照らされた夜の街には目もくれず、敷かれた帰路を辿りながら反芻。反芻。反芻。

 改札口を抜けて闇夜の入り口ホームに立つ。

 吊り下げられた電光の案内人掲示板を信じるならば、家の最寄り駅まで送ってくれる鉄の馬車が到着するのは二〇分後だ。

 終電の間際だからか。

 日中に比べると客足が少ない分、間隔も空いているらしい。

 備え付けのベンチに腰掛けた私は深く深く、それはもう深く、息を吸い込んで、赤いルージュで彩った唇を動かした。

「なぁーにが、自分にはもったいないから別れてくれよーっ!」

 叫ぶ。安直な言葉に逃げた卑怯者へ向けて。

 叫ばずにはいられなかった。

 だって、釣り合わないと思うなら対等になれるよう相応の努力をすれば済む話じゃない。

 それが出来なかったという意味では、確かに数分前まで恋人だった男と私は不釣り合いだったのだろうけれど。

 彼という名のドレスで着飾った時、最高の美しさを誇れるようにと磨き上げた。

 乙女心を無下にされたばかりか、サイズ違いの靴を贈られて酷い靴擦れを起こしてしまったよう。

 最悪で最低な気分——。

「うおぁっ!?」

 ドンガラガッシャン。

 感傷に浸る思考回路に爆撃が落とされる。

 振り返ると、不自然な体勢の男が1人。

 躓いた拍子に持っていたビニール袋を落としたらしい。

 ……もしかしなくても私のせい?

 勢いよく転がり逃げていく缶に収められたアルコールを追いかけながら相手の男は目を泳がせた。

 気まずそうに捕まえた酎ハイを顔の高さまで持ち上げて一言。

「飲みます?」

 多分、焦っていたのだろう。

「はい」

 私も彼も。


 逃げ出した缶をビニール袋の檻に戻して、こちらの様子を伺いながら、隣に腰掛けた男は悩む素振りを見せつつも問い掛けてきた。

「こんな時間に珍しいですね。お食事の帰りですか?」

 私の叫びは聞かなかったことにしてくれるようだ。

 どこか親しげな口振りは、ほとんど毎朝、同じ鉄の馬車に収まって顔を合わせているからだろう。

 ……顔以外には何も、名前すらも知らないけれど。

 ええまあ、と頷く。

 歯切れの悪い私に不満を述べるかのように受け取った酎ハイが右へ左へ手の中で転がって体温を奪っていく。

「あなたはいつもこの時間帯に?」

「そうですね。だいたいは」

「それは、お疲れ様です……」

 私と同じ時間に出勤しているのに帰りが終電間際ということは、つまり、残業三昧の日々を送っているということ。

 ブラック企業か。

 乾いた笑いを返されて、彼の手に収まっているアルコールの意味を察する。

「儘なりませんね。お互い」

 よれたスーツそのままの、諦め切った横顔から目を逸らす。

 直視できなかった。

「……そうですね」

 プラットホームを照らす弱い光の隙間から顔を覗かせる夜空を見上げて想いを馳せる。

 消費されて働いて傷付いて恋をして、それでも明日はやってくるのだと、そんな事実を受け止めて。

 ボロボロの服飾ドレスも、手垢塗れの人形マネキンも、虚しさばかりを積み上げて。

 見上げた先の星々のように輝かしい未来など、所詮は夢物語で、どこにもないのだと思い知らされる。

「お姫様になりたかった訳じゃないんです」

 空気に酔った口がぽつりと言葉を溢す。

 相槌の代わりにプシュッとプルタブを押し上げる音が返ってきた。

 視線を戻せば、男は少しだけ悪戯っ子のような笑顔を見せて、檻の中から救い出した缶を掲げる。

「堂々としてたら意外にバレないんです」

「お酒、強いんですか?」

「それなりに。接待で鍛えられたので」

 なるほど。

 ノンアルコールのジュースとは訳が違う。

 マナー違反だとは思うが……。

 咎める者駅員が現れる様子はない。

「それで、お姫様でしたっけ?」

 話題を戻した相手に頷く。

「はい。こんなことをお話するのは申し訳ないんですけど……」

「構いませんよ」

「超訳すると、高嶺の花過ぎて自分の身には余るから別れてくれって言われたんです」

 数分前の私の奇行を思い出したらしい男は「ああそれで」と納得した様子を見せた。

 頭を抱える。

「高嶺の花なんかじゃなく野草なんですよ、私は!」

「まあ、確かに。特別綺麗って訳ではないですよね」

「喧嘩売ってます?」

 素直過ぎる口を睨む。

 自分で言うのは良くても他人に言われると癪に障る言葉というのは存在するもので、今回も、同意や肯定は求めていなかった。

「すみません、つい」

「謝る気がないやつー!」

「今のあなたを可愛らしいとは思いますよ」

 数秒の沈黙。見詰め合う。

 分かり切ったお世辞に文句を付けることもできたけれど、私はため息で返して、言葉を選び直すことにした。

「あなたは?」

「……俺ですか?」

「こんな場所でお酒を開けるくらいにはお疲れのようですけど」

 缶酎ハイに口を付けた男はそのまま私から視線を逸らした。

 ……無理に聞くつもりはないけれど。

 今日、ここで、何を吐き出したところで現実は無情なまま。

 ほつれたドレスを繕って、壊れた脚を修理して、自ら歩み出す以外にない。

 だからこそ、吐き出すことが慰めになる場合もあると思う。

 ——私がそうであるように。

 男が缶酎ハイから唇を離す。

「……転職をしたいとは考えているんですけど、なかなか、次の勤め先が見つからなくて」

 へらり、と誤魔化すように笑った。

「あんまよくないってのは分かってるんですけどねぇ」

「……そういうのって、環境が変わらないことにはどうしようもないでしょう」

「経験が?」

「いえ、想像ですけど」

 そうですか。

 笑ったまま、男は力のない声で相槌を打つ。

 その先の言葉は続かなかった。

 大人の特権アルコールと一緒に喉の奥へと追いやって、後は肝臓任せ。

「儘なりませんね。お互い」

 数分前に男が紡いだ言葉を今度は私が口にする。


 ぽつり。ぽつり、と。

 その後も、雨を降らせるかのように他愛ない会話は続いたが、迎えの馬車の到着を報せるアナウンスによって中断を余儀なくされた。

 二〇分が経過したタイムリミットらしい。

 残りのお酒を一気に煽った男は空き缶を捨てるために立ち上がる。

 同時に、親しげだった空気も霧散して私たちは赤の他人に戻った。

 別々の入り口から別々の車両に乗り込んで同じであると知っている目的地を目指す。

 世話好きの魔女が掛けてくれた魔法が解けた今、もしも、私の手の中に残されたものが缶酎ハイなんて浪漫の欠片もないような代物ではなくガラスの靴だったなら……。

 思わず笑う。

 運命を感じることができたとして、しかしその場合、私が王子様ということになってしまう。

 それはそれで面白そうだけど。


 馬車を降りて自宅に着けば私は泣くだろう。

 年甲斐もなく。心のままに。

 泣いて、泣いて、泣き喚いて、泣き疲れて。

 朝を迎える。

 昨日とは異なる今日に絶望し、それでも、昨日と変わらず息をして。

 週明けには修理の追い付いていない脚を引きずりながら出勤する。

 そうして、陰鬱とした横顔を覗かせる缶酎ハイの彼と顔を合わせたら口を開くのだ。

 相も変わらず互いの名も知らぬまま。

 ただ、おはようと。


 言葉の雨によって育まれた感情が芽吹くなら、それこそ運命だろう。

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春の靴擦れ 探求快露店。 @yrhy

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