僕の宇宙

星野レンタロウ

僕の宇宙

ティーカップに入ったコーヒーがくるくるとゆげをたててまわっている。


僕はさらさらと砂糖を入れるとスプーンでコーヒーをかきまぜる。


僕の目の前にいる男はずずずっと黒ずんだブラックコーヒーを飲む。


のみおわるとゆっくりとティーカップをおろして、窓の外をみやった。


店の前を白い犬をつれた男が散歩している。


そのまた向こうで車が慌しく景色を置き去りにしていった。


喫茶店の中はアンティークな雰囲気が漂っており、人はまばらに存在して、時折ドアの近くの鈴が音をならす。


ゆったりとしたジャズの音楽が流れている。


かしこまったような感じで男が座っている。


僕ともうひとりの男はテーブルをはさんでむきあっていた。


ととのえられた髭、ながくも短くもないきりそえられた髪、顔も悪くない、むしろ男前な部類に入るのかもしれない。バッチリとしたスーツを着込んだその人はちゃんとした社会人という印象を放っていた。


男の肩は力が入ったように固くなったようにみえた。


僕はできることならこの場をはやく離れたいと思った。


「私はこういうものです。」


男は一回せきこんでから真っ白い紙を差し出してきた。


僕はそれをうけとる。


名前は田所誠一。名詞には○○警察署の刑事とかかれてあった。


はぁ、と僕はつぶやいた。


ふいにおとずれる沈黙。


カウンターにいるおじさんが念入りにグラスをふいている。


僕らの頭上で光るレモン色の洋灯。


外をちらっとみやると、化粧のこい赤いレザーコートをきた女と目があいそうになったので見るのをやめた。


(どうしゃべらないんだ。この人は。)


聞こえるはずもないが、僕は自分の心の声が田所という男に聞こえるやしないかと心配になった。


意味もなく続く沈黙。


田所さんはいちどポケットからたばこを取り出そうとしたが、僕が目の前にいるからか出すのをやめた。


田所さんはもういちど咳払いをした。


田所さんがようやく話し始めたのは少し間をあけてからだった。


「青山くんのことなんだけど。」


「はい。」


青山。


その青山というのは数日前から行方が分からなくなっていて、地域を住民も警察も青山を最近になって捜索しはじめていた。


「仲、よかったの?」


田所さんの問いかけをよそに僕はゆげのあがったコーヒーをみつめていた。


コーヒーはただぐるぐるとまわる。


「仲がいいわけではないです。たまに遊ぶくらいで…。」


青山は不良だった。


近所でもけっこう有名で、警察から歩道や注意を受けるのは日常茶飯事だった。


昔、コンビニに偽者のナイフを持って万引きをした事件があった。


青山とその取り巻きはそういう少年たちを更生させる施設に送られたが、青山だけは2週間ちょっとでそこから出てきた。


噂では裏の社会に通じてる父親がお金を工面したという話もある。


僕はそのときやっと青山とはなれたれると思っていたのにあっさりと帰ってきたので、結構がっかりしたのを覚えている。


警察のシステムに疑問を覚えて、これでいいのかと思ったこともあった。


「なんか心当たりとかって、ある?」


少しの間をはさんで、


「ないですね。」


田所さんは真剣な目で、半ばにらむような感じで僕をみつめている。


僕は田所さんの太く整えられた眉毛と、力強く開けられた目のちょうど中間くらいをじっとみつめる。


やがて田所さんの眉毛と目のどちらを見ればいいのか分からなくなってきたところで、田所さんはようやく視線をはずした。


「ごめんね、時間とらせちゃって。」


「大丈夫です。」


田所さんがお会計をすませたあと、僕と田所さんは同時に店を出た。


僕は軽く田所さんに向けてお辞儀をして、田所さんはその場を去っていった。



帰り道、僕はいろんなことに思いを馳せながら自転車をおした。


家に帰る。


玄関に入るやいなや靴を適当に脱ぎ捨てる。


どうやら母親と父親は帰ってきてないようだ。


キッチンに足を運び冷蔵庫を無造作に開ける。


それから牛乳の紙パックをとりだして口をつけてらっぱ飲みをした。


一口、二口と飲んで、そのあとぷはぁと息をもらす。


家の外を窓越しにみると、もうすっかり暗くなっている。


牛乳パックをキッチンのテーブルに置く。


口の上に髭のようについた白い牛乳を手でぬぐって、僕はお風呂場へとむかった。


僕の名前は海野心。


心と書いてしんと読む。


みんなからはよく海野とかしんとよばれている。


僕はシャワーの蛇口をひねって、温度の調節をする。


シャワーヘッドからは生暖かい水がこぼれだし、しだいに強く流れ出して僕の体をぬらしはじめる。


あったかい。


青山。


僕はあいつがなぜ行方不明になってるのかを知ってる。


そう、知っているんだ。


その瞬間、フラッシュバックするように僕の脳内で過去の映像が映し出された。


森の中。


激しく雨が降りるなかを、レインコートを着た僕ともうひとりは歩いている。


しきりに振る雨。


落ち葉を踏む音。レインコートと肌が擦れる音。


そのどれもが鮮明な情報としてくっきり自分の頭の中に残っている。


僕はその映像のその先をみるのが怖くなって無理やり現実に意識を引き戻した。


暖かい温水が僕の肌にしつこくからみつく。


蛇口をしめ、体をタオルでふきあげ、パジャマに着替えると僕は2階の自分の部屋へと戻っていった。


部屋にもどるやいなや、オーディオのスイッチを入れる。


スピーカーからはギターの音が聴こえてきた。


僕がはじめて買ったアルバムの一曲目だ。


ベッドに、背中のほうから力をぬいて倒れる。


布団からは洗剤のにおいがして心地よい。


僕は哀愁をふくんだ曲のメロディーに耳を傾けながら、ゆっくりと過去の出来事に意識を向けていった。





僕には、何かが足りない。


遠くの空で飛行機がかすかに光った。


雲がとろく動いて、グラウンドは太陽の光にさらされてサッカーのゴールポストが無言で佇んでいる。


黒板からはチョークの単調な音が聞こえてくる。


何が楽しんだろうと僕は思う。


この教室も席に座る僕たち全員も。


何が楽しくてこんなところでこんなことをしてるのだろうと思う。


熱心でチョークで何かをかく担任の村山の頭をみると、頭皮が薄くなりはじめている。


他の教師からは嫌がらせをうけ、女子生徒からは気持ち悪がられ、おまけに妻や子供からは愛想をつかされる。


そんな人生なんだろうと僕は勝手に想像を膨らませる。


生徒の悩みを熱心に聞き入れ、信頼を手に入れ、道をふみはずせば雷をおとす、そんな教師でいたいのだろうか。


いや違う。


きっと食っていけるだけの給料と、たまに夜遊びをするほどのお小遣いがあれば十分なんだ。


そんなことを思っているうちに、気がつくと授業は終わっていた。


これで本日全ての授業は終ったことになり、チャイムがなるとすぐ星野がかけつけてきた。


星野龍一。


僕の一番の友達、といえるかもしれない。


この星野についてはおいおいゆっくり説明しよう。


「ゲーセンいこうぜ」


そのまま僕らは街中にあるゲームセンターに自転車を漕いで向かった。


人形を鷲掴みにした機械のアームが、そろそろと穴の方へと動いてゆく。


僕は呆れた様子でそれをみていたが、星野は穴の方へと近づくごとにはしゃいだ。


「よっしゃー。」


星野はピンクの眼帯をしたくまのぬいぐるみを嬉しそうに抱き上げる。


「あのさ、このあと塾があるから…。」


「いいじゃんか、次アレやろうぜ。」


星野がシューティングゲームにのめりこんでいる時、向こう側に見覚えのある人物がいた。


青山だ。


青山は虎や龍の柄が入った派手なスカジャンを着ている。


青山は車にのってレースをするゲームに夢中になっている。


青山はやはりいつものように何人かとつるんでいた。


青山は気づいてない。


青山は金色の髪をちらつかせながら仲間と笑いあってる。


「星野、マジで急いで。」


「あーもう、分かったよ。」


星野はじゃっかん不機嫌だったが、急いでやめさせる。


僕らは青山に気づかれることなくその場を抜け出した。


僕は急いで自転車をこいで塾に到着したが、講師にしかられてしまった。


暗くなった夜道を自転車でとおりぬけていき、家に着く。


玄関には母さんの靴はあったが父親の靴はまだなかった。


僕は顔を少ししかめた。


でももう僕も疲れていたのでそれ以上は考えないことにする。


深くため息をつき、くつをぬぐ。


台所をみると母さんはテーブルに頭をふせて眠っていた。


ソファーにおいてあったふとんを肩にかける。


それから2階の自分の部屋へと階段をあがっていった。


階段をふむ足がみょうに重くて、しんどい。


これは気持ちからくるものなのか、体なのか、よく分からなかった。


部屋についてドアをあける。


ベッドにたおれこんだとたん、僕の1日はこういう形でしめくくられると、あらかじめ最初からきまっていたのではないかと思った。


その考えはベッドに背をつけたその瞬間、その一瞬で生まれたのだった。


学校に行く途中に車にはねられたり、通り魔に腹をさかれるだの、もしくわ授業中に隕石がふってくるだの。


その可能性は0じゃなかったはずだ。


そんな中自分は無事に帰ってきたのだなぁと、妙な感慨にふけっていた。


まぶたが重くなる。


そのとき、携帯のアラーム音がなった。


もうなんだよ面倒くさいな、とこぼしながらバッグの中に手を入れる。


ベッドから身をのりだしてバッグの中を手探りで探す。


いっこうにみつからずそのままアラーム音は消えてしまった。


履歴をみると早瀬からだった。


早瀬と僕は付き合っていた。


まだ付き合って3ヶ月ほどだけど。


かけなおすのが面倒だったので僕は携帯を枕の横に雑に投げた。


そのまま重い腰をあげ、オーディオのプレイボタンを押し、部屋には歪んだギターの音がかかってきた。




曲は静かにはじまり、しだいにギターのはげしい音でサビがはじまる。


退廃的なムードと己の劣等感をギターにぶつけたかのようなサウンドが部屋の中に響いている。


僕はギターの哀愁をふくんだサウンドに、次第に意識を向けていった。

意識の中の深いところで曲のメロディーやドラムの音、リズム感その他もろもろが僕の何かとリンクする。


心地よい感覚。


部屋を何の気もなしに眺めてみる。


小学6年生のころに誕生日プレゼントで買ってもらったオーディオセット。


まだ新品みたいでかっこいい。


棚には僕が小さいころからよく遊んでいるおもちゃたちがずらりと並ぶ。


それからあとは小さなテレビと使い古したプレステ2。


2から3に買い換えようかと思った時期もあったけど、買い換える時期をのがしたのでそのままになっている。


ポールマッカートニーの髭を大きくはやしたポスター。


昔星野とちょっとだけかじったことのあるサーフィンのサーフボード。


珊瑚の岩にぶつけた傷が残っていて、右上部分がはげかけている。


僕のお気に入りの部屋。


この部屋には僕の思い出が凝縮されている。


目をつむる。


目をつむって、暗闇を感じる。


この暗闇を感じるとき僕は、自分の中の宇宙を感じる。


自分の中に眠っている宇宙だ。


隅から隅までその宇宙を感じ取る。


そして僕自身を媒体として、僕の中に宇宙が流れ込む。


そして僕自身もまた宇宙に流れていく。


たゆたう風のように。


ゆうらりとした川のように。


暗闇のなかで早瀬のことを少し思ってみた。


(なんのようだったんだろうか。)


ひょっとして別れ話じゃあるまいな。


そんなこと思ってるうちに、僕の意識は徐々に夢の世界へと運ばれる。


部屋にはお気に入りの曲が流れたままだった。





僕は昼休み、学校の廊下でほうきをはわいている。


教室や廊下からは生徒たちの談笑によって生まれた小さな笑い声がもれている。


それを注意する体育の田島の怒鳴り声が廊下に響いた。


だれかがバケツの水をたっぷりすった雑巾をべチャッと投げつけた。


その瞬間をなにげなく僕はみていた。


そのときだった。


「しんちゃん。」


早瀬に話しかけられたのは。


「なんできのう携帯でなかったの。」


突然の問いかけに僕はくちごもる。


廊下の窓からはさわやかな微風が流れてる。


早瀬なな。


僕の彼女だ。


部活はバレー部。


ルックスも悪くない。校内で一番てほどではないけど、すごくかわいい。


赤くぷっくりとした唇。


大きい目。


すっとした鼻筋。


目の奥が透き通ったみたいにきれいで輝いてる。


そこまでじっと見つめたことはないけど。


早瀬と付き合うことになったのはちょうど3ヶ月前のこと。


同じクラスの相沢という女子から、となりのクラスの早瀬がよんでると聞いて体育館の倉庫の前に呼ばれた。


その場で付き合ってくださいと告白をされて、ぼくはその場でOKした。


「はい」の返事をだすのにそう時間はかからなかったと思う。


僕がなぜすぐに返事をしたか、それは早瀬がかわいかったからだ。


他に理由はあまりない。


早瀬のことを本当に好きかどうかと聞かれると、僕には分からない。


好きというのもいまいちよく分からないし。


ほうきのはわく音、ぞうきんのキュキュッという音、トイレの流す音が、神経質になった僕の耳に侵入する。


体育の田島が去り際にいぶかしげにこちらをちらりと見ながらよこを通って

いった。


僕がかみしめていた奥歯の力をゆるめて放った第一声はこうだった。


「気づかなくて。」


どうしてだろう。なんで僕はうそをつくんだろうか。


僕自身から放たれた言葉に、僕は一瞬とまどった。


ふつうに「疲れてたから」でもいいはずなのに。


「そう。」


僕の心に一瞬さみしさが顔をだした。


僕のつまらないうそを見破ってくれなかった、早瀬へのほんの少しのさみしさ。


「今週の土曜日あいてる?」


早瀬が髪を小指にからめながら聞いてくる。


風にのっかってほのかなシャンプーいい香りがする。


僕はこのしぐさが好きだった。


僕の本能の奥にねむるフェティシズムをあまくくすぐって、静かに僕に性欲を沸き立たせた。


早瀬はこれまでに何度このしぐさを人生における場面で使ってきたことだろうか。


友達との電話中、退屈した授業の中で、あるいわ僕の前で。


そんなしぐさをふいにこちら側に垣間見せてくれてる早瀬に、僕はなぜだかホッとした。


こんなことでほっとしてしまう僕は変なのだろうか。


「あいてる?」


早瀬は右の眉を少しだけ吊り上げながらもう一回きいていきた。


「うん、多分大丈夫。」


「多分?」


「うん、多分。」


「そう。」


早瀬は去っていった。


僕は会話が終わっても、早瀬の真っ黒な長い黒髪をずっとみつめていた。


食い入るように。


早瀬は不器用に雑巾をふく女子生徒のよこをとおって教室にもどっていった。


どれほどの時間をこの会話に要しただろう。


気づくと掃除の終わりのチャイムがなっていた。


会話がおわって、僕は自分が予想以上に早瀬に対して性の欲求を燃やしていることに気づいた。


ほうきを教室の掃除用具入れにもどしにいった。


よこをみるとグラウンドをまちうけるかのように窓が開かれていた。


僕は窓の近くにつけられた手すりに手をつけて外をながめた。


グラウンドはまんべんなく太陽の光をすっている。


チカチカするくらい眩しいグラウンドと、よどみない青空は、僕を変に憂鬱な気分にさせた。




早瀬と会う前の日の金曜日。


下校のチャイムがなって靴箱にむかうと、星野と鉢合わせした。


げた箱からでると、雨粒がポツポツとかすかに頬や肩をぬらした。


そのまま傘をさして歩き出す二人。


まわりをみわたすと下校する生徒の姿でいっぱいだった。


星野はなにも話さずただ歩いてる。


工事現場の横をとおると、地面を掘ったりする機械の音がやかましくなっていた。


僕は宙高く吊るされた柱のひとつをみつめていた。


工事現場の作業着をきた男が、滴る汗を薄汚れたタオルでぬぐう。


うるさくなる音。


つるされた柱。


僕は今にもそれが落ちてきやしないかと少し不安になった。


工事現場をとおりすぎて、あたりには下校の生徒の姿はごくわずかになっていた。


僕と星野は、公園に来ていた。


「まぁ座ろうぜ。」


ブランコの座るところが濡れていたので、手で水をはらう僕ら。


星野は座ると、ゆっくりと足を屈伸させてブランコを漕ぎはじめた。


「最近どうよ、彼女とは。」


「どうって?」


僕は含み笑いをしながら答える。


「あっちのほうとかさ。」


「うっさい。」


僕はごまかすかのようにブランコを漕ぐ。


しばらく漕いでいると、星野はブランコからジャンプして着地した。


「みせたいものがあるんだ。」


僕と星野は公園をあとにする。


気づくと駅の所にきていた。


たくさんの人たちが駅の改札口のほうから出てくる。


仕事帰りなのかスーツにみをまとった女の人、携帯を見ながら歩くスカートが短い女子高生。


「おい、がんみすんなよ。」


「してないって。」


切符をかって、ホームで電車を待つ。


数分と待たずに電車は来た。


星野と僕は電車にゆられながら、時々たわいのない会話をする。


「どこに行くの?」


「内緒。」


「えー、教えてよ。」


「島。」


「島?」


「うん、ながめのいいとこだよ。」


「ふーん。」


電車をおりて、星野のあとを追うように歩いていく。


「みえたよ。」


目の前には、海があった。


雨はしだいにやみはじめ、ポツポツとあたりの砂場を濡らしている。


ザクザクと砂を踏みしめて波がおしよせる近くまで行く。


ちょうどいい場所でこしを降ろす。


「いいとこだろ。」


ちょっとの間をつくって星野はそういった。


「そうかも。」


「そうかも?」


星野はほっぺをくぼませて笑みをこぼす。


だいの男が二人っきりで恋人のように海辺にすわるのは、少し抵抗があったけど、気にしないことにする。


遠くの方は白い霧でみえないが、紺青色の海がゆったりと広がっている。


海は自分の威厳を現すかのように波を立てている。


勢いよく波立つと、そのまま力なく岸にうちつけられ、白く泡立つ。


なんども、きりがなく海は波をおこす。


その様子を僕はじっと見ている。


星野はまだ何もしゃべらない。


僕には波が何かを叫んでいるかのように思えた。


俗世間のもめごとやいざこざ、複雑な人間関係と関係なしに、この海は静かにそこにあった。


落ち着いていて何にもどうじない、だだっぴろい器でこの世のありとあらゆるものを見守っているみたい。


みていて僕は吸い寄せられそうになった。


そう、この海にはなにかをすいよせる力があるのかもしれない。


今日僕が星野と何の気もなしにここへ来たように。


僕は今この海と出会う運命だったのだろうか。


一縷の雨が頬をかすめる。


燃えている。


そうそれだ、この海は燃えている。


燃えているんだ。


僕にとって、頭を精一杯振り絞った結果だったが、その表現が一番しっくりくるように思えた。


押し黙っているけれど、海の奥底、何マイルもいった先のまだまだ奥深く、深いなんて次元じゃ考えられないくらいのその場所で、静かに何かが燃えているように思えた。


神秘的な性質をたもったその下で、静かに何かを燃やし、ゆらしていた。


小さいころから、僕は海の深いところを想像するとゾッとすることがあった。


なぜか分からない。


なぜかゾッとするのだ。


浅瀬はまだまだ平気、もうちょっといったところも平気、でもそれより少し深くなると僕の脳につけられた恐怖センサーが反応した。


海には獰猛なサメが潜んでおり、さらに深いところには未知の生命体がいる、そんなイメージがあった。


それより先に一歩踏み入れてしまうともう二度と帰ってこれない領域。


それは僕にとって絶対的な恐怖である。


家族3人で海に行ったときのことだ。


あのころの幼き僕は、父親に対して一切の不の感情をもってなかったし、家族3人は順調にうまくやっていたと思う。


あやふやな記憶をたよりにすると、あの日はこれでもかというほど太陽の光が照り付けていた。


僕は父をパパとよんでいた。


「パパ、泳いできていい。」


気をつけるんだぞ、と父はいい、僕は浮き輪をかぶって元気よく海まで走っていった。


からだに冷たい水をかけてなじませて、頭まですっぽりつかる。


どんどん水温にも慣れてきて、調子に乗って泳いでみる。


離れたところに岩がぽつんとういていた。


僕はその岩までたどりついて母さんと父に自慢しようと思いついたのだった。


途中までは気持ちよく泳いでいたけれど、だんだんと恐怖心が沸いてくる。


もうそこまでくると足は地面につかなかった。


だけれどあと少し。


あと少しなので諦める分けにはいかなかった。


ようやく岩について、僕は母と父のいる方向へ視線をうつした。


岸から岩までは結構離れていたので、二人の姿は小指の爪のサイズにみえた。


声を振り絞って叫んでも、二人は手をふるだけだった。


元気に遊んでるとでも思って笑っていたのかもしれない。


僕は幼なながらに動揺した。


今まで感じたことがないほどの恐怖を感じた。


ゴーグルをつけていたことさえ忘れていた僕は、恐る恐るゴーグルで水の中をのぞきこんだ。


中はくすんだ緑色みたいになって、まわりを薄暗さが覆い隠していた。


そこが見えない恐怖心と焦りが同時にうまれた。


そのときだった。


思うように足が動かず僕は体勢をくずす。


あたまからすっぽりと浸かってしまい、抵抗するかのようにじたばたとあばれる。


僕はこのとき、状況とは反対して自然と死を意識していた。


このまま死ぬのかな、僕は。


この世にたいした足跡を残せぬまま、静かに消えてなくなってしまうのか。


そのころの僕が最近残した足跡といえば、母さんに内緒でおねしょをしたことや、運動会で食べたミートボールを食べてしみじみとうまいなぁと感じたことくらいだった。


ふっと力がぬける。


体ではなく心のだ。


日々の生活がうまくいっているからといって、僕の心は万全ではなかった。


すこしのことでくずれたり破れたりする、繊細な危うい一面が僕にはあった。


はりつめていた心の縄がふにゃっとゆるんだ瞬間だった。


体は一心不乱に動く。


なんで、なんでだ。


なんでこんなに冷静に死を待ち受けている自分がいるのに、体は動く。


今思うときっと心のそこでは死にたくないと思っていたのだろう。


ただの小さな子供が死に直面して、ただただゆっくりと死を受け入れていたら驚きである。


でもあのときの僕にはなにかこういさぎのよさみたいなものがあった。


サバンナでチーターに噛み付かれたインパラなんかもこういう気持ちなんだろうか。


それまで一心不乱に動かしていた体を僕はピタッととめた。


疲れがきたのか諦めたのかは覚えていない。


水と体が一体化する。


そんな感覚だった。


それまで熱をもって、感情もあって心臓をもっていた生物が、ふいに水面下で0の生き物になった。


生き物じゃない。


物質や酸素、いやそれを超えるかも?


冷たい水の中で透明の器が、うるわしく満ちていった。


僕はこの感覚が好きだった。


いまも鮮明に覚えている。


それ以後、この感覚を探して追い求めているけど、まだ出会えていない。


異変を感じた父がライフセーバーの人とボートに乗って助けに来てくれ、僕は九死に一生を得た。


その後ライフセーバーの人が懸命に人工呼吸をしてくれたらしい。


僕の口からは漫画のように水が吹き出したという。


僕は父の暖かいひざの上で目をあけた。


おそらくぼくの唇は紫色だったろうし、手足もふるえズボンには砂だってたまってただろう。


生気のない僕の体に生暖かい日の光が注ぎこんできた。


「大丈夫か、心!」


僕の数少ない、父の愛を感じることができた思い出である。


「……海野?」


星野の声ではっとなる。


頭の中で父の声がぐわんぐわんと鳴り響いている感じだった。


「そんなに気に入った?」


彼は相変わらず人懐っこい微笑をこちらに向けている。


声を振り払うべくあたまをふり、髪をととのえる。


「意外といい場所知ってんじゃん。」


僕は本心をさぐられないように、少々の照れを隠しながら言った。


雨が水面におとされて、いくつものわっかができていた。


星野が手を背中の後ろについて、海を眺めた。


電車の通る音が後ろからする。


波は相変わらずうねりをあげ、バシャンと地面をたたきつける。


僕と星野は腰をあげ、お尻の砂をパンパンとはらいあげて駅のほうへと歩いていく。


帰りの電車では、2人とも終始無言だった。


駅に着き僕と星野は手を振りさよならを言い合い、そして別れた。





店内はゴチャゴチャと客の出す音やらしゃべり声やらで雑然としていた。


青と黒のネルシャツをきてその下に黒いTシャツ、下はジーパン。


ださすぎく無く、かっこつけすぎることもない、ラフな格好だ。


僕は少しイラついていた。


もちろんこの騒がしい店内の音も関係ある。


だけど僕をイライラさせてるものはほかにもあった。


それは今朝から連続していた。


まず寝癖で髪がうまくきまらなかったこと。水でぬらしても押し付けてもダメだった。


しょうがなくそのまま家を出た。


ファミレスについて今に至るのだけど、これがついてから30分以上たってる。


おまけにファミレスの中はうるさい。


小さいことではある。


そう小さいことだ、僕は言い聞かせた。


でも僕の現状、今の精神状況はこうである。


だからもうこの状況を受け入れるしかない、そう思ったのであった。


子連れの親子が鉄板にのったハンバーグを食べている。


その夫らしき人物が丁寧にナイフで切り分け、そそくさと二人の子供に分け与えていた。


そのとき僕は気づいた。


子供の一人がオレンジジュースをチュウチュウと飲みながら、なぜかこちらを釘付けになって見ている。


目はパッチリちあけられてくりくりしている。


なにか僕についているのか?いや違う、子供の興味は僕という人間そのものに向けられているようにみえた。


(なんでこんなにたくさん人がいるのに僕を見るんだ。)


僕はまたイラッとした。


気づくと貧乏ゆすりを僕の足がはじめていた。


だめだ、イライラしたときの父みたいになってしまう。


そう思って僕は貧乏ゆすりをやめた。


貧乏ゆすりなんか普段あまりしないほうである。


メロンソーダにささったストローに口をつけ、フロートにしとけばよかったかなと思い始めていたそのとき、早瀬の声がした。


「ごめんね、この子迎えにいってたら遅くなって。」


まず遅くなって登場した早瀬にたいして何か言おうとした。


でもその後「この子」という言葉を再認識すると、僕の目線は早瀬の横へと移った。


そこにはおしゃれに身を着飾った女の子がいた。


僕はいまいち状況がのみこめない。


その子は好奇心に満ちたような笑みをうかべていえる。


目が大きくてくりっとしていて、一瞬子供の丸い目の映像とリンクして写った。


その子の目はなぜだか僕をそわそわとさせた。


「となりのクラスの岸谷、知ってるよね。」


「え……。」


「言葉につまる僕にその子は隙を与えなかった。」


「ごめんね、急にびっくりした?一度奈々の彼氏って人をちゃんとみたくてさ。」


岸谷といわれて今、思い出す。


岸谷は名前も顔も知ってるし、となりのクラスということも知っていた。


だけど今まで同じクラスになったこともなければしゃべったこもない。


ただ、早瀬と仲が良いってことは知っていた。


僕は岸谷の顔をちゃんと対面してみるのは初めてだった。


かわいかった。


髪はショートカットで、なにかこう、フワフワしていた。


それで目は大きくて、オレンジと白のワンピースをきていて首元には三日月の首飾りが光っている。


手からさげられた白いバッグは大人も顔負けのブランド品みたいにみえる。


いまどきの女の子は時代にのっかるのがうまいんだなとみょうに関心してしまった。


「やだ、海野くんったら寝癖ー。」


岸谷の手が僕の頭の上にのびる。


僕は少しムッとした表情をあらわにする。


早瀬も岸谷と笑ってる。


二人とも僕の表情の変化に気づいてない。


僕は無理やりこの状況をのみこもうとがんばり、それと同時にこれからはじまる長い一日を想定し、覚悟した。



岸谷がドリンクをグラス注いで席に着つく。


僕の反対側に岸谷と早瀬が座っていた。


「これってダブルデート?」


真っ先に僕の口から出たのがそれだった。


岸谷はなぜかプッとふきだしこう言った。


「違うよ、うちと奈々と海野くんだけ。嫌?」


「いや、嫌ってわけじゃ……。


不穏な沈黙がテーブルの周りに漂いだす。


いや、不穏と感じているのは僕だけかもしれない。


僕はふと耐え切れず不満を吐露した。


「ちょっとぐらい友達連れてくるとか教えてくれてもよくない?」


「ちょっと、感じ悪いって。」


早瀬は受け流す感じで笑いながら言った。


そのとき僕のイライラメーターは頂点まで達し、勢いのままグラスをテーブルにたたきつけた。


感情のまま僕は口走る。


「だいたいさぁ、それが人を30分人をまたせた人の態度かよ。ていうか空気よんだらわかるよね。普通人のデートについてくる!?」


僕は肩をいからせながら突っ立っていた。


他の客も気をとられてこちらをみている。


岸谷は目に涙をためて、ついには泣き出してしまった。


(あぁ、しまったな)と思ったときにはもう遅い。


走りながら店を出て行く岸谷。


「ちょ、待っ…。」


「ひどいよ。」


去り際にそういってぼくの顔に水をぶっかける早瀬。


僕はただ立ち尽くす。


そして考える。


最悪の結果を招いたのは、僕の自制心が足りなかったからなのだと。


僕の脳内シュミレーションはそこで途切れる。


実際にはそんなこと言っていない。


もし言ったらどういう展開なるかを想像してみたのである。


もし仮にああいうことをいったらそのあと女性陣によりこっぴどく反撃を食らうことだろう。


女とはたいてい口喧嘩が強いものである。


これは母さんと父のやりとりをみててもわかる。


いつも口喧嘩の主導権を握るのは母さんの方だった。


男は筋肉できた脳みそで力任せに発言するのに対し、女の人はやわらかくそして鋭く冷静に発言してくる。


それを知ってる僕は極力女の人には歯向かったり反論しないようにしている。


僕の処世術のひとつだ。


僕には到底女の子を目の前に、感情をあらわにして憤慨することなどできない。


怒鳴ることさえ難しいだろう。


僕は、自慢じゃないけど人から「優しい」といわれることが多々あった。


僕としては自分が優しいのかなんてわからない。


いやたぶん優しくないだろう。


僕は人によく見せ、自分を守ることが得意なだけなんだ。


きっと。


それにしても妄想の中でも僕は怒るのが下手だなぁと思うのだった。


店内は相変わらずゴチャゴチャとうるさく、3人は口に何かを入れられたかのように黙っていた。


(こういうときって何を話せばいいんだろうか。)


僕はまずそう思った。


岸谷が一度スマートフォンをパッと出して何かを確認すると、またサッとしまった。


そして落ち着かない感じでふわふわの髪を気にしだす。


女の子ってみんなこんな感じなんだろうか。


早瀬はどうなんだろう。


僕ははっきりいって早瀬のことを深く知らない。


付き合いはじめたのは2年生の後半から。


早瀬が僕をどう思っているのか、早瀬の好きな音楽、映画だってよく知らない。


岸谷のほうがよう知っているだろう。


だけど知る必要があるのだろうか。


僕のすべてを早瀬にさらけ出したところで、早瀬はそれを理解できるのか?


早瀬は世間一般の「かわいい女子高生」でしかないんだろうか。


「かわいい女子高生」は、部活や勉強もそつなくこなし友人もおおく毎日を楽しく生きる。


「かわいい女子高生」は、僕のような雄を手っ取り早く選んでカップルを演じたがる。


「かわいい女子高生」は安定した職の男と結婚し、たいていは平凡で幸せな家庭を夢見たりする。


早瀬はそういう社会の「型」にとらわれた人間なんだろうか。


僕はこういうふうに世間一般の女子をとらえる自分を、ひずんでいると感じた。


そう、僕は歪んでいるのかもしれない。


クラスのやつらとしゃべったりしていても、どこかこう面白くないというかつまらない。


そう感じるのだ。


早瀬には僕のすべてを見てもらいたい。


醜い自分を見抜いてほしい。


その反面、すべてを悟られることを恐れている自分もいた。


岸谷の前におかれたグラスには、鮮やかな黄色い飲み物が入っていた。


黄色い炭酸ジュースはいくつもの小さい泡を浮かべている。


僕はそれをみている。


僕は岸谷の視線に気がつく。


「何?」


僕はちょっと笑いながらきく。


「海野くんって、イケメンだね!」


そういったとたん早瀬が岸谷のほうをみた。


よきしない言葉だった。


「え、あ……、うん。」


戸惑った僕は自分でうんと言ってしまう。


そのことがウケて岸谷は手をたたいて笑いはじめる。


僕は嬉しくなって、なんだかふわふわした気持ちになる。


男でそういわれて嬉しくならないやつはいないんじゃないのか。


でも僕は自分の顔を「イケメン」だとは思ってなかった。


どっちかというと普通の顔と思ってる。


でも僕と付き合う前の早瀬もかわいいって言っていたし、同じクラスの相沢からは「きれいな顔だよね」といわれたこともあった。


もしかして岸谷は僕のことが好きとか?


ないない。


それはない。


僕はその考えを振り切った。


「あはは、海野くん自分でうんだってぇ、おなかいたい。」


時計をみると3時だった。


ファミレスに入ってきてから1時間半たっていた。


僕にはもっと長くいたように感じられた。


のこったコーラをストローですすりあげる。


ハンバーグをたべていた家族はもうどこにもいなkった。


「よし、いきますか。」


岸谷がいう。


もう一度ないとわかってるコーラをすすって、僕らは席をたった。


━映画館前。


さすが土曜日だけあって人いきりがすごかった。


「わー海野くんはなに見る?」


といったまもなく岸谷は自分のみたい映画についてしゃべりだしていた。


「この恋愛映画みたかったんだよね。友達がちょー面白いっていってて。」


早瀬もそれに乗じて「それにしようかな」などといっている。


冗談じゃない、僕は早瀬とデートして映画をみることになったらアレをみると決めていたのだった。


それはホラー映画だった。


それもけっこうスプラッタシーンのある映画。


その映画は僕の好きな外国の監督がプロデュースしていたのだった。


当然岸谷はいやがったが半ば無理やりそれに決めた。


チケットを買いポップコーンとポテト頼んで館内に入った。


岸谷はほんの少し不機嫌になっていた。


真っ暗闇のなかスクリーンの前ではじまるのをまつ。


僕はこのときいつもわくわくする。


暗闇がなんともいえないくらいにソワソワしたようなワクワクしたような感じにさせる。


映画がはじまった。


ストーリーに特に起伏はなく、淡々と進んでいく。


僕はよくあるホラー映画を見てる途中に女の子が抱きついてくるとかいう展開を、僕はちょっぴり期待していた。


だけどそういう展開はいっこうにこなかった。


2人とも案外淡々とみていた。


岸谷は途中で携帯をとりだしたりしてる。


早瀬を気づかれないようにみやると、まじめにみていた。


その目は黒目を大きくし、しっかりと開かれている。


まるで何かに騙されないぞというふうに見開かれている。


なにものにも騙されないぞ、そういう感じだった。


それから支離滅裂というか、よくわからないストーリーが進んでいき映画は終わった。


正直言うと面白くなかった。


というよりつまらなかった。


映画館から出て岸谷は「訳わからない」を連発していた。


正直もうちょっとマシかと思っていた。


なんたって僕の好きな監督の映画だったから。


僕は大事なデートで、やっちゃったなと思うのだった。




「それはさぁ、お前が悪いよ。」


それはこないだの早瀬とのデートのことを星野に話していたときのことだった。


「女の子とのデートでつまらない映画を選んじゃだめだよ。」


「でもありきたりな恋愛映画をみるよりましじゃないか?」


「いや、逆にそういう映画をみることによってムードをつくれるんだよ。デートでマイナーなB級映画をチョイスするのはないよ。」


「そうかなぁ。」


「あ、このまえ貸してもらったレディオヘッドのアルバムよかったよ。」


「うん。」



星野はレディオヘッドのCDを鞄から取り出した。


「お、どの曲が一番よかった?」


「うーん、let downとかよかったかな。」


let downはギターの眠くなりそうなきれいなアルペジオが特徴の収録曲である。


「あれいいよね。」


「星野さぁ、なんか他にいいアーティストとかバンド知ってる?」



「うーん、だれだろな。numbergirlとか、くるりとか。チャットモンチーとかもいいよ。」


「そう、じゃぁ今度チャットモンチーのアルバム貸してよ。」


「いいよ。」


僕らはいつもこうして好きな音楽とか好きなバンド、映画について語り合った。


この曲のここがどうだとか、この曲は駄作だとか、このアーティストはこの時期からだめになったとか。


そうすることによってお互いのアイデンティティを確かめるような。


アイデンティティの、あり方を、確かめるような。


そんな時間だった。


アイデンティティという言葉の意味は、自分は何者でなにをすべきかという心の中にある概念なのだけれど。


2人の青年がお互いのアイデンティティを探して語り合う。


いかにも青春って感じだ。


僕はこの星野と会話する時間が好きだった。


何にも縛られず、ふわふわとした絵の具でかいた雲にのって、ゆうらりと浮かんでる。


そんな感じでリラックスできるのだ。


互いが心のなかにある何かこうぐじゃぐじゃして分かりにくい、もやもやした内側の部分を語り合うことによって、僕らは


互いの心のよりどころをさがしている、そんな気がした。


さびた鉄のような、にごった水のような心のエゴが僕の心の中にある。


いつからだったか。


いつごろからそれが芽生えたのかはわからないけれど、確かに僕の心の中にある。


人にはみせたくない、見られたくない部分。


自分の内面世界。


はてしなく暗く果てしなくかたい頑丈な殻のようなもので心は覆われているのかも。


その殻はやぶりにくくて、ハンマーやミサイルで打ち砕こうとしてもびくともしない。


殻。


自分。


内面。


葛藤。


星野は以前僕にこんなことを言ってきたことがあった。


「なぁ海野。人は死んだらどこへ行くとおもう?」


学校の屋上で、グラウンドを眺めているときのことだった。


「え、わかんないよ。なんで、急に。」


「俺はさぁ、人は死んだら黄泉の国にいくと思うんだよね。」


「黄泉の国?」


「うん。なんか神秘的でかっこいいよな。」


「そうかな。」


「そうだよ。」


僕は口をつぐむ。


なにか星野の目は冷たくて、どことなく何か怖さを感じさせた。


顔は笑ってるけど目はぜんぜん笑ってない、そんな感じ。


星野はつづける。


「死んでからも人の意識は続くのかな。それとも魂だけになって黄泉の国をさまよい続けるのかな。」


「知らないよ、そんなの。」


「それとも生まれ変わって新しい生命にかわるのかな。」


僕はまたもや口をつぐむ。


「なんかとかげとか木とかだったらいやだよなぁ。よく花も虫も生きているっていうけどあんなの生きてるとはいわねぇよ。俺から言わしてもらえばあれは単にそこにあるだけだ。


虫の意識ってどうなってんだろうな。「僕はここにいる」とか感じるもんなんだろうか。」


星野は淡々としゃべりたい分だけしゃべり続ける。


「あれ、でもとかげって虫っていうんだっけ?」


「さぁ。」


星野の目はどこか透き通って、透明で不確かなものをずっと眺めるかのようにうっすらあけられていた。


それを僕ははっきりと覚えていた。


星野のその冷たい目を。


はっきりと。


僕は星野とたくさん話してきたし、趣味も嗜好も星野のことはわりかしよく知ってるといえる。


でもわからない部分がある。


星野はときどき人をつきとばすような、人を遠ざけるような、そんな態度、雰囲気になるときがある。


まるでありとあらゆるものを拒む冷たい世界の中にいるような。


星野もまた、殻をもっているのか?


殻につつまれた冷たく暗い世界。


静かに沈黙をまもって、なにをも受けつけず寄せ付けない、自分だけの内側の世界。


そういう殻に、星野はつつまれているのかもしれない。


星野と別れ、帰りの電車にゆられながら僕はそう思った。


僕にはわからない。


自分のすべても。


星野のすべても。


星野はときどき、冷たい目をする。





落書きでうめつくされた教科書が、バタンとおとされる。


(またか。)と僕らは思う。


「感謝してよね、あんたが書いてないところ、私たちが書いてあげたんだから。」


女は冷たくそういい捨てる。


女達の無慈悲な笑い声が教室に響いている。


囲まれた女はべたっと座り込み、その長い髪を前に垂らしていた。


女は何も言う気配がない。


まわりを取り囲む一人の女が、座り込む女の髪をくしゃくしゃっとしてみせた。


この女の名前は平山みずき。


このいじめの主犯格であり、いつも取り巻きとつるんで嫌がらせを働いている。


切れ長の細い目が平山の性格をそのままうつしだしているようだった。


目は細いが不細工ではない。


むしろ男子からの評判はそこそこ高かった。


性格はひどいのに、どうやらその弱い相手をさげすみ、みくだし、睨みつけるだけで傷つけてしまいそうなその視線にやられるらしかった。


僕にもそれはなんとなく分かる気がした。


平山の目は今日も冷たくて細い。


そのとき教室のドアが開いた。


「はーい、はじめますよー。」


担任の小野田が入ってくる。


女たちはなにごともなかったかのように自分たちの机へともどっていった。


静まりかえってみていた僕達も、何かを取り繕うようにして視線をもどした。


何かを見なかったようにするように。


僕が振り返ると、いじめられていた女はノートをひろってはらい、そして机にすわった。


なぜだか僕はいたたまれない気持ちで彼女をみていた。


彼女の名前は早川のぞみ。


早川さんがいじめられはじめたのは、確か一学期がはじまって一ヶ月くらいたった5月のはじめからだった。


じめじめとした、ぬぐいされない梅雨の雨が降り出していた季節。


僕らが体育館に集められ、早川さんの上履きがなくなったという知らせを受けた日も、雨が降っていた。


早川さんへのいじめは、上履きを隠すことからはじまり、次の段階は無視だった。


いじめの中で一番残酷なのが無視だと、どこかで聞いた事がある。


あるときの休み時間。


早川さんは平山と相沢かんな、西条あやめの3人にトイレによびだされる。


僕は横目でそれをみていたが、どこかこう嫌な予感が心によぎった。


その嫌な感じをもったまま授業がはじまる。


僕の嫌な予感はあたり、ドアが開かれたそこには頭から水をぐっしょりかぶった早川さんの姿があったのだった。


僕の心には今、ゲンジボタルの光のような小さな罪悪感が芽生えていた。


ほのかに、静かに、僕の心の下でゆれているそれは善と悪の狭間で僕の心をぐらつかせた。


教室の中にいる人間は、だれひとりとして彼女を助けようとはしない。


助けたほうがいいのだろうか、その思いはいまもあった。


だが僕は何をしようが何を変えようが僕はもうすでに犯人のうちの一人なのである。


早川さんに対して行われる残酷な行為を黙認した、その他大勢の犯人。


担任の小野田は熱心に声を張り上げ、教科書ををよんでる。


黒板の方をみていると小野田と目があったような気がして急いで目をそらす。


もう一度早川さんのほうを気づかれないように振り向くと、何かに怒るわけでもない、うらむわけでもない普通な表情をして授業をうけていた。


僕は向き直って、ため息を吐いた。


しかし早川さんのことで物憂げになっている暇はなかった。


あくる日の放課後、下駄箱で靴をしまってると、青山に会った。


青山のそばには当然ながら取り巻き達もいて、くっちゃべりながら他の人の上履きをさわったりしている。


青山の手が肩にかかる。


「よ。」


喧騒とした街の中を、僕は青山たちと歩いていた。


青山に無理やり連れてこられたのだった。


「街いこうや。」


「いやちょっと今日は…。」


青山の顔がひずむ。


「いやまぁその…。」


「行こうや、な?」


青山は僕の肩に手をまわしてきた。


「お前青山くんが行こう言うてるんやから行けや。」


取り巻きたちがそう畳み掛けた。


そういうわけで今僕はここにいた。


歩いていくと、飲食店や服屋、カラオケ店などが顔をのぞかせた。


薄汚い道路にはタバコの吸殻や塵が落ちていた。


ゲームセンターの前をとおるとやたらとにぎやかな音が聞こえる。


淫靡な配色の看板を下げた店から、男と女がでてきた。


男は頭をリーゼントでかためスーツを着込んでる。


女はゆたかに膨らんだ乳の谷間をピンクのドレスからのぞかせていた。


あんなまじめそうな人でもこんな店に入るのかと、そう思った。


家庭に秘密にしてまで店の中でふしだらな行為をして、良心の呵責は生まれないのだろうか。


気持ちよかったんだろうか。興奮したんだろうか。


僕は活気にあふれる人ごみに消えていく、その男の背中をみていてそう思った。


向こう側から歩いてくる男の持つ煙草の煙が僕の肩にかかる。


面倒くさい。


青山と取り巻きたちは愉快に話している。


僕は何度も青山の横顔を盗み見る。


顔。


地面。


看板。


顔。


という風に交互に見る。


どこに向かってるんだろうか。


だんだんと不安な気持ちになってくる。


楽しげで、愉快そうな、青山の顔。


青山の目は意地悪そうな笑みをたたえている。


なにがそんなに愉快なのだろうか。


僕の気持ちはどうしようもないようなあやふやな感じになってくる。


大きな道路の前にくる。


信号を待ってる間、上をみあげると大きな画面に女がうつしだされていた。


女はポップなメロディをうたいあげている。


何を言っているかは周りの雑音で聞こえなかった。


道路を渡る。


いっせいに人々がなにかに従うように歩いていく。


人ごみの中、僕は奇妙な気持ちになる。


道路を声、しばらく商店街を歩く。


ガンガン鳴るうるさいパチンコ屋の前をとおり、人影の少ない路地裏を歩いていく。


ゴミ箱からは生ごみがはみだしおてり、異臭がひどい。


その路地は薄気味悪かった。


地面にははがれかかったチラシが張り付いている。


路地裏を抜けると駐車場についた。


そこにはバイクにまたがったり、ヤンキー独特の座り方をする男が3人ほどいた。


どうやら待ち合わせをしていたらしく、「やあ」とか「よう」などの声を掛け合っている。


僕はじっと釘をさされたかのように立ち続けていた。


手には汗がにじんでいる。


いっこくもここを離れなければ。


僕はそう思った。


バイクにまたがった男のするどい目が僕をとらえた。


こういう目はどこかでみたことがある。


そうだ平山の目だ。


見るだけで相手を傷つけそうな切れた目。


「だれ?こいつ。」


僕はつっぷすことしかできない。


「そいつ、俺の弟子。」


と青山。


僕は「は?」といいたくなったが、こらえる。


「まじで?」


「うそうそ。」


男たちは笑い出し、そのとき僕の視界はなぜかぐらぐらと揺れ動きだした。


地面が変動したかのように揺れて、空と背景がまざりあう。


男たちのいやらしいしたり顔がぐにゃぐにゃ伸びて、踊り始める。


顔は赤黒くなって周りの世界もじわじわと黒くなっていく。


狂気の地底からわきたつ湯気のような顔が、ぼくの前でゆれている。


僕の視界は異次元にトリップしていた。


不安定な僕の心。


僕はその錯乱する景色の中で、自分が「めまい」を起こしているのだと遅れて理解した。


僕にとって彼らは怖い人たちだった。


髪は染められ、目はするどく、派手ながらのものを好んできたりゆるゆるなスウェットをきたりする。


そんな彼らがこわかった。


その意識が僕の景色をこういうものにさせているのだろうか。


伸びた顔はひずみながら笑う。


僕は自分をとりかこむ奇異な世界の中に、静かに佇んでいた。


「おい、だから名前は?」


男がきいてくる。


「う、海野。」


気づくとあの奇怪な世界は消えていた。


「へー。」


男はそっけない態度を僕に対してむけた。


僕はなすすべなくそれを受け止めるほかない。


男たちはしゃがみこみ、たばこをすってはなしはじめた。


微かに鼻腔をたばこの煙がつく。


相変わらず手は汗で滲んでいる。


男たちのするどい目。


うざったい煙。


薄暗くなりはじめた空。


そのどれもがなぜだか僕を不快にさせた。


このもどかしい感じを僕は「嫌いだ」と思った。


男たちは座っているのに僕だけが一人ぽつんと立っている。


「おい、こっちこいや。」


僕に気づいた男の一人がそう呼びかけた。


僕に気を使ってくれたのか?


変な期待が胸の中で生まれた。


僕はそのとおりにして青山の横にしゃがんだ。


「なんでだまってんの。」


男はにやにやしてそう聞いてきた。


男の歯はきたない。


「え。」


「たばこ、すわない?」


別の男が休ませることなく聞いてきた。


この男も笑いながらきいてきた。


男のきているスカジャンの竜の柄に目をやりながらこたえる。


「いやちょっと僕は吸わないんで。」


「いいから吸えって。」


「え…。」


僕が対応に困っていると青山がふいに口を開いた。


「すいたくないって言ってるだろ。別にいいだろ。」


目を見開いて青山の方をみた。


青山がなぜその時そういったのかは分からない。


でも僕はそのとき青山って本当は優しいところもあるのかなと、思ってしまうのだった。


でものちのち僕はそれが間違いだったことに気づくことになる。





理科室。


僕はその独特な匂いにつつまれながら、鉛筆を走らせ授業にはげんでいた。


図鑑や資料がぎっしりと後ろの棚に押し詰められ、そこかしこに生き物の模型が展示されている。


黒板のよこの壁には、鮮やかな色彩の鳥が水面で羽ばたく写真つきのカレンダーが張ってある。


僕の横では静かに人体模型が佇んでいた。


見れば見るほど、それはグロテスクで、人間の内部の構造をことこまかにかたどっていた。


つんつんとお尻を触られたので後ろをふりむく。


「うーみのくんっ。」


にこやかな表情をつくって水島がボールペンでつついてきた。


彼はおおらかな性格で人に好かれやすく、容姿も悪くなかったが、いかんせん男に対してやたらと好意をむける傾向にあり、スキンシップをとることが多かった。


それが原因で「水島はホモ」という噂が学年全体にひそかに知れ渡っていた。


「なに。」


「そんなかたい顔しなーい。」


水島はもう一回つんつんとしてきた。


「やめろって。」


僕は水島の行為が少しだけ気に障り、水島の手をはらった。


黒板に向き直り、教科書をすばやく開く。


僕は気づかれないように、教室全体をねめまわす。


僕はこういうしぐさが得意であった。


人間観察のときには必須の能力だ。


ふてぶてしく頬杖をつく生徒もいれば、ひたむきにノートをとる生徒もいる。


田中たちは黒板のほうをみてひそひそと笑いあっている。


いずれザビエルの注意をくらうだろう。


理科の担任は頭部がきれいにはげており、その横側だけドーナツのように毛が生えているため「ザビエル」とよばれているのだった。


ザビエルの話は8割型面白くない。


教室が笑いにつつまれることなんて、奇跡でも起きない限り無理である。


ザビエルは今日も熱心に弁をふるっていた。


理科の授業が終わり、僕らは給食の準備を開始する。


僕たちは並んでいっせいに給食室へと向かう。


僕はこの作業があまり好きではなかった。


真っ白な給食着。


潔白とした白と、規律を丁寧に守る僕らとがどこか妙に一致しているようでならない。


階段をおりて、もういちど階段を下る。


よこの壁には生徒たちが書いた絵画や習字の作品が貼られてある。


習字紙には漢字で「世界平和」とかいてある。


途中はりのひんまがった画鋲が落ちていたが無視をした。


給食室はいつも生徒の姿でひしめきあう。


金属的な匂いと米の湯気立つにおいとがごっちゃになる。


僕は沢村とご飯が入った長方形の容器を互いに持ち合う。


給食係には大きく分け6つの係りがあった。


ごはん係、牛乳係、小さなおかず係、大きなおかず係、トレー係。


僕はいつもご飯係りだった。


理由は、なんとなくだ。


ようやく教室につく。


教室につくまで道のりの、とくに階段を上がるときは苦行だった。


いつも相方の沢村と一緒に危なっかしく運んでいた。


給食係以外の生徒は、みんなぼくら任せで座っているだけ。


くっちゃべりながら待つ生徒もいた。


よたよたとよろめきながら僕と沢村は台の上に容器をおいた。


僕らに続いて牛乳係り、おかず係も教室に入ってきた。


一人の女子と目があう。


その女子はいかにも「はやくご飯の準備をしろ」と僕に言っているかのようだった。


鍋からはほやほやと湯気がたっている。


中にはあったかそうなシチューが入っていた。


生暖かい湯気が僕のほっぺにはりつく。


シチューを見るのをやめて、そそくさとご飯をさらによそいはじめる。


頭からむしむしと汁うきでてくる。


僕はこの汗をうっとおしいと思った。


はやく全員分の食器にご飯をよそわないと、そう重いしゃもじを持つ手をはやめた。


「お、はりきってんじゃん。」


沢村がマスクのしたからくぐもった声をだす。


別にはりきってるわけではない。はやくこのうざったい作業から開放されたいだけだ。なんで配膳ごときに張り切らなければいけないのか。


僕はさらにご飯をよそい続ける。


給食の準備がすべてととのい、僕らは純白の給食着を脱いで、遅れて席につく。


クラス委員の相沢が「合唱」と合図をかける。


「すいません。」


その声と同時に教室全体が静まり返るのを感じた。


僕は声の主のほうをみて、目を丸くする。


早川さんだった。


「おはしと牛乳がないんです。」


早川さんは落ち着いて、はっきりとした物腰でそういった。


僕は静かにつばを飲んだ。


早川さんは落ち着き払って座ってる。


「おい、だれか。もってきてやりなさい。」


担任の小野田が不機嫌そうにそう言い放った。


クラス委員の相沢が駆け足で箸をとりにいく。


「ごめんなさーい。気づかなくって。」


また平山たちだ。


そうに決まってる。


平山たち以外にだれがいるというのだ。


どうしてこんなことをするんだろうか。こんな小さくつまらないこと。


大半の生徒はこういうときばつの悪そうな、きまりの悪い感じになって下を向いたり上を向いたりする。


だけど一部からはくすくすという笑い声や、バーカというような小さい声がきこえてくる。


相沢が箸をわたして、合唱を再びしかけたたとき、


「早川、そういうときはもっとはやく言いなさい。みんなの迷惑になるから。」


小野田はそういった。


小野田はため息をはき、牛乳パックにストローをさした。


「はい。」


早川さんは小さくそう返事をした。


よどんでいる。


この人の目はよどんでいると思った。


なんらかの不正に目をそむけているんだ、この人は。


僕はまた低く、広く、この教室という名の世界を見渡した。


誰にも気づかれないように、おそるおそる。


くだらない話で談笑する生徒、一心に箸を動かす生徒、ガールズトークに花を咲かせる生徒。


僕は教室にかこまれたち小さな世界をみていつも思う。


この世界は残酷だと。


だれも助けない。


容赦なく弱いものはきりすてられる。


僕らはまるで遠くかなたのサバンナにすむ動物たちのよう。


この残酷な世界を僕は今日も低く、広くみつめる。


そして僕はしばらくみつめていた。


くらくて淀んだ小野田の、黒く鈍く光るその目を。




僕と星野は昼休み、屋上で話をしていた。


上空はすっきりと青色に塗られ、白いクリームみたいな雲が膨らみながら流れている。


気持ちいな、と星野はてはじめにいった。


あたりをみわたすとほとんどがら空き状態だ。


2人組の女子生徒が遠くのほうでひょこっと座ってるくらいだった。


僕と星野はグラウンドが一望できる手すりの前までいきそれをみわたす。


「みんな元気そうでなによりですのう。」


「なにおじさんみたいなこと言ってんの。」


星野はにやけた。


にやけながら手すりに手をつき、ポケットから牛乳パックを取り出した。


「あ。」


「何。」


「なんで今牛乳飲んでんの。」


「給食のときパクった。悪い?」


「いや悪くはないけど…。」


星野は鼻歌を歌いながら牛乳を飲んでる。


僕は手すりに手をやりながら、下をむいた。


しゃべることが一瞬浮かばなかったからだ。


したには松の木が隙間なくみっちりと生えている。


もし万が一ここから落ちても死にはしないだろう。いやでも待てよ、体に枝ごとささったらどうなるんだろう。


そんなどうでもいいことを頭の隅においやり、思考を現状に引き戻した。


「さっきさ…。」


菓子パンの空き袋が、カラカラと風で転がされていく。


「何。」


「早川さん、知ってるだろ?今日も給食のとき、わざとおはしと牛乳だけが配られなくてさ。」


「へぇー。」


「うん。」


「だれがやったの。」


「平山。あいつにきまってる。あいつにちがいないよ。」


「平山、あいつまだそんなことやってんだ。俺小学生のころ同じクラスでさ、やっぱりやってたよ。そういうこと。


決まって気の弱そうなやつとか、おとなしそうなやつ、歯向かわなさそうなやつをターゲットにすんだよ。靴隠したり落書きしたり無視したり陰口たたいたりさ。」


小学生のころ同じクラスとは初耳だった。


平山、小学生の頃もやってたのか。


「やっぱさ、決まってんのかもね、遺伝子的に。」


「遺伝子的に?」


「うん。いじめる側といじめられる側っていうのはなんかこう…宿命みたいな感じで。」


僕は少しだけその考えに納得する。


確かにいじめられるために生まれてくる人はいない。


でも来世とか前世とかの関係である程度決まっているのかも。


いじめられる側といじめる側っていうのは。


平山の顔が自然と思い浮かんでくる。


冷たくて、とがった目。


思い浮かべただけで少しゾクッとする。


「そのあとにさ、担任の小野田なんて言ったとおもう?」


「え、何。」


「早川、そういう時はもっとはやく言いなさい、みんなの迷惑になるから。だってさ。」


僕はわざと小野田のしゃべり方をまねて言った。


「へぇー。」


「へぇーって…なんだよ。」


「いやべつに。」


「おかしいよな、普通先生なら犯人をその場でしかるべきだよな。」


「お前は助けないの。」


「え。」


僕は完全に言葉を見失う。


それを言われると困る、と思った。


確かにそうだ。


僕は人任せで事態が変化するのを待っているだけ。


自分は嫌な役割から逃れて、彼女を遠くのほうからみているだけだった。


なにより僕は、標的になるのが恐くて彼女を傍観している自分が卑怯だと、よく分かっていた。


「それは…。」


虚をつく発言に、僕は言葉をつまらせる。


「それは…?」


星野は片手で牛乳パックをにぎりつぶす。


牛乳パックと星野の目を交互に見合わせる。


牛乳。


星野の目。


牛乳。


星野の目。


牛乳。


「はい!この話題おしまい。なんか他の話しようぜ。」


星野が牛乳パックを手と手ではさんでパンと鳴らしてそういった。


小さな白い液体の粒が飛び散る。


僕にかかるか掛からないくらいのところでそれはかからなかった。


グラウンドではドッヂボールをする生徒が、勢いよくボールを投げつけている。


かもめみたいなカラスみたいな鳥が僕と星野の頭上を過ぎ去った。


「塾、やめようかと思ってんだよね。」


僕は思い切って打ち明けた。


今までもそう思って誰かに言おうとしてきたけど、なかなかいえなかったこと。


「なんで。」


「だるいし、疲れるし、面倒なだけだよ、塾なんて。」


「ふ~ん。」


星野はいつもどおり愛想なくそう返す。


他の人だとそっけなく感じてしまうかもしれないけど、僕の場合はちょうどよかった。


妙にテンション高すぎるのも困るし、熱心に聞き入られるのも苦手だ。


適当に、間の抜けた空気感をもった星野の返事は、僕には心地よかった。


「親には?」


星野はつぶれた牛乳パックを両手でもてあそびながら、ストローを食べ物のようにかんでいる。


「言ってないよ。そろそろ言おうかな。」


「お前の父さん、恐いんだろ?」


「こわいっていうかなんていうか、威圧される。」


「だよな。」


「うん。」


星野はストローを煙草の吸殻のように、地面に向けて屋上からはき捨てた。


だれかに当たるのではという不安が一瞬よぎったが、あたらなかった。


チャイムの音がする。


どこの学校でも流れてるであろう普通のチャイム。


空はさっきまでと違い、曇り空をひきつれていた。


見渡しても、嫌になるほど青く澄んだ空はもうどこにもない。


不気味に大きく膨らんだ、まがまがしくて黒い雲。


担任の小野田の淀んだ目の色と、曇り空とを重ねてみる。


ほほを雨がかすめた。


僕と星野は、小走りで屋上をあとにした。





塾からの帰り道。


電柱がどす黒い暗闇の中に潜んで、のっぺりと立っている。


夜の帳がおりた公園の横を、自転車で軽快にすぎていく。


こういうとき、僕は電線の上にびっしりと黒い鳥が止まってたらどうしようだとか、あそこを曲がった角に不審者がいたらとかを考えてしまう。


小さな小石をタイヤが踏みつけて、僕はグッとその振動をこらえた。


車輪の回る音が、夜の住宅街のBGMみたいに小さく流れている。


僕は最近塾に行くことが億劫になっていた。


講師がどうとかだれがいやとかではない。


じわじわとねちっこい疲労感がいつの頃からか僕に覆いかぶさっていた。


それはいやらしく僕を攻め続けた。


倦怠期を迎えた夫婦とかもこんな感じなのかな、僕はそう思うのだった。


自動販売機の横をとおりぬける。


ちらりとみると自動販売機の光に吸い寄せられて虫が何匹もくっついていた。


静まり返った家々の電気は消えてるところもあればついてるところもあった。


今もこの夜の世界にこんなにもたくさんの人の命があるんだな、と思った。


あそこの角を曲がれば家までまっすぐだ。


僕はややペースをあげてべダルを踏む。


角に近づく。


足元からギィギィと音がなっている。


角をまがったその瞬間ぬっと黒い影が現れた。


僕はかろうじてその影には当たりはしなかった。


「うわっ」と僕が言ったからかその人物もこちらを見ていた。


遠ざかりながら振り返ると、もうその人物は前をむいて歩いていた。


若干速くなった鼓動を落ち着かせながら、僕はペダルを踏みつけた。


家について、僕は玄関をよあける。


玄関には珍しく父の靴もあった。


小さな声でぼそっとただいまといった。


靴を脱ぎ、今のソファーにどすんと腰をおとした。


母と父がもうすでに食べ始めていたので僕もテーブルへと向かった。


ご飯は酢豚にポテトサラダ、たまごスープ、肉じゃがだった。


たまごスープは昔から僕の好物だ。


肉じゃがは昨日の残り物。


僕は一度の食事にサラダを二個出すのはどうなのかと思うのだった。


食器の音が無機質になっている。


僕はポテトサラダを口に運び、こっそりと2人の顔を見比べた。


この人がいるといつも食事が重くなる。


そう、僕の父親だ。


父は酢豚を食べ、めがねをさわり、また酢豚をたべ、ビールをのどに流し込んだ。


僕はその一連の動作を目で追っていた。


気づかれないように。


グラスをおく音が僕を威圧しているみたいに感じられた。


僕は視線をもどし、トマトをほおばった。


すると母さんがにんまり笑いながら、今日の学校はどうだった?ときいてきた。


母さんはいい親だった。


いつも暖かい笑顔を僕にむけて心をほんわかとさせてくれる。


でも最近は笑うと目じりによりいっそうしわがよるようになり、やはり人間は年には勝てないものなんだなと感じていた。


でもそれでも、母さんはいい親だった。


けれどもこの「学校どうだったの。」の質問にはいつも困った。


どの家庭でも使われるであろう、オーソドックスな質問。


だいたいそうそう特別なことなど学校ではふつう起きないのだ。


学校は机にすわっている時間がほとんどを占める。


そんな中何を話せばいいんだろうと、いつも答えにつまづくのだった。


ガッコウドウダッタ…、ガッコウドウダッタ…。


僕は母さんの言葉をリピート再生していた。


やはり最後は何々が面白かったなどという答えに落ち着くのだった。


「うん、面白かったよ。」


僕はそう答えた。


母さんはそうと相槌をうった。


本当は微塵も面白くは無い。憂鬱な気分のまま時が過ぎていっただけだった。


父はうんともすんともいわず、酢豚を食している。


僕は塾のことを言おうか迷ったが、のどの奥の方でそれをおしとどめた。


言うとまた面倒くさくなるからだ。


ごはんを食べ終えて、食器を片付ける。


食欲はなかったが、無理やり押し込むようにして胃いいれた。


ソファーに座ってテレビをつける。


おなかをさすると張ったような感覚があった。


テレビにはアイドルグループが映って番組の司会をしていた。


岸谷とかが喜びそうな内容である。


あのときに岸谷にいわれたイケメンという言葉が頭に浮かんだ。


イケメンとはなんて便利な言葉なんだと思う。


いろんな性格、性質をもつ人たちがこの世の中にはたくさんいるというのに、そのひとつの言葉だけでその人種を肯定できるのだ。


女という生き物は所詮容姿だけなのだろうか。


でもうちの父はイケメンではない。堀が薄くて癖の無い、普通の顔である。


母は父のどこを好きになったのだろうか。


僕は母に似た。


母に似てよかった、と思う。


グループの一人が特に面白くも無いことをいい、それで観客はドッと笑い出す。


父がとなりに座る。


僕との距離はクッション2つ分ほど空いていた。


僕は機嫌感を感じる。


なんで一緒に座るんだ。


興味がないなら見なければいいのに。


父は黙っていたがあるとき口を開いた。


「心、はやくお風呂に入ってしまいなさい。」


「わかってるよ。」


僕は不快になる。


命令するな、といいたくなった。


するどく尖った小さな脳天をつつかれ、そこから淀んだ気持ち悪い液体が心の中に広がったみたいな気分になる。


小さな抵抗の意思をみせつけるかのように、その言葉に不快感をにじませた。


僕はかごに服を乱暴に投げつけ、裸のまま浴室に入った。


みると昨日の水がまだたっぷりとたまっていた。


水に手をつっこむ。


ぬるい。


手を入れると水全体に振動が広がりはじめ水面に映る僕の顔がぐらぐらと揺れて、分からなくなった。


栓の鎖を握り締め、思いっきり引き抜いた。


とたん、魔物のいびきのような音が浴室に響きだす。


僕は水がぬけきるまでバスタブに腰をおとし、それを待っていた。


━真っ暗。


それは、僕が目を瞑っているから。


さきほどの不快感を忘れたくて僕は水の中にもぐっていた。


とおくのほうで水の音がゴボゴボ鳴っているようにきこえる。


蛇口から音を継ぎ足す音だ。


低い重低音が響く。


一瞬目をあけると、度の合わないめがねをかけているかのようになる。


鼻から泡がこぼれる。


あったかいお湯が僕の体をつつみこむ。


僕はあの感覚をおもいだす。


肉体と水面が分離し、不確かで透明な美しい容器みたいになったあの瞬間。


僕はいつだってあの感覚にとびつきたくなる。


なにもかも投げ捨てて汚いものを吐き出したい。


ゆるやかでのびやかな生命の線をたぐり寄せ、終わりにはすべすべなねんどの球体みたいになる。


それは魂。


魂は暗い世界の中でやがてはじけとぶ。


はじけとんだあとは唯一の光となってその世界を照らし続ける。


あとは命の光をきらきらと輝かせるだけだった。


しぶきをあげてお湯の中から頭をだし、その次に力の限り呼吸した。


髪をかきあげて熱いシャワーを満遍なく体に浴びせる。


うでをみると木の棒のように細い。


真っ白な体からうっすらと青色の筋が浮いていた。


僕は落ちていく水滴の粒をじっとみていた。





すごい速さで投げられたボールを、がっしりと腕で受け止める。


そのままの勢いで相手の陣営にボールを投げる。


僕らは体育の時間、ドッヂボールをしていた。


ボールは一度地面にあたってワンバウンドし、水島がそれキャッチした。


水島がそれを投げる際、コートサイドから女子の「がんばれホモー」という声が聞こえてきた。


こういうとき水島はどういう気持ちなんだろうと考える。


今は水島への嫌がらせはだいぶ無くなくなった方だが、昔はひどかった。


整列している最中にズボンを下げられたり、黒板に大きく「水島はホモです」と書かれたりしていた。


今では逆におおらかなその性格が受け入れられて、昔のような水島への行為は影をひそめていた。


小学生時代に水島と一緒だったやつらも、なんら昔のことなどなかったかのように接している。


人間とはこわいものだ。


鈴木がなげたボールが直撃し、僕は外野サイドへと走っていった。


体育の時間がおわり、給食の準備がはじまる。


しろい湯気がたちこめるなか僕ら給食係は汗をにじませた。


準備がおわり、いただきますの号令がかかる。


みんなが箸をすすめていると、あまったプリンをかけて男子たちがじゃんけんをしていた。


「いぇーい、俺の勝ちー。」


野球部の加藤だった。


毎日のごとくデザートやおかずをおかわりする、体育会系の男子だ。


給食の時間が終わり、昼休みの時間となる。


どう過ごそうか考えていると加藤と田中、鈴木がやってきた。


「よ。」


加藤にさそわれ保健室に行くことに。


保健室は基本的に具合が悪い人がいない場合、ふつうの生徒たちにも貸し出されていた。


それと、保健室のしょうこ先生がかわいいというのもあり、男子にも人気があった。


加藤が歯の模型をカチカチと鳴らしながら近づいてきた。


「やめろって。」


加藤は保健室のベッドにあぐらをかく。


「でもよぉしょうこ先生ってやっぱ美人だよなぁー。」


「おれ、先生と結婚しちゃおっかなー。」


「もう…やめなさいっ。」


先生は笑いながら言った。


そのとき、おなかをかかえた生徒が保健室の中へと入ってきた。


「はいっ、もうあんたたちはしっし。どきなさい。」


「ちぇっ。」


僕たちは保健室を出た。


しぶしぶ保健室をあとにした僕らは、居場所にすがるように廊下に背もたれながら話し出した。


「お前さ、平山のことどう思う?」


加藤がポケットに手をつっこんでしゃべりだした。


「え、どうって…。」


「あいつ生意気だよな、女のくせに。ちょっとオレ達がしめてやらなきゃいけねんじゃね?」


「でもよ、あのなんつーか冷たい感じがちょっといいよな?」


そのとき田中の顔が赤くなったように見えた。


「あ、もしかしてお前…。」


「そんなんじゃねーよ。バカじゃねーの。」


廊下で2人の追いかけっこがはじまる。


僕はそれを静かに静観している。


実際、平山の冷たい部分にすこし惹かれるものがあるのは、自分も一緒だった。


昼休みの終わりのチャイムがなる。


僕は自分のクラスへと駆けていった。





僕が早瀬との初めての性行為を成功させたのは、付き合って二ヶ月ほどたってからだった。


電話でよびだしたのは早瀬の法からだった。


今日は家に親がいないから家でデートしようとのことだった。


僕もなんとなくそういうことを期待しつつ家にむかった。


招かれた僕はまず、リビングのソファーに座った。


それからテレビをつけてテレビをみた。


内容はなんのへんてつもないうまらないワイドショーだったのを覚えてる。


2人とも飽きて、早瀬の部屋にいくことに。


そのとき初めて僕は早瀬の部屋、いや女の子の部屋というものに足を運んだ。


どこからか漂ってくる女の子独特の果物のような香り。


部屋の隅にはありふれたくまのぬいぐるみ。


僕はそのとき純粋に女の子の部屋というものに感動していた。


僕と早瀬はなぜか正座をして丸いテーブルを囲んでいた。


そして、ついに早瀬が口を開いた。


「しよっか。」


急激に頭が熱くなるを感じる。


しよっか、だって?僕はそんな経験いままで一度もしたことがないんだ。


それを何だ、まるで日常のささいな動作をこなすかのようにしよっかだって?


よく言えたものだ。


早瀬はベッドのカバーのしわを丁寧にのばしたりなんかしている。


あんがいこういう時って女の子のほうが冷静なのか?


僕もそのままの流れを押しとめることができずに、きていたシャツを脱ぎはじめる。


「はじめて?」


「う、うん。」


答えるのも恥ずかしかったが、そのときの僕はまともな思考回路をたもてておらず、その場の雰囲気にまかして口を開くのが精一杯だった。


「早瀬は?」


「私はいっかいあるんだ。」


「前の彼氏?」


「うん。」


「そう。」


ショックだった。


早瀬が他の男ともう既にしてるなんて。


男の薄汚いあれが、誰にも見せない、普段の生活では晒すことさえない秘部に、入り込んでいるなんて。


汚い男のそれを、ときには咥えこんだりしたんだろうか?


考えるときりがない程に不埒な映像が浮かんでくる。


僕の顔はもっと赤くなる。


「どうしたの?」


「ううん。なんでも。」


2人の間に濃密な沈黙が生まれる。


なにをすればいいんだろうか。


それとも何を言えばいいのか。


早瀬は下着から窮屈そうに谷間をつくっている。


目のやり場にこまって視線を移す。


どうしよう。


彼女のどお部分にまず手を触れていいかが分からない。


そんなことを考えてると、早瀬の手が僕の硬くなった股間に触れた。


「ちょっ、ちょっと。」


「なに?」


「やっぱまずいよ。」


「なにがまずいの?じゃぁなんでここにきたの?」


「それは…。」


再び早瀬の手が動き出す。


もぞもぞとその手はパンツの中に進入し、こしょばゆくそれをもてあそぶ。


なでていたのが早瀬はそれを握り、上下に動かしはじめる。



「っ!」


あやふやで気持ちいのか気持ちよくないのかよく分からない感覚に陥り、頭が真っ白になる。


上下に刺激されるそれは硬くなり、全身のすべてんほ血液がそこに流れ込んでいるかのように思えた。


早瀬の肌はうっとりするほど白い。


それをみて僕は余計に興奮する。


ぬめっとした感触が伝わり、みてみると早瀬がそれを咥えていた。


とめようとするが気持ちよさがそれを邪魔した。


ちろちろと僕の脳裏に顔を出す快感。


閃光のような一筋の感触が、僕の股間を刺激する。


口の中で舌をゆっくり動かしていたのが、急に速くなり上下に頭を動かす早瀬。


たまらなくなって僕は早瀬の頭を押さえつけた。


瞬時、湧き上がるような快感がこみ上げ、次の瞬間にはもう射精していた。


早瀬はそれを飲むのではなくティシュペーパーの上に吐き出して捨てた。


「飲まないんだ。」


「女の子はみんな飲むと思ってた?エッチなビデオの見すぎだよ、海野くん。」


僕はちょっと恥ずかしくなる。


「まだ出るよね。」


早瀬はベッドに仰向けになる。


早瀬の秘部と僕の秘部が向き合って、僕の顔は一気に赤くなる。


いよいよ挿入する。


ぬめっとした感覚が最初にあった。


吸い込まれる。


気持ち、いい。


解き放たれる快楽。


僕は気づいたら腰を強く振っていた。


「ちょっ、ちょっと。」


荒くなる呼吸。


早瀬の呼吸も、荒くなる。


こするほど、こするほど、快感は増幅していく。


早瀬の胸が生々しく揺れている。


「ちょっと、いたい!」


最後は頭を真っ白にさせながら、早瀬を抱きしめ、果てた。


終わってもまだ、快楽の波が僕の中でゆらゆらと揺れているのを感じていた。





「ごめんねー、散らかってるけど。」


丸山先生が台所から紅茶とクッキーを持ってきた。


丸山先生は中学時代の担任だ。


先生はとても優しくて、いつも生徒の悩みを親身になって聞いてくれる。


今日、先生の家を訪ねたのもある悩みを話したかったからだ。


先生の家。女性の部屋。


女の人の部屋にくるのは2度目だったけど、女性的で何かの果実のような匂いがした。


「インコ、飼ってるんですね。」


僕は籠に入れられてるインコを眺めて言った。


「そうなのよ、かわいいでしょ。最初はエサを食べなかったんだけど、今では食べてくれるようになったの。」


インコの毛並みは鮮やかな緑が入っていて、その上に黄色、淡いオレンジ、そして口ばしは赤色だった。


「ルリコシボタンインコっていうのよ。」


僕は紅茶を一口のみ、ティーカップをおいた。


「今日はどうしたの?」


僕は学校でいじめられている早川さんの事を話す。


そしてそれをただじっと傍観している自分が恥ずかしいということも。


丸山先生はただ静かに僕の話を聞いてくれた。


批判することも無く、ただ静かに。


僕が言い終わって、丸山先生は紅茶を一口飲んで間をつくった。


「海野くんは、その子のことが好きなんじゃない?」


「え?」


僕は一瞬戸惑う。


僕が彼女のことを好き?


そんな馬鹿な。


僕には早瀬という彼女だっているし。


でもなんでこんなに僕は動揺しているんだろう。


「好きだからほっとけないんじゃない?」


「え、いやでも僕には彼女もいますし。好きとかそんなんじゃ…。」


「そっか。でも懐かしいなぁ。」


「え?」


「私も中学の頃、海野くんと同じような立場だったときがあるの。


その子、本読むのが好きでいつも教室の隅で影のように座ってるもんだから、よくいじめの標的にされてたわ。


遠くからみるとなんかミステリアスな感じと影をまとった感じがあって、ちょっと憧れみたいなものがあったかも。」


憧れ…。


そうか、僕は早川さんに憧れを抱いているのかもしれない。


「私、勇気をもって話しかけてみたの。きっと私の方から友達になりたかったのね。


そしたらなんてことない普通の女の子だったわ。


それからどんどん仲良くなっていって彼女もちょっとずつ変わっていった。


好きなこととか興味のあることだとたくさん喋るし、中身は純粋で普通の女の子って感じかな。


表情も雰囲気も次第に明るくなっていってね。


彼女が変わることによっていじめは減っていったわ。」


僕は黙って丸山先生の話に聞き入っていた。


時々チラチラ、インコの方を見ながら。


籠の中をみるとインコは毛づくろいをしている。


「担任の先生には言ってるの?」


「担任の先生は見ず知らずという感じです。」


「そっかぁ。」


丸山先生はひとつ間をおいてから、


「海野君が彼女がいじめられてることで自分を責めることはないのよ。

だって海野くんは悪くないんだから。でもその彼女が心配ね。」


その日は担任の先生に相談するということで、僕は先生の家をあとにしたのだった。


━ギターの間延びした音が一定の間隔をあけてなっている。


僕は今谷口先輩の家にきていた。


時々こうして、ギターの弦が切れたら谷口先輩の家に行って、あとは張り替えるための弦だけを持って弦を張り替えてもらうのだった。


谷口先輩はバンドも組んでいて、もう何回もライブで弾いたりしているらしい。



谷口先輩は最後の6弦の音を確かめるように鳴らした。


「はい、できたぞ。」


「あざーっす。」


「たまにはライブハウスにもこいよ。ライブただにしてやっから。」


「はい、またきます。」


僕は先輩の家をあとにした。


その日の夕方、星野といるところを青山にみつかった。


僕と星野は青山に言われてスーパーに酒を買いに来ていた。


星野は手当たり次第、桃やら葡萄やらのイラストがのったチューハイの缶を買い物かごに入れていく。


支払いをすませた僕ら2人は青山のいる隠れ家に向かった。


隠れ家といっても、そこはボロボロになったマンションの廃墟だった。


その一室だけ汚されてなくて、部屋に自由に行き来できるので青山たちはよくそこに集まっていた。


部屋にもどると、青山とその取り巻きの不良たちがもうすでに中にいた。



「おい、おせぇーぞ。」


不良たちは袋から酒をつかんで、各々の場所に座りこんだ。


「おい、お前らも飲め。」


歯の汚い不良が僕と星野に勧めてきた。


「え、いや僕らは…。」


「いいから飲めって。」


いやとは言えずに、僕と星野はチューハイを口にしていた。


不良の一人が酒をあおり、そして語りだした。


「オレこのまえここで女とやってさぁ、そしたらすっごい寒いのな。」


「ゴムは?」


「バカ、したよ。」


くだらない話で不良たちは盛り上がってる。


やがて不良たちは気持ちよく酔い始めた。


星野と2人でそれをみていると、不良たちが酒を薦めてきた。


「いや、僕たちは…。」


「いいから、飲めって。」


否応なしに僕ら2人は酒をグビグビ飲まされる。


一気、一気、とそんな掛け声がかかるなか、朦朧としていく意識。


気がつくと僕と星野は何本も缶を飲み干していた。


ほっぺがほてって、頭がくらくらする。


僕と星野は廃墟の外で吐いた。


「ったくダセーなぁ。」


「おいてこーぜ。」


僕と星野は肩を担ぎあいながら、家へと戻っていったのだった。




僕が小学生の頃、早川のぞみとは同じクラスだった。


なので帰り道でもたびたび同じ道になることがあった。


でも大抵は恥ずかしくて声をかけたりはしなかった。


でも一度だけ帰り道に話しかけたことがあった。


そのときは小降りの雨が降っていた。


僕がいつもの道を歩いていると前方に早川のぞみが傘をさして歩いていた。


その時の僕はなぜか臆することなく不思議と緊張することなく話しかけることが出来た。


「ねぇ、いっつもこっちの方向だよね。」


「……。」


早川さんは黙って下を向いている。


それから僕と早川さんは何故か肩を並べて一緒に歩いていた。


「好きなアーティストとかいるの?」


「フィッシュマンとか?」


「そうなんだ僕も好きだよ。、どの曲が好き?」


早川さんは一時の間を挟んで、それから


「赤い夕陽。」


と答えた。


「へぇー今度借りれたら借りよ。」


「今、持ってる。」


「え?」


早川さんは鞄からそのCDを取り出した。


「いつもCDプレイヤーで電車で聴いたりするから、持ってるの。」


「へぇー、そうなんだ。」


「貸してあげる。」


「いいの?」


「うん。」


それから早川さんと僕はさよならを言って別れた。


僕にとってはいい思い出だ。


僕は無性に曲が聴きたくなってオーディオのスイッチを入れた。


ギターの純粋な音にのせて、叙情的な歌詞とともに展開されていく。


この曲をきいてると若者特有の初々しい感情や切ない痛みが走馬灯のようによみがえってくるようで、


黒くぬられた夜空のしたできらめく星達を眺めているような気分になる。


これを聴きながら僕は早川さんのことを考えてみた。


早川さんも辛いときにこの曲を聴いたりしたんだろうか。


早川さんは少しみんあと距離をおいて、どこか違うオーラを放っている。


僕はそんな早川さんに憧れているのだろうか。


気づくと曲は終わっていた。



黒い住宅街を、音を出来るだけ出さないようにして走り抜ける。


薄気味悪く電線が、黒い空に架かっている。


その横に感情無く電柱が突っ立っている。


黒い住宅街は僕を愚か者を見下ろすかのような冷ややかな目でみてくる。


僕はそれに耐えながら自転車のハンドルを回した。


家について、靴をぬぐ。


下をみると、父の靴が珍しくあった。


息をすっと吸い込み気持ちを整える。


テーブルにはもう2人が食事をはじめていた。


「珍しいね、帰ってたんだ。」


「今日ははやく終わったからな。」


父は愛想もそっけなくそう言った。


話しかけた後、父と久しぶりに会話した気がした。


重いものを一緒に降ろすように、椅子に腰を下ろす。


今日の料理はアスパラガスのゴマあけと里芋の煮っ転がし、マカロニサラダだった。


僕はとりあえず里芋の煮っ転がしを口にしてみた。


少ししょうゆ味が強すぎる気がした。


父はおもむろにビールの栓をあけ、グラスに注ぐ。


じりじりとした沈黙が食卓のまわりを囲む。


そんな中僕は思い切って口火を切った。


「あのさ…。」


父は視線を上にあげる。


「なんだ?」


父が聞く。


「その、やめようかと思って、塾。」


母も目を丸くしてこちらをみてきた。


「どうして?これから大事な時期に入るのに…。急にやめるだなんて。」


「やめたくなった。」


父は一度こちらに視線をやったきり、また食べ物を口に運び始めた。


「ねぇ、心ちゃん。もう一度ゆっくり考えてから…。」


「もう何度も考えたよ。」


一時の沈黙が漂う。


「ダメだ。」


父が口を開いた。


「どうして。」


「どうせまた遊びたいだの面倒くさいだの、そういう怠けからくるものだろ。こんな大事な時期に塾をやめるだの許さん。」


父の持つビール瓶がガンと音をたてる。


「もういいよ、言わなきゃよかった。」


僕は箸をテーブルにたたきつけて、自分の部屋へと戻っていった。


途中で「おい、心」という声もしたけど無視した。


どうせそんな返事がくると思っていたんだ。


期待して損した。


あぁ、こんな嫌な気分になるなら本当に言わなきゃよかった。


僕はそう思いながら部屋のオーディオのスイッチをいれた。


ケータイからなんの着信も無いことを確かめると、吸い寄せられるようにベッドへと倒れこんだ。



父への距離感は、昔は今ほど強くなかった。


まったく無かったといってもいいかも知れない。


だけど、ある日の事件を機に僕は父への機嫌感をいっそう深めることになる。


その日、僕は学校の帰りで街を星野と一緒に歩いていた。


するとそのとき、僕は見た。


自分の父が見知らぬ女と腕を組んで歩いているのを。


僕は星野と別れを告げ、そのまま父の尾行を開始。


父と見知らぬ女はそのままホテルへと入っていった。


そのまま僕はショックのまま家に帰った。


ショックで毛布にくるまって父の帰りを待った。


ドアの音がする。


父が帰ってきたのはそれから2、3時間経った後だった。


母さんがご飯の準備をしていて、父はテーブルに座って新聞を読んでいた。


そこにいきなり登場した僕は、父親の胸倉をつかんでこう追及した。


「なんなんだよ、今日の女は!なんとか言ってみろよ、おい!」


「なっ、なにをする!」


驚いた母はすぐにとめに入った。


「やめなさい、心!どうしたってゆうのよ!」


「こいつは母さんの知らないところで!知らないところで!」


その日の事は母にも知れ渡り、以後父は反省をしたということで事件は決着をみた。


でも僕にとっては解決されてない。


あの日以来僕の心には父親に対する機嫌感が募る一方だった。


━ある休日。


家でのんびり過ごそうかと思っていると、一本の電話が鳴った。


「はい、もしもし。」


「あのさぁ、青山だけど。急いで街まできて。」


「う、うん。」


青山に誘われたときというのは、大抵断ることはできない。


断ったらきつい制裁が加えられることは容易に想像ができる。


ということで今僕は街のカフェの前にいた。


待っていると星野も来た。


「なんだろな。」


「さぁ。」


さらに待っていると、青山とその取り巻きたちが来た。


「よ。」


僕と星野は青山がついて来いというので、導かれるまま歩いていく。


青山はちょっとこじゃれたCDショップの前で立ち止まった。


「この店からCDを盗んで来い。見張りはオレ達がやるからよ。」


「え、でもっ…。」


「いいから、出来るよな?」


逆らうことも出来ず、僕と星野はCDショップの中に入った。


カウンターにはちょび髭を口の周りにはやしたストリートファッションに身をつつむ男が一人いた。


「どうするの。」


僕は星野に小声で耳打ちをする。


そのときカウンターのちょび髭男がこちらをチラリと見てきたので、僕と星野は互いに別々のところに視線をうつした。


「やるしかない。」


星野はそういった。


「ばれたらやばいよ。」


また小声でいう。


すると星野は青山から渡されていたバッグにおもむろにCDを入れ始めた。


「いそげ!」


星野のかけごえとともに店を出て、走る僕ら。


それにあわせて、ちょび髭男も猛ダッシュで駆けてきた。


店の前にいた青山たちとともに急いで走る。


だいぶ突き放した後、ちょび髭男が何かを叫んでるようにきこえたが何を言ってるか分からなかった。


「やればできんじゃん。」


そういって青山は星野からバッグを奪い取った。


青山はニヤリとニヒルな笑みを浮かべていた。




016-03-26 12:07:48 | 日記

僕と僕の母は学校に呼びだされ、担任の小野田、そして生徒指導の村田と向き合っていた。


この前のCDショップの万引きの件である。


青山たちは近隣で有名な不良グループなため、身元の学校はばれていた。


それであのちょび髭店員が電話したんだろう。


その面談はもうしないようにということで終わった。


一回目だから特別に警察には連絡しないらしい。


部屋をでてドアを閉める。


ドアの前には星野とそのお母さんの姿があった。


僕と母さんは会釈をして、その場を去った。


帰り道、母さんは自転車をおして夕暮れに照らされた坂道をのぼっていく。


「母さんね、人に迷惑だけはかけてほしくないの。心には。」


「うん。」


僕はうんという他、思い浮かばなかった。


そしてなんだか切なかった。


━体育のとき。


バスケをみんなでしているときのこと。


天野がリングにシュートを決めるごとに黄色い声援がなる。


天野はバスケットボール部に所属していて、女子から人気があった。


顔も整っていて、スポーツも万能。勉強もそこそこ出来る。


身長も180センチを超えている。


僕は勝手に天野を爽やか系と分類している。


僕は比較的どの系統にも属さない、普通系だ。


爽やか系と体育会系は似ているようで違う。


体育会系はスポーツが得意か否かだけであって、女子に人気があるかは問わないからだ。


体育会系は汗臭いイメージがあるが、爽やか系はまったくま逆で、汗をかく姿さえ爽やかなのだ。


僕は勝手にそういうイメージ像をもっていた。


その日の放課後、たまたま天野と一緒に帰ることになった。


駅のホームで僕と天野はベンチに座りながら喋っていた。


「うらやましいよ、天野が。」


「え?何でよ。」


「何でって。モテモテじゃん。」


「そうかな。」


「そうだよ。とぼけるなよ。」


「とぼけてないって。」


目の前を薄汚い汚れたホームレスが横切った。


「俺はお前のほうがうらやましいよ。」


「え、何で。」


「早瀬なな、かわいいじゃん。」


「そこ?」


「うん。なんか似あってるよ、海野と。俺なんかさ、月に3回くらい女子から告白されるんだけど、なんかこうパッとするのがいないのよ。


okしたとしても続かないし。」


「僕と早瀬が似合ってる?そうかな。」


「そうだよ。」


「そうかな。」


気づくと電車がやってきた。


ものすごい速さで微風を巻き起こしながら、電車は停車した。


僕と天野は割りと空いていた列車にのりこんだ。


「世の中にはさ、さっきいたみたいなホームレスだっているし、モテたくてもモテない奴だっているんだぜ。


そんななかその恵まれたスペックで生まれてきたことに感謝したほうがいいよ。」


「ときどきさ、どっかから突然吹き矢で打たれて殺されんじゃないかって思うんだ。」


「え、なんで。」


「お前の人生そこまでーってさ。」


僕は口をつぐむ。


「もてたいのか?」


「ちょびっと。」


「はは。」


天野は笑った。


「なに。」


「お前、欲張りだよ。あんなにかわいい彼女がいて。なぁ、もうやったのか?」


「そんなの教えないよ。」


「ちぇっ。」


天野はつまんねぇーのと言って、iphoneをいじりだした。


僕は先ほどから同じ列車の女子学生たちの視線をチラチラと感じていた。


なにか天野と一緒にいることによって、僕の存在価値そのものも引き上げられているように感じた。


僕には上・中・下という価値観がある。


その上・中・下というのは人間関係においてである。


簡単に説明するならば、スクールカーストの上にいるか下にいるかということである。


上は天野のような人気者、中は僕のような普通系、下はがり勉や本を読むのがすきな人たち。


この下に属する人たちがよくいじめを受けたりするのである。


この下のラインから下に行かないように、教室ではいつも水面下でのしのぎあいが繰り広げられているのである。


そんな恐ろしいところに毎日通学しているのかと思うとゾッとする。


「星野と仲よかったよな。海野。」


「ん、あぁ。」


天野はいきなりそう話しかけてきた。


「俺、あいつ苦手なんだよね。」


「え、何で。」


「なんかさ、なんとなく。」


「なんだそりゃ。いい奴だよ。星野は。」


「それは分かるんだよ。でも、なんか苦手なんだよな。なんでだろ。」


天野の停車する駅につき、僕と天野はそこで別れた。


僕は視線を窓の外にやり、矢次はやに移り変わる窓の外の景色を、ただじっと眺めていた。




春が終わり、だんだんと夏が顔を出そうとしていた。


星野と屋上でグラウンドを眺めている。


「あれから親父さんに塾のこと言ったのか?」


「言ったよ。」


「どうだった。」


「それから口きいてないよ。塾にも行ってない。」


「ありゃま。」


星野は相変わらず給食の牛乳をチュウチュウと吸っている。


そして飲み終わるとぺしゃんこに牛乳パックをつぶし、ストローを駄菓子のように噛みはじめた。


「この前天野と一緒に帰ってさ。やっぱ違うね、人気者っていうのは。人気者オーラが身体から出てるもん。」


「なんだよ人気者オーラって。」


星野は笑う。


「人気者にしかだせない特別な雰囲気?みたいな。」


「なんだそりゃ。」


星野のことを苦手といっていたことを思い出し、言おうか言わまいか迷ったけど、言わないことにする。


「この前さ…。」


星野が口を開く。


「道路の脇で、猫が死んでたんだ。」


「え。」


「車に轢かれたんだろうな。血と一緒に内臓みたいなのもでててさ。かわいそうだったよ。」


「それで?」


「近くの公園に埋めてやったよ。せめて俺ができるのはそれくらいかなって。」


「そっか。」


星野の噛んでいるストローはするめいかのようにくしゃくしゃになっている。


「なんかもっと明るい話はないのかよ。猫が死んでた話とかじゃなくてさ。」


「明るい話かぁ。」


星野はいったん考え込んで、


「無い。」


といった。


「無いのかよ。」


グラウンドではサッカーをする生徒たちの姿がみえる。


きっと加藤や田中たちも加わっているのだろう。


「今日青山から廃墟にこいって電話があったぞ。」


と、星野。


「え、マジで。面倒くさいなぁ。」


「俺もだよ。なんか言われるかな。」


実はこのまえの週もよばれていたのが、面倒くさくて僕と星野は行かなかったのだ。


「今日は行かないとやばいだろうなぁ。」


後ろのほうでドアが開かれ、星野と2人して振り向くと、弁当を食べに来た女子生徒が2人いた。


星野と僕は向き直る。


「早川さんはどうよ。」


「どうって?」


「相変わらず嫌がらせされてるよ。平山たちに。」


「そうかー。なんか昔の先生に相談しにいったとか言ってなかった?」


「うん。小学校の頃の丸山先生。女の先生で優しいんだ。」


「きれい?」


「うん。」


「で、どうだった?」


「担任に相談しようってことで終わったけど、小野田じゃあてになんないよ。」


「あー、だもんなー。」


そのとき、星野と僕は背後の気配に気づき、振り向いた。


そこにはさっき屋上に入ってきた女子生徒2人、村上と斉藤だった。


2人とも顔は知ってるけど同じクラスではない。


特に斉藤とは小学5年生くらいのころに同じクラスだったので、何回か喋ったことはあった。


「よー、星野。」


村上が星野をおちょくってきた。


「なんだよ、のっぽ。」


村上は女子の中でも背が高く、星野と同じ、それかちょっと下くらいだった。


「うっせー、はげ。」


「はげてねーから。」


「今ははげてなくても年取ったらはげるでしょ。」


「うちの家系はハゲない家系なんでね。」


「あらそーですか。」


僕は星野と村上のくだらないやり取りを傍目で見ていた。


「ねぇ海野くんていっつも星野といるよね。親友なの?」


村上が僕に聞いてきた。


僕と星野は互いに顔をみあう。


「あーもしかしてそういう関係?」


「ちがっ…。」


「ちがうっつの。」


僕が喋ろうとしたけど、それをさえぎって星野が否定した。


「あらーじゃぁお邪魔でしたわねー。ごゆっくりー。」


村上と斉藤は去っていった。


「ったくちがうっつの。」


また静けさが戻り、僕と星野はグラウンドをみつめる。


「でもさ、村上っておっぱい大きいよね。」


ぶっと星野が吹きだした。


「え、お前あんなのがいいのかよ。ななちゃんがいるだろ。ななちゃんが。」


「そうだけどさ。」


しばしの沈黙があたりをつつむ。


「じゃ、行くか。」


「うん。」


そういって僕と星野は屋上をあとにした。




時刻は夕刻。


廃墟にいくと、暗闇に潜んで何人かに囲まれて人が倒れているのがみえる。


みるとそれは星野だった。


かけよると、星野には殴られたり蹴られたりして傷ができていた。


「おせーよ、海野くーんっ。」


「なんでこの前こなかったんでちゅかー。」


「ごめん、忘れてて…。」


「言い訳は通用しまっせーん。」


一刻でもはやくこの場から逃げたい、そう僕の危険センサーが叫んでいた。


「罰として、どっちかが今からオレ達の前でオナニーしろ。」


「えっ。」


「え、じゃないはやくしろ。」


僕ら2人がもたついていると、青山が口をひらいた。


「じゃんけんしろ。じゃんけんで負けたほうがやれ。」


言われるがままじゃんけんをする星野と僕。


結果、星野がやることに。


星野はズボンをぬいで、自分のそれを手で上下に動かしはじめた。


僕は見てられず目をそむける。


「ほらほらー、気持ちいでちゅかー。いっちゃいそうでしゅかー。」


取り巻きの不良たちが煽り立てる。


事が終わり、星野はズボンをはきなおした。


「分かったか。お前らは俺らの奴隷なんだよ。だから逆らおうなんて妙な気を起こすなよ。」


不良の一人がそういって青山達は廃墟をあとにした。


「星野、…大丈夫?」


星野は何も言わず、地べたに座ったまま、ただじっと黙っていた。




━僕と星野は噴水の前で待っていた。


「遅いな。」


「うん。なんか緊張してきた。」


「緊張すんなって。リラックスリラックス。」


「そんなこといっても。」


今日は星野と、僕、早瀬と香月梨穂とでダブルデートの予定だった。


香月は星野と同じクラスで、最近付き合い始めた。


「にしても星野が香月となんてなー。」


「なに。」


「いや別に。」


僕は笑ってごまかした。


すると人ごみをかきわけ、早瀬の姿がみえた。


「しんちゃーん。星野くーん。」


その後ろには恥ずかしそうに隠れる香月の姿もあった。


「ごめんね、遅くなって。じゃあ行こっか。」


「どこ行く?」


と星野。


「うーん、そういえば決めて無かったね。」


「じゃあ美術館なんかどう?」


僕はそう提案する。


「いいね、早瀬さんと香月は?」


「わたしはいいけど…。」


「いいよ、別に。」


「じゃ、美術館に決まりで。」


僕たちは美術館に向かって歩き出した。


早瀬と香月は2人で前を歩いて、僕と星野は後ろでついていく。


早瀬が何かをいって、香月はもう違うってーと笑いながら言っている。


「なぁ、これってダブルデートっていうのか?」


と星野。


「どうだろね。」


すると早瀬が振り向いて星野に話しかけた。


「星野くんって梨穂のどこを好きになったんですかー?」


早瀬はわざと敬語できいてきた。


「んー、清楚なところ?」


それを聴いた香月の頬が一瞬赤くなったように見えた。


それは後ろから見ていても分かるほどだ。


それはさておき星野も星野でよく堂々と本人の目の前でそんなこといえるな、と思った。


「ひゅーひゅー、熱いねー。」


と早瀬ははやし立てた。


僕たちは一度信号をわたり、そして歩道橋の上を渡りだした。


まわりでは慌しく車が走っている。


僕たちはしばらく歩いて、美術館につく。


入場入り口で入場券を買って中に入る。


中にはさまざまな作家の絵が飾られてあった。


モネの「日傘をさす女」ジャンフランソワミレーの「羊飼いの少女」ピカソの「青の時代」。


そんななか、ひときわ僕の目をひく作品があった。


それは「夜の海」というタイトルで、作者は不明とかかれてあった。


夜の海に浮かぶ小さな小船が満月の月の光に照らされている。


海は青黒く漂い、静かに揺れている。


僕はその絵に吸い寄せられるようにみいった。


絵からは、今にも音が聞こえてきそうだ。


気づいた星野が僕の隣に立ってその絵をみつめた。


「気に入ったの?」


「うん。」


「海野、センスいいな。」


星野はそれだけいって別の場所へと歩いていった。


作者はどんな思いでこの絵をかいたのだろうか。


暗く心に何の希望ももてない、暗澹とした思いで書いたのだろうか。


いや、きっと違う。


根拠はないけど違うと思った。


これからはじまる希望の道を一筋の光が象徴して、そしてそのまわりで静かに、見守るように海が揺れている。


それはどんな暗闇にもわずかな光を見出す作者の思いがこの絵に表れている、そんな気がした。


僕らは美術館をはなれ、わりと近くにあったカフェテラスで休憩することにした。


「どうだった?美術館。」


と星野が香月にきく。


香月はうーん、微妙とこたえてスムージーを口にした。


「微妙って。それだけ?」


「うん、それだけ。」


「あれだけたくさんの絵があって、あれだけたくさんの作者がいて、それだけ?」


「うん、それだけ。」


「そっか。」


星野もそういってカフェラテに手をのばした。


そのやり取りをみて僕と早瀬は笑った。


「なんか星野くんと梨穂ってお似合いね。」


「そうかな?」


と星野。


「うん、梨穂はさっぱりしてるし、で星野君もなんかそれにちょうどよくフィットしてるってゆうか。」


「フィットって……。」


星野は苦笑した。


僕はその会話をききながら、美術館でみた名も無き作者のあの夜の海の絵を思い出していた。


自分でも意外だったけど、ここまで絵画にすいよせられる体験をもったのは初めてだった。


あの絵には、どことなくいい雰囲気がただよっていて、なおかつ海の神秘性、恐ろしさをうまい具合にかもし出していると思った。


カフェを出て、僕たちは歩き名がら次の行き先を決めた。


「次はどうする?」


「僕、考えがあるんだけど。」


と僕は口を開いた。


「文化センターにいってプラネタリウムをみるっていうのはどう?」


「今日は文化の日かなんかかよ。」


と星野がこぼす。


「いいね、ロマンチック!」


と早瀬は言った。


そういうわけで僕たちはバスにのって文化センターに行くことにした。


バスにのること15分。僕らは文化センターについた。


文化センターの入場料は、子供100円、大人300円だった。


僕らはひとりづつ300円を払った。


中には原始人の生活の跡とかが、模型を通して紹介されてたけどスルーして僕らはプラネタリウムのコーナーへと向かった。


中に入って席にすわる。


土曜日ということもあってか人は多かった。


あたりが暗くなり、プラネタリウムがはじまる。


案内のお姉さんが説明をしながら、真上に白い星たちが浮かんでいく。


星野はおぉ~すげぇーとか言ってる。


よくみると星野と香月は手をつないでいた。


星野もちゃっかりしてるなと思った。


僕もつなごうか迷ったが、性に合わないとおもってやめた。


早瀬をみると、目を大きく開き、キラキラさせながらプラネタリウムを眺めていた。


今日もかわいいな、と僕はふと思った。


早瀬から目線を上に移す。


今はちょうど夏の大三角の説明がされてるところだった。


僕は心とプラネタリウムの黒い夜空が一体になるような感覚を覚え、目を閉じた。


僕は星野に起こされて、気がつくとプラネタリウムは終わってた。


僕らは文化センターを出て、別れを告げ、それぞれの帰路についた。





学校の昼休み、僕らはいつものようにまた保健室の前の廊下で加藤、田中とある女子生徒についての噂話をしていた。


「平山ってよぉ、あれやってるらしいぜ。あれ。」


「あれってなんだよ。」


「エンコーってやつ?」


エンコー?


僕は耳を疑った。


あの平山が援助交際をしているというのか。


「まじかよ、やべーじゃんそれ。」


「しかも相手はおじさんだってよ。」


「まじかよ。」


昼休みの終了のチャイムが鳴って僕らは教室へともどる。


その日も授業が終わって、僕は帰りに星野とゲームセンターで遊んでいた。


「じゃあな。」


「うん。」


星野と別れて、街の人ごみの中をかわしながら歩く。


ふとみなれた制服が目にとまる。


それは制服姿の平山みずきだった。


(どうしてこんなところに。)


その瞬間、加藤と田中が言っていた「エンコー」の文字が頭によぎった。


平山は人ごみのなかをさっそうとかきわけながら歩いていく。


僕はなぜかそれを気づかれないように追い始めた。


時々見失いそうになりながらも歩くスピードをはやめてついていく。


ストーカーみたいな行為に後ろめたさを感じつつ、興味につられあとをついていく。


あの平山が、教室でえらそうにしている平山が脂ぎったおじさんの前で股をひらいているっていうのか?


僕にはにわかに信じられなかった。


ついたさきは一軒のホテルだった。


ホテルの前で携帯を片手に平山は、何者かを待っている。


10分くらいたっただろうか。


ひとりの若いサラリーマン風の男が平山に近づいていく。


うそだろ。


あの平山が。まさかそんなこと。


男はどんどん平山に近づいていく。


嘘と言ってくれ、嘘と言ってくれ。


男は手をあげ平山にむかって軽く挨拶をした。


そして平山の肩に手をやり、ホテルの中へと消えていった。


僕はまずい現場をみてしまったと思った。


加藤や田中の言っていたことは本当だったんだ。


その30分後、平山は意外にもはやくホテルから出てきた。


サラリーマン風の男も一緒だ。


男はその場で財布を出し、そして何枚かの札を平山に手渡した。


平山はそのばでその札を数えて、そしてなにも言わず男と別れた。


(やばいこっちにくる。)


平山はこちらに向かって歩いてくる。


僕は身をかがめて壁にかくれる。


だけど僕は案の定平山に見つかってしまった。


「や、やあ。」


僕は平山の機嫌をうかがうかのようにとりあえず挨拶をした。


「なにしてんの、こんなとこで。もしかしてずっとつけてたの。」


「ごめん。」


「信じられらんない。最低。」


「だって加藤のやつらが平山がエンコーしてるとか言うから……。」


「だからなに。あんたには関係ないじゃない。」


「そうだけど……。ごめん……。」


「先生にちくったら殺すから。いい?」


平山は僕の肩をどんと押していった。


「それともわたしとやりたいの。」


「え。」


僕は顔を赤くする。


平山の目は今日も鋭くて、冷たい。


そしておまけにこれでもかというほど僕を威圧感たっぷりの目でみてくる。


僕がなにも言わずだまっていると、


「とにかく誰にもいわないでよね。分かった?」


「うん。」


平山は去っていった。


僕はその場にどてっとしりもちをついて、そっと胸をなでおろした。





バンと落書きされたノートがたたきつけられる。


またか、とクラスの全員がそれを遠く離れたところで見ている。


早川さんは静かに何も言わずただそのノートをかがんで拾う。


平山はそのノートを手ではたいた。


再び地面に落ちるノート。


「あらごめんなさい、手がすべっちゃって。」


女たちは笑う。


そこに小野田がドアを開け入ってくる。


生徒はそそくさと自分の机へともどっていく。


早川さんもノートをひろって一足遅れて机に戻った。


小野田が一度ちらりと早川さんの方を見た気がしたが、またすぐ視線をもどした。


その日の授業は終始いたたまれない気持ちで進んでいった。


帰り道、久々に早川さんが目の前を歩いていた。


はなしかけようか、話しかけまいか迷う。


そして数年前の恥ずかしさを知らなかった小学生時代のように、勇気をもって話しかけようと決意した。


「早川さん、だよね。」


わかりきっているのに僕はそう確認した。


「海野くん?」


早川さんは耳にはめていたイヤフォンをはずして、僕の顔をみた。


「なにきいてたの?」


「なにって…今はフィッシャーマン。」


「あぁ、いいよね。」


早川さんは答えない。


僕と早川さんは数十秒間、何もしゃべらず隣り合って歩いた。


それを打開するため僕はまた口をひらく。


「前さぁ、覚えてる?小学生のころもいつかこんな感じで…。」


「うん、覚えてる。」


早川さんは小さくそう答える。


僕は会話が途切れないようにそこからまた口を開く。


「僕さ、あのとき早川さん、フィッシャーマンのCD貸してくれたよね。感謝してるんだよね。早川さんには。だってそのおかげで僕も好きになったし、他のアルバムだって買ったしさ。」


「そうなんだ…。」


早川さんは元気なくそうつぶやいた。


なんとなく気まずい空気が流れる。


僕は思い切って踏み出した話題にてをだした。


「早川さんさぁ、…平山たちにいじめられて、辛いとか思わないの?」


「……。」


「もし辛いなら、相談とかくらいならのってあげられるかなーなんて…。」


「同情してるの?」


「え?」


「同情なんかいらないから!それにわたしのことはほっといて。わたしのことはわたしで解決するから!それじゃ。」


早川さんは強い口調でそういって、そして走っていった。


そのことを丸山先生の家ではなすと、


「そっかー。でもやったじゃない、ファーストコンタクトは成功よ。

でも心を開くには時間がかかるのかもね。」


「時間かー。」


僕は先生にだされた紅茶を一口のんだ。


「今度は好きなアーティスト関連で話をもっていって、cd貸してみたりっていうのはどうかしらね。」


丸山先生はせんべいの袋をあけながらそういう。


「cdかぁー。でもやっぱりもういいです。早川さんには早川さんの世界があるし、早川さんからもほっといってっていわれたし。」


「うーん、そうねぇ。本人が辛くないのならそっとしてあげるっていうのも手かもね。でも内心はきっとさびしいはずよ。」


これといった打開策などは見つからないまま、僕は丸山先生のアパートを後にして、帰りの電車に乗った。


家につき、食卓につく。


父とはいっさい話をきかぬままご飯を食べ終え、僕は自分の部屋へと戻っていった。


その次の日の休み時間、僕は同じクラスの中島から相談をうけた。


中島俊。


中島は普段いつも加藤たちとつるんでいたが、部活動には入っておらず、どちらかといえばグループ内では影のうすい存在だった。


「早川さんに告白?」


「シーッ、声がでかいって。」


僕と中島はトイレでひそひそと話し合っていた。


「あの影をおびた感じが好きなんだよ。」


「そ、そうなんだ。」


僕はなぜだか複雑な気持ちだった。


「そこでさ、ひとりじゃ心細いから一緒にいてほしいんだよ。な、たのむ。このとおり!」


中島は頭のまえで手を合わせてたんできた。


「別に、一緒にいるだけならいいけど。」


「ほんとか!わりぃ、恩に着る!」


そういうわけで今、僕と中島は放課後、体育倉庫の前で早川さんを待っていた。


「あ、きた!」


中島がそう叫ぶ。


「なんですか。」


僕と早川さんは一瞬目があって、そして互いに視線をそらした。


「あのさ、この中島が早川さんに手紙を渡したいらしんだけど…。」


中島は背中にかくしていた手紙をそっとあらわにした。


そして何もいわず手紙を差し出した。


それを受け取ろうとする早川さんの手を、遠巻きにそれを見つけた平山たちの声が止めた。


「なにしてんの、あんたら。ひょっとして告白タイム?」


平山たちは笑いながら近づいてきて、そして中島の手紙をバッと奪い取った。


「やめろって、返せよ。」


「早川さんのその静かな佇まいと気品あふれる雰囲気に、僕は恋をしてしまいましただってー。だっさー。」


中島は手紙を奪い取ると、その場から走って立ち去った。


早川さんも「用が無いなら帰ります。」といって帰っていった。


それ以来、しだいに中島は学校に顔をみせなくなり、しまいには来なくなった。


黒板に早川さんと中島の相合傘がかかれたり、中島が早川さんに手紙を渡そうとしたという噂が、平山たちによって一気に広められてしまったからだ。


一方の早川さんは普通に学校に来ていた。


僕はその日中島の家に、担任の小野田に頼まれてプリントを届けにいった。


中島の家は住宅街のなかにある一軒屋の結構大きい家だった。


柵越しにチャイムを鳴らす。


インターフォンで中島の母さんらしき人物が応答した。


「あの、同じクラスの海野ですけど…。プリントを。」


「あぁ、俊のお友達ね。フェンス開けて入ってきていいわよ。」


僕はフェンスを開けて庭に入っていく。


庭には中島の父さんの趣味だろうか、いくつもの盆栽がならべらていて、お花もたくさんさいていた。


待っていると、ゆっくりとドアが開く。


「いらっしゃい。」


「じゃ、僕はこれで。」


「せっかくだから俊に会ってあげて。あの子どうも元気なくて。きっと喜ぶとおもうわ。」


「は、はぁ。」


僕はいわれるがまま中島の部屋まで案内される。


中島の家に入るのははじめてだった。


「中島、入るよ。」


入ると、中島はこちら側に背をむけるようにベッドに横になっていた。


部屋をみわたすと、プレステ3があったり、フィギアが並べらていたり、ギターが飾られてあったりと、何てこと無い普通の男子の部屋って感じだった。


重い空気が部屋のなかに充満してるようで、僕はそれを振り払うべく口を開いた。


「なんで学校こないの。」


「……。」


中島は黙っている。


「みんな待ってるよ。」


「待ってねぇよ。」


はじめて中島が口をひらく。


「どうせ学校の奴らは加藤や田中の金魚のフンがいなくなっただけっていう認識さ。それに行ったら行ったで平山たちにコケにされるんだ。」


僕は返す言葉が見当たらなかった。


「来いよ。中島。」


僕はそれだけいって、中島の机にプリントがはいった封筒をおき、中島の部屋をあとにした。


「ごめんなさいね。わざわざ、また遊びにきてね。」


中島のお母さんは丁寧に玄関まできて見送ってくれた。


だけど中島の家にまた遊びにくることはもうないだろう。


だって中島とはそこまで親しい仲ではないから。


今日プリントを持ってきたのだって僕の意志じゃなく小野田に言われたからだ。


中島が学校に来ようが来なかろうが、たいして僕に影響はないのだ。


残酷だけれど。


でもそれは僕も同じこと。


僕が学校に行かなくたって、加藤は喋り相手が少し減った、くらいで済ませるだろうし、他の奴らにだってたいして影響はない。


残酷だけれど。


早瀬や星野なら、少しはがっかりしてくれるかもしれない。


僕はなぜだか中島に学校に来てほしかった。


だから最後にああいうふうに言ったのかもしれない。


僕はそんなことを考えながら中島の家をあとにした。




クラスでは今、道徳の時間の自習としてクラス内での人間関係で悩みなどはないかという議論をしていた。


中島の席をみるとポカンとそこだけ空席だった。


重い空気の中、だれも言葉を発しようとしない。


なにか目の前にある問題にわざと目をそらしているかのように。


そのとき天野がふいに口をひらく。


「中島がこなくなったのって、本当に平山たちのせいなのか?」


クラスの中はざわざわとどよめきはじめる。


「は?なんであたしたちのせいなんだよ。」


「別にまだ決め付けたわけじゃねーけどよ…。」


平山のすごみのきいた言い方に天野も少し引き気味になる。


「でもそうだろ。お前らのせいで中島はこなくなったんだろ。」


「は?なんでそんなこといえるんだよ。」


平山は言い返す。


「中島のラブレターをとりあげてお前らがばらしちまったせいで中島は来なくなったんだろ。なぁ海野。お前もその場にいたんだろ?どうなんだよ。」


と加藤が僕になげかける。


「え、…僕は。」


僕が口ごもっていると、加藤は立ち上がって声を張り上げた。


「お前らが早川さんをいじめてんのみんな知ってんだよ。」


教室内は一瞬静かになり、クラスの全員の視線が早川さんにうつった。


するとそれをきいた男子の沢村が


「かっこつけんなって。ヒーローきどりかよ。」


「は?」


加藤が沢村の机をけり険悪なムードが漂う。


沢村が立ち上がり、加藤とにらみ合う。


「やんのかよ、おい。」


「あ?調子のんなよおい。」


それを見ていた平山たちがやれやれーと煽る。


沢村は加藤の胸倉をつかんで机を押し倒しながら加藤を教室の隅においやった。


女子たちの悲鳴が響き渡る。


加藤も黙ってはおらず、沢村の頬を思いっきり殴打した。


沢村はそばにあった椅子をもってあたりに投げ飛ばした。


加藤も椅子を投げ飛ばす。


それを止めに入る天野。


教室内は大乱闘となり、とめにはいった天野までぶっとばされた。


僕はそのときなぜか無性に怒りがこみあげてきた。


沢村と取っ組み合う加藤の顔を思いっきり殴る。


「海野…。」


加藤はしりもちをつき驚いた顔で僕を見上げている。


教室の外も外野で騒がしくなり、やがて小野田が入って止めにきた。


「何やってんだ。お前ら!海野、加藤!沢村!天野、全員職員室にこい!」


教室には震え上がる女子たちと、そして無残に散らかされた椅子と机だけが散乱していた。





その夜、僕はまた奇妙な夢をみた。


それは前回の続きから再開された。


檻の中には、頭が頭がブタで、胴体がカエルというなんともグロテスクな生き物が入っていた。


なにもしてないのに檻の扉がひらかれ、僕は「うわぁ」といってその場から走り出した。


ブタとカエルの化け物は、すごいスピードで追ってくる。


「うわぁ、だれか!助けて!」


僕はひたすらに叫んだ。


だけど助けなどくるはずもない。


気づくと何故か僕は森のなかにいる。


森のなかをひたすら走り続ける。


途中枝にあたって小さな傷を体につくりながらも、一心不乱に走る。


すると突然僕は落とし穴におちた。


どんどんどんどん落ちていく。


するするするすると、テーマパークのウォータースライダーのように落ちていく。


おちたさき、そこはお花畑だった。


「どこだここは?」


色とりどりの花が鮮やかに咲きならんで風光明媚な景色が広がっている。


いい気分にひたりながら歩いていると、花畑のなかでひとりの少女が背中をむけでしゃがんでいるのがみえた。


「なにしてるの?」


僕がきくと少女はふりむく。


ふりむくと、少女はのっぺらぼうだった。


僕の夢はそこで途切れた。


起きると息も上がって、体はぐっしょり汗をかいてる。


ベッドからおりて、階段をおりて台所にいきグラスに水を注いだ。


真っ暗な台所のなかで一気に水を飲み干す。


グラスを置く音がこつんと響く。


水滴のおちる音がぽつぽつと一定の間隔をたもってなっている。


それが暗い台所の不気味さをよりいっそう引き立てている。


額の汗をぬぐうと手の甲はびっしょりとぬれていた。


なぜ奇妙な夢をみるんだろうか。


時々突然めまいに襲われたりする。


精神を自分は病んでいるんだろうか。


そんな思慮にふけりながら、僕は自分の部屋にもう一度行き、スウェットとグレーのパーカーに着替えた。


時計をみると深夜の4時。


ドアをあけて外にでる。


新鮮な夜の空気がぴたっと顔の肌にはりついてくる。


それをすぅーっと吸い込んで、思いっきりはく。


外の空気はそこまで寒くなく、むしろ涼しいくらいだった。


向こうの空をみるとじょじょに明るさが広がりだしている。


夜明けが、やってくる。


黒いベールにつつまれて、すべてを闇に飲み込む夜が、きれな朝の光をまといながら塗りかえらていく。


僕のこの心にべっとりと張り付く、黒いもやもやも同時に洗い流してくれればいいのに。


この黒いもやもやはなんのせいなのか。


ありとあらゆる複雑な事情が僕を取り囲んでいる。


青山。


早川さんのこと。


父親との関係。


塾。


加えて、多感な時期の僕には自分がどこからきてどきに向かうべきなのかとか、なぜ生きるのかだったり、人間の価値など、考えないといけないことがたくさんあるのだ。


僕はシューズのつま先をとんとんとやってみせ、履き心地を整えると、小走りになって走り始めた。


朝の新鮮で冷たい空気の中を走るのは、気持ちがいい。


ひんやりとした空気が逆に僕の汗をひやして心地よく感じた。


車はほとんど走ってなくて、時々ブーンという音をならして住宅街をぬけていった。


体にたまったよくない空気を、新しい空気と入れ替えるように、すっては吐いてを繰り替えす。


徐々に僕は走るスピードをはやめた。


シューズの音が心地よくなってる。


僕はある場所へと向かっていた。


近いうちにもう一度行きたいと思っていた、ある場所へと。


空からの光が少しずつ黒い部分を薄めていく。


息がもあがってきた。


心臓の鼓動が丁度いい感じにとびはねて飛び跳ねてを繰り返して、体が熱をおびていく。


何かを忘れ去ろうとするかのように、僕は無心になって走った。


無心に。


川にかかった橋の上を、ときどき通る車とすれ違いながら行く。


川には浅瀬で魚釣りをしてる人がぽつんと座っていた。


川はお世辞にもきれいで澄んでいるとはいえないけど、朝の光を浴びて、美しく光を放ってる。


夜明けの空に鳥の親子らしき群れが浮かんでる。


どこへ向かうのか、僕の頭上をこえてむこうへと行ってしまう。


飛んでいる鳥にはきっと悩みなんでないんだろうな。


あるとしたら、せいぜいえさがないとか足りないとかじゃないだろうか。


30分くらいたって、僕は目的の場所にたどりついた。


それは以前星野に教えてもらった海だった。


あのグッと心をつかまれた感覚を僕は忘れはしない。


あの景色をもう一度みたくてここにきたのだった。


砂浜をざくざくと踏みつけ、波打ち際よりちょっと離れたところにこしかけた。


この波の音を、僕は久しぶりにきいた。


ざざぁー、ざばぁー。


僕が学校にいる間も、寝ている間もこの海は休まずこうして波をつくってはけして波をつくってはけしてを繰り返していたんだなと思う。


前きたときは雨がふっていて、遠くのほうがよくみえなかったけど、今回はよくみえた。


ざざぁー、ざばぁー。


僕は目をつむってこの音に神経を集中させる。


この音を聴いていると、自然と落ち着いた。


耳から入ってきたその音は、僕の体内に侵入して、いいエネルギーを送り、循環させてくれる。


ここに星野がいればまた映画のはなしとかくだらないはなしをできるのにな。


僕はふとそう思った。


ざざー。


ざざー。


海は相変わらず静かだ。


これから夏がくる。


僕の心は夏の風に誘われて、静けさのようなざわめきのような、どきどき感を伴ったワクワク感。それとともにどこかこう一筋の不安のようなものを胸の中で感じていた。


波はざざー、ざざーと絶え間なくなっていた。






本格的に夏の季節がやってきた。


太陽の光はじりじりと照りつけ、半そでのTシャツを着ていても、じわじわと汗が浮き出てくる。


夏休みの前日。


僕らは全員体育館に集められていた。


校長先生のながったらしい話。


いつもとさほど内容は変わらない。


きまってでてくる言葉は、


君たちは今はまだ蕾だとか、未知なる可能性だとか、ありふれた言葉だ。


僕らはそんなうさんくさい言葉にいまどきだまされない。


どんなに未知なる可能性があったとしても、世間は世知辛いままだ。


話の長さに耐え切れなくなった生徒たちがちらほら出はじめ、姿勢をくずしたり、隣の生徒と話し合ったりする。


そのつど、脇にたつ小野田や体育の田島がしかりつける。


全校集会も終わって、その日が授業がすべて終わる。


僕は放課後、もらったプリントを整理して鞄につめこんでいた。


教室は夕暮れの光を浴びて、オレンジに染められていた。


教室内には、僕と日直で黒板の文字を消している水島の2人しかいなかった。


静か過ぎて、自分の呼吸の音がふときこえてきた。


静まり返った教室のなかで、水島が話しかけてきた。


「おれさ、みんなからホモっていわれてんじゃん。」


「え、うん。」


「あれって結構きついんだよね。」


「そうなんだ。」


水島はそれ以上喋らなかった。


教室ではオレンジ色の木漏れが切なく侵入してきている。


僕は黒板を掃除する水島を残し、教室をあとにした。


そんなこんなで夏休みがはじまった。


いま僕ら4人はみんなそろってファミレスのテーブルを囲んでいた。


その4人というのは、


僕、


星野、


早瀬、


そして香月の4人だ。


「僕ポテトとドリンクバーで。」


みんなもおのおのサラダや、スープをたのんでドリンクをとりにいく。


僕はグラスにコーラを注いで席にもどった。


星野は席にもどるやいなやレモン味のジュースとカルピスをミックスさせたグラスの中身をみせてきた。


4人が席に着く。


「どうしよっか。」


「どうしよっかって、何が?」


と僕。


「何がって、夏休みの計画。」


「あぁ。」


「適当に海にでも遊びに行けば勝手に夏を満喫してる気分になるんじゃね。」


と星野。


「星野くん、適当すぎ。」


香月は星野のことを君付けで読んでいた。


早瀬いわく、癖だそうだ。


前の彼氏に対してもくんをつけていたらしい。


ちなみに僕と早瀬は互いに苗字を呼び捨てで呼び合う。


「あ、でも20日から俺らちょっと用事あるから。」


「俺らって?海野くんも?なんで?」


「ちょっとね。」


「言ってよ。」


「実は青山たちに森でキャンプするから来いって言われてて…。」


青山、その言葉をきいて、早瀬が反応するのがわかった。


早瀬は僕が青山達と関係を持っていることに対して反対だった。


「そっかぁ。じゃあ20日までにいっぱい遊ばないとね。」


話し合いででたスケジュールは、


・海にいく

・夏祭りにいく

・花火をする


の3つくらいだった。


だいたいいつもの夏と変わらない、ありきたりな日程となった。


その帰り、僕は星野と一緒に自転車をおしながら住宅街の真ん中を歩いていた。


歩いているだけで、太陽の光が僕たちを監視しているようで、もみあげのはじっこの部分やら脇の下から汗がにじみでてくる。


「どう、香月とは。うまくいってんの。」


「さぁな。女の考えることはわかんねぇよ。」


僕は「そっか。」と、さりげなく笑った。


上をみあげると目をそむけたくなるほどにまぶしく太陽が光っていた。


「あーだるいな。」


「え、なにが。」


「青山たちとのキャンプだよ。」


「あぁ。僕も。」


星野はくしゃくしゃっとこげ茶色の自分の髪をかきまわした。


前髪は目の斜め下にすっと伸びていて、お世辞じゃなく星野に似合っている。


香月もこういう星野のルックスにほれたんだろうか。


くだらないことを考えてみる。


じゃ、おれん家こっちだから。と星野が手を振る。


僕も手を振って別れる。


ちょっと歩いて振り返ると、坂道をおしながら歩く星野の背中が米粒みたいに小さくなっていた。





白い雲、隅々まで澄み渡った青い海。


僕らは海にきていた。


星野が教えてくれた海だ。


この空と海とで10個くらい俳句がつくれそうな気もする。


あたりには人は多くなく、僕らと2、3組家族連れがいるくらいだった。


早瀬がとなりでなにか独特な匂いを発するクリームを体に塗り始めた。


「日焼け止め?」


「そう。これがないとお風呂のときとか痛くって。」


早瀬は体にはりつくようなグレーの水着をまとって、そこから綺麗なすべすべとした手足をのぞかせていた。


僕は思わずみとれてしまう。


そしてひそかにまた僕の性の欲求を突き動かそうとする。


「心ちゃんも一緒にいこうよ。」


「ごめん、僕はここでいいよ。」


僕はまだ子供の頃の事件を引きずっていた。


あれ以来海には入ってない。


学校のプールも休んでプールサイドで見学していた。


「そっか。」


早瀬と香月が一足先に海に向かって走っていった。


それを追って星野が走っていく。


浅瀬で、早瀬と香月が笑いながら水をかけあっている。


星野がバシャバシャとしぶきをあげて駆け寄る。


「きゃー。星野くん冷たいっって。」


星野もふざけて2人に水をかけてる。


そんな星野をみてうらやましく感じた。


僕も、あんな経験さえなければ…。


空をながめてみる。


気持ちいい。


淡い白の雲のうえに、ハワイアンブルーの空がのっかって、そのしたに雄大な紺碧の海が広がっている。


僕は目をつむって、すーっと息をする。


そしてゆっくりと吐いた。


まるで自分が空と一体化したような気分。


こんな天気のしたで泳いだら気持ちいいんだろうな、そう思った。


目を開けると、星野が顔を覗き込んでいた。


「うわっ。」


「海野も泳ごうぜ。過去の経験を引きずってばかりじゃ前に進めないぜ。」


「えー、どうしよ…。」


星野にちょっとだけでもいいからと、薦められ嫌々着替えることに。


だれかに見られないように草陰で海水パンツにきがえる。


「よし行こう。」


砂は丁度いいくらいに日光をすっていて、気持ちいいくらいに温かい。


ざくざく踏みながら、波打ち際に到達した。


すこし離れたところに、早瀬と香月が浮き輪でぷかぷかと浮いていた。


僕はおそるおそる体を浸からせていく。


おへそにかかるかかからないか辺りまで来たとき、星野のわっという声とともに僕は背中をおされ、水の中にダイブした。


ざっぱーん。


「もうやめろって!」


若干キレ気味で星野に文句をいうが、星野はわっはっはと愉快に笑っていた。


でも正直気持ちよかった。


そのあと冷たさが体をおそって、ぶるぶると体を震わす。


肩まで浸かると、ひんやりとした水の膜が僕をつつむ。


頭まで浸かると、ひとつの体が冷たい世界の中に取り残されたような感じになる。


ゴーグルをはずして、鼻の中間辺りまでもぐって、遠くかなたの水平線を眺めてみる。


僕が小さい頃おぼれたのはちょうどあの辺りか…とぼんやり考える。


僕は浅瀬でしばらくずっとその場を泳いでいた。


━時刻は夕刻。


夏の夕方の風が、海からあがった僕らの体を丁度よくひんやりさせる。


僕と星野は夏祭りの会場にきていた。


「人、いっぱいいるな。」


「うん。」


この時をまってましたといわんばかりに大勢の人たちが思い思いに屋台を練り歩く。


すると会場の入り口あたりから声がしてきた。


「心ちゃーん。」


みると早瀬たちだった。


お花模様の浴衣をきていて、すごく似合っていて、綺麗だった。


星野と2人でなにも言わず無言で見つめていると、


「ちょっと、見すぎ!」


星野が香月にたたかれた。


会場からはドンドン、ドンと太鼓のおとがする。


4人でしばらく屋台のそばを歩き回っていると、


「あ、わたわめ食べたい。」


「うちも食べようっかな。」


がんこそうなおじさんがわた飴をうっていた。


「すいません、わたあめ2つ。」


「はいよ。」


がんこそうなおじさんはぶっきらぼうに、つぶれた目をしながらいった。


僕と星野で2人がわた飴を買うのを待っていると、人ごみをかきわけて、見覚えのある顔がみえた。


青山だ。


「星野、青山だ。」


「おう。分かってる。」


青山のそばには2、3人取り巻きがいた。


見つかりませんようにと祈ったが案の定見つかった。


「お、海野じゃん。」


青山のにやついた笑み。


僕はこの笑みが苦手だ。


「彼女つれてんのかよ、ひゅーひゅーあついねー。」


と取り巻きたち。


「悪いかよ。」


と星野。


星野が青山に楯突くのは目ずらしかった。


「あ?星野くーん。彼女の前でかっこつけないでくれますかー?」


と取り巻きがいった。


星野はにらみつけて攻撃的な態度をとっている。


青山は相変わらずニヤニヤと笑ってる。


すると、早瀬が前にでて星野と青山の間に割り込む。


「用がないならはやくどっかいってくれませんか。」


「早瀬っ。」


青山はにやりとして、早瀬をなめまわすようにジロジロと見る。


青山と早瀬の口と口との間はほんのわずかだ。


このままじゃ早瀬が青山とキスしてしまう。


そう思ってみていると、青山はにかっと笑って顔を早瀬から離した。


そしてニヤニヤ笑いながら人ごみのなかにまじっていった。


僕はひとまずほっと胸をなでおろした。


「なにあの人たち、感じ悪い。」


と香月がぶつりとこぼした。


「ささ、行こ行こ。」


気を取り直して僕らは再び歩きはじめた。


歩いてる途中で気づくと僕と早瀬だけになっていた。


「あれ、星野たちは?」


「はぐれっちゃのかな。」


仕方なく僕と早瀬2人で会場をのなかを歩く。


「ねぇ、心ちゃん。」


「ん?なに。」


「青山くんたちとはどうゆう関係なの?」


「友達だよ。」


僕の口からぽろりと嘘がこぼれる。


使いっぱしりにされてるとか、時々いじめられてるなんてとてもじゃないけど口には出せなかった。


「そう…。」


早瀬はさびしげにうつむきながら僕の少し後ろを歩いてる。


と、そのとき早瀬の手が僕の浴衣のすそをぐっと引っ張った。


「わたし、青山くんってなんか好きになれないな。なんかこわいっていうか。普通の顔のしたにとんでもなく冷たい仮面をかぶってそうな…。


青山くんたちとはあんまり関わらないほうがいい気がする。」


「え。そ、そうかな。」


僕も早瀬と、前々から似たようなことを思っていた。


青山は、他の不良たちがみせる髪を染めたり、ダボダボのスウェットとを着たりする恐さとかだけじゃなくて、なにかゾッとするくらい冷たいのだ。


こんな冷たい人間っているのかって、思うくらい。


同じクラスの平山もある意味一種の冷たさをかんじるときがある。


でもそれとはまた違った、それ以上の冷たさを青山には感じるのだ。


もしかしたらあいつは仮面をかぶっているんじゃないか。


青山なら、どんな残酷なことでも平気でやってのけてしまうかもしれない。


早瀬はまだ裾をぐっと握っている。


「あ、星野。」


前をみると星野と香月が人ごみに混じって立っていた。


気づくと早瀬の手は離れていた。


そのあと4人で祭りを一通り楽しんで、海辺で花火をすることになった。


星野がコンビニで買ってきた花火セットを、懐中電灯でてらしながら取り出す。


まずはお決まりの細長いスタンダードな花火に火をつけた。


勢いよく火花がちる。


星野は空中にわっかをかいたり文字をかいたりして遊んでる。


その横で香月と早瀬は線香花火に火をつけていた。


海はそんな僕たちを見守るかのように、ざざーっと揺れている。


上をみあげると、完璧に丸いとまではいかなくても、丸い月が星空と夜の海を照らしていた。


僕はふと美術館でみた「夜の海」の絵を思いだす。


作者不明の、綺麗な月に照らされた、夜の海。


もう一度海を眺めると、昼にあった輝かしい光とのっぺりとした白い雲たちの姿はどこにもない。


ただ真っ暗闇のなかで、静かに海は波をおこしている。


星野が花火を持つ手をふりまわしながら僕に近づいてきた。


「わっ、あぶないって。」


「なぁ海野。」


「ん?」


星野は花火の火を下の砂にむけて当てる。


「青山さぁ、死んでくれねーかな。」


「え…。」


僕は一瞬耳を疑った。


いつもは温厚な友人が、いきなり人の死を願い始めるとは。


「うそうそ、冗談だよ。冗談。」


星野は笑い飛ばした。


だけど僕には星野の目は笑っていないようにもみえた。


線香花火の火が、ちかちかとしぼんでやがて消える。


「これでおわりか。」


僕らは花火のゴミを袋にいれて、海辺をあとにする。


花火がおわると、なぜだかひょいっとせつなさが僕らの心に顔をだす。


子供の頃、誕生パーティーをして、それで楽しい時間があっというまに過ぎて帰る時間になった時のようなせつない気持ち。


僕らは海をあとにする。


夜の静かな星空と、月が沈む青い海、そして僕と星野の心につきまとうほんの少しのを不安をぽつんととり残して…。



僕と星野は集合場所の駅の前で合流した。


「よ。」


「おっす。」


ここの駅から電車で田舎の方に30分くらいかけて降りた近くに、キャンプする予定の山がある。


星野をみると、ぎっしりと荷物を詰め込んだリュックを背負い込んでいた。


「やる気満々じゃん。」


「まさか。」


さっそく切符を買い、僕と星野は電車に乗り込んだ。


つくまでの間、僕らは話をして時間を潰すことに。


窓の外では、色とりどりの世界が早送りになって過ぎていく。


星野はわざとらしくそう言って、マイクを向けるような仕草をしてきた。


話をしているうちに、目的の駅につく。


僕らはそそくさと電車をおりて、改札を抜けた。


それからしばらく歩いて、青山が言っていた山についた。


山の麓には既に青山率いる不良達が集まっていた。


「おい、遅ぇぞ。」


不良の一人がそう言う。


不良達は青山含め、全員で6人程だった。


さっきの電車の中での会話の楽しい気分はもうどこにもない。


これから青山達とこの山で過ごさなければならないという、鬱屈した気分でいっぱいだった。


「いくぞ。」


青山の掛け声で、僕らは山をのぼりはじめた。


森の中は、鬱蒼と生い茂っていて、なんだかよくある心霊番組なんかにでてきそうな感じだ。


ザクザクと落ち葉を踏んでゆく。


歩いてるうちに、どの足音がだれのか分からなくなってくる。


不良グループは、青山を先頭にベラベラと会話しながら歩いていた。


途中、ひとりの坊主頭の不良がニカッとして僕と星野に近づいてきた。


「なぁ、これ持てや。」


星野は荷物をおしつけられる。


しばらく黙っていたけど、星野は荷物を受け取った。


それから1時間くらい歩くと、木の家でできた小さなコテージがみえた。


不良達はやっと着いたーとかなんとか言っている。


どうやらここに寝泊まりするらしい。


木でできた家の扉を開けるやいなや、不良達は荷物を投げ捨て、中のベッドに横になった。


「あー、もうおれ疲れたよ。」


「ったく、ここまで距離ありすぎんだよ。」


不良はその場でくつろぎはじめる。


どいつも僕らに荷物を持たせて楽をしてたくせに。


と、心の中で愚痴る。


青山は、ドアの前で立ち往生する僕らに、こう命じてきた。


「おい、今日からお前ら飯番な。毎日3食な。」


そう言って青山は扉を閉めた。


「飯番って…、マジかよ。」


ついでに僕はこんな不良たちでも一日に3食ちゃんと食べるんだな、と思った。


それから森での憂鬱なキャンプ生活がはじまった。


最初はカレーライスをつくって食べさせた。


これが意外にも好評でつくりおきしていた分もすぐになくなった。


ということで山の中にある川で僕と星野は魚を釣ることにした。


僕と星野は今、川にいた。


たくさんの岩に囲まれ、その川は流れていた。


空は白く塗られ、爽やかなせせらぎの音とともに川が流れる。


目をつむってみると、どこかからか虫の鳴き声がする。


息をすぅーっと吸いこんでみる。


肺の底から空気を入れ替える。


すると、新しい新しい命の息吹が、空気となって体に入り込む。


それからまた息をゆっくりと吐き出した。


気持ちいい。


僕は自分の中にあるもやもやを吐き出したくて、何度も息を吸っては吐いてを繰り返した。


あたりの空気と一体になる感覚。


感覚が研ぎ澄まされて、空気の震えた位置さえ分かる気がした。


すぅーっ。


はぁーっ。


すぅーっ。


はぁーっ。


そうしないと、心がパンクしそうだったからかもしれない。


新たに入り込んだ空気達が、生き生きとかろやかに体内でパチパチとはじけだす。


「釣れねーなぁ。」


と星野。


僕の竿にもぴくりとも反応はない。


「魚は気楽でいいよね。こんな気持ちいい川で毎日泳いでも誰からも咎められないんだからさ。」


気を紛らすために僕は口を開く。


星野は一瞬考え込んでから、


「ま、俺たちに比べれば考えることは少ないかもな。」


それからまた一瞬間を置いて、


「でも魚って馬鹿だよな。人間が垂らした餌にわざわざ食いつくなんてさ。」


と言った。


「魚釣りなんて人間のエゴさ。人間の気分次第で好き勝手釣られて、そして訳も分からず一緒に写真なんか撮られたりして。


挙げ句の果てには刺身にされて食われちゃうんだ。


魚からしたらたまったもんじゃないさ。


俺が魚だったら、毎日網に引っ掛かるのをビクビクしながら泳いでるだろうよ。


ま、魚がそんなこと考えながら生きてるかなんて分からないけどさ。」


僕はなんと返していいか分からなくて、そうだね、と返した。


再び、その場は川の音だけとなる。


星野の目を覗き込む。


星野はなんだか淋しそうな目をしてた。


遠くからだったからよくは見えなかったけど、僕にはそう見えた。


どうしてだろう。


また星野の目が冷たくなった。


こういう星野をみるのは初めてのことじゃない。


どこかでみたことあるような目。


魚が飛びはねる音がどこかからした。


川は心地よい音とリズムで流れている。


この空と新鮮な空気と相性が良い。


星野の話を聞いて、僕が魚だったらどうだろうと考えてみる。


僕が魚だったら釣られるのなんてゴメンだ。


だって、自分が魚になって釣られてるところを想像するだけで、なんだか惨めな気持ちになるから。


体をジタバタさせて、おまけに口に針まで刺されて、人間にもてあそばれるのなんてまっぴらだ。


確かに魚釣りなんて娯楽は人間のエゴなのかもしれない。


でもそれをしないと人間は生きてはいけない。


毎日どこかで豚や牛達が殺されてる。


僕は昔小さい頃、人間が肉を食べて生きることに疑問を思った時期があった。


幼ながらに、漠然とだけど。


きっかけは学校で読まれた絵本からだった。


その絵本の内容は、人は他の動物を食べて毎日生きてるということを分かりやすくしたものだった。


それである日から突然、肉をたべるのをやめて、野菜だけをたべるようした。


ステーキもなし。ハンバーグもなし。


まるで減食ダイエットしてる女子高生みたいに。


その頃は僕ひとりが肉を食べなくなれば、一匹でも多くの牛や豚達が助かる、なんて淡い幻想のようなものを抱いていたのかもしれない。


だけどそれも長くは続かずに、一週間後くらいには母さんにつくってもらった牛肉丼をぺろりとたいらげていた。


どんな世界にも弱いものと強いものが存在する。


僕は教室でもそれと同じことが言えるんじゃないかと思う。


小学生の頃にいぢめられていた水島や、平山たちに嫌がらせをうけている早川さん。


どんな種族にも、その身の丈にあった場所がある。


人間の僕らはそれが教室で、魚たちはそれが川や海なだけなんだ。


きっと。


僕らはまるで逃げ場のない魚のよう。


小さな水たまりだから、うまく泳げない。


すぐに酸素を取り込まないと、酸欠になってしまう。


小さな教室の中は、魚たちが住んでる世界よりも残酷だ。


沈黙。


空は相変わらず綺麗で、木々達は静かに立っている。


星野があくびをして大きく口を開いた瞬間、竿に振動が伝わる。


「あ。」


最初はピク、ピクと反応があって、そのあとにグイッと引っ張られる。


すぐに力を入れなければ、たちまち竿ごと引きずりこまれそうだった。


「海野、引けっ!」


僕は星野に言われるまま竿を引っ張る。


その反動で、勢いよく魚が飛翔する。


水しぶきが同時にあがる。


「海野、素手だ!素手で掴めっ!」


「えっ、素手!?」


魚を触るとぬめっとした感覚。


メジロだかアユだか名前は知らないけ、魚はこんなにも生きたがってる。


それなのにこの魚は見ずも知らない僕たちに、今日食べられてしまうんだ。


そう思うとなんだか悲しくなる。


僕は両手で暴れる魚をガシッと掴んだ。


結果、その日は5匹釣れた。


焚き火をして、その場で焼き魚にして食べた。


不良達の分しかなかったので、僕らはその晩は夕食抜きとなった。


食べ終わると不良達は、部屋に取り付けられたビデオデッキにdvdを入れた。


「おー、すげぇ。」


不良の一人がdvdのパッケージを見て言った。


テレビ画面には、av女優が挿入をせがんで大股を開く姿がうつしだされる。


僕と星野は、なにか恥ずかしいようないたたまれないような気持ちでそれをみていた。


ひととおりのプレイが終わってdvdは終了する。


不良達はうおー、なんか興奮してきた、とか言っている。


すると青山が携帯電話をかけはじめる。


20分ぐらいたって、ドアがコンコンとノックされる。


「おい、開けろ。」


不良達に命令されて星野が開けにいく。


ドアの向こう側には、数名の女達が立っていた。


「なにー、青山くーん。こんなところに呼び出してー。」


不良達と女達はいちゃつきはじめる。


「おい、お前ら。外出てろ。」


外に追い出される僕ら。


夜の森は本当に暗くて、どこからかデビルマンみたいなのがでてくるんじゃないかと心配になる。


ドアの前で星野がこんなことをいいだした。


「な、逃げようぜ。」


「え。」


「いまならバレねーって。絶対。」


「まずいって。さすがに。」


「いいから、行くぞ。」


星野はそそくさと走り出す。


仕方なく後を追って走り出す。


闇を掻き分けて、無我夢中で走る。


途中木の枝に引っ掛かってすり傷ができたけど、我慢して進む。


行きよりも、帰りは下るだけなので楽だ。


でも先が全然見えないので、何かにつまずいて転びやしないかと不安を感じながら走った。


ザクザクと落ち葉を踏む音だけが無造作になる。


「よっしゃ、もうすぐだ!」


星野が前方で叫ぶ。


抜けれる。


出れるんだ。


この森とも、青山達との面倒くさいキャンプ生活ともこれでさよならできる。


そう思うと足のスピードもより一層上がった。


自転車のギアをチェンジしたかのように。


気付くと、僕らは森をぬけていた。


行きの半分くらいの時間で駆け下りたのではないだろうか。


はぁ、はぁ、ぜぇぜぇと息もあがっている。


僕と星野は帰りの電車にのるため、駅へと向かった。


―次の月曜日。


僕らは再びあの山に来ていた。


来ていたというより、連れてこられていた。


「おら、とっとと歩け。」


後ろの不良にドンと背中を押される。


僕と星野が山から脱出したのがバレて、再びこの山を登らされていたのだった。


後ろで青山が煙草を吸いながら見張ってる。


「止まれ、ここでいい。」


青山が言った。


辺りは背の高い竹やぶで囲まれている。


真ん中には切り株がポツンとあった。


「なんでここに連れ戻されたか分かってるよな。」


不良の一人がすごんで言った。


青山は相変わらず煙草を吸って遠巻きにこっちを見てる。


ドスッ。


と鈍い音をだして、不良の一打が星野の腹に打ち込まれた。


そのまま崩れおちる星野。


僕も頬にパンチをくらってその場に倒れる。


不良の五人がいっせいに蹴りを食らわせてくる。


「ったく、逃げやがってよぉ!」


僕らがボコボコにやられていると、


「おい、もういい。」


青山だ。


青山はどんどんと近づいて、僕の髪を引っ張って持ち上げる。


そして口を開いた。


「お前らは奴隷なんだよ。


奴隷が主に逆らっちゃダメなことくらい分かるよな。


いいか、お前らと俺らは対等じゃねぇんだ。それをよーく覚えとけ。」


それからのことはあまり覚えてない。


再び不良たちにボコボコにされ、僕らは気付くと切り株に縛り付けられてた。


「星野、星野。」


「ん…あぁ。いてっ。」


口のなかで地の匂いがする。


それ以外にも体のあちこちが痛い。


「これ、ほどけるか。」


「キツくて無理。」


そのままあたりは次第に暗くなって、僕らは夜を迎えた。


次の日、 上空がうっすらとあかるくなりはじめる。


手首を必死に動かすも、縄はビクともしない。


締められた部分がヒリヒリと痛んでくる。


「ん、なんだこれ。」


星野が何かを見つけたらしい。


「あっちに錆びたノコギリ落ちてるぞ。」


「え、マジ。」


星野は足を伸ばしてノコギリをたぐり寄せはじめた。


近くまできたノコギリを手元の方に寄せる。


あとは、小手先でなんとか紐をきることに成功した。


かえりの電車に揺られながら、星野は爪を噛みながらボソッと言った。


「青山の奴、覚えてろ…。」


星野の目は笑っていなかった。




山から脱出した数日後、青山から連絡があった。


「廃墟こい。いいな。」


僕はうらびれたいつもの廃墟に来ていた。


時刻は12時過ぎ。


あたりは真っ暗。


しばらく待ってると星野も来た。


「おう。」


それから青山もきた。


他に二人不良もついてきていた。


「ついて来い。」


それだけいうと青山は歩きだした。


「どこいくんだろな。」


と星野。


青山はただ淡々と歩いてる。


ついたさきは一軒のコンビニエンスストアだった。


「いまからお前達にコンビニ強盗をやってもらう。」


「コンビニ強盗って…、マジかよ。」


「俺たちは遠くから見張ってからな。じゃ、これ。」


青山は星野の手にマスクとナイフを手渡す。


「これって…。」


「心配すんな。おもちゃだよ。」


青山はナイフを手に取る。


そして、


「ほら。」


ナイフの刃先を手のひらにくっつける。


すると、刃の部分はヒュッと引っこんだ。


「しくじんなよ。」


青山はそれだけ言うと去っていく。


マスクをつけて、ナイフをポケットに隠す。


乱れる心臓の動きをととのえて、店内に入る。


マスクをいてるせいか、店員がいぶかしげにこちらをみてくる。


(落ち着け、落ち着くんだ。)


自分に言い聞かせる。


星野は雑誌コーナーにいったらしい。


気付くと手には汗が滲む。


高鳴る心拍数。


僕はカップ麺をひとつ手に取る。


じとっと、手からすべりそうになって、慌てて持ち直す。


手からだけじゃなく体中から嫌な汗が噴き出す。


しだいに視界がゆれはじめ、グルグルと回りはじめた。


(まただ、めまいだ。)


グルグルまわる視界。


ドクドクなる心臓。


頭の中で、青山の声がぐわんぐわんと響きだす。


しくじんなよ…


しくじんなよ…


しくじんなよ…


その瞬間僕はペットボトルをもとに戻し、走って店をでた。


外に出る時に星野の「海野、」と呼びかけられたけど、構わず走り出した。


一心不乱に走る。


何も盗んでないことがバレたのか、青山たちが遅れて後を追ってくる。


後ろからは「おい待て!コラ」だとかなんとか聞こえてくる。


歩道橋を走り抜け、そのまま家までの道をひた走った。


途中で、堤防にさしかかって坂をのぼる。


後ろから声がしなくなっても、振り返らずに走った。


願わくば、このまま自由で何の束縛もないあけっぴろげな土地まで、走り抜くてしまいたい。


だれもいなくて、川を泳ぐ魚、森にすむナマケモノのように生きていけるようなところ。


狭くて息の詰まるようなところじゃなく、のびのびと深呼吸できるような場所。


逃げたい。


青山達のもとから逃げたい。


その一心で僕は走る。


大声で叫びながら、全速力で駆け抜ける。


風がヒュウヒュウと体にまとわりつきながら流れて、過ぎていく。


僕は叫ぶ。


叫ぶ。


叫ぶ。


真っ黒な空にむかって必死に叫ぶ。


僕の寂しい魂の叫び声が、ひとり暗い堤防と川に響いていた。



後日、星野から電話がかかってきた。


「もしもし、星野だけど。」


「あ、うん。なに。」


「あの時は急に走り出すからビックリしたよ。」


「あぁ、ごめんごめん。」


「でさぁ、青山のことなんだけど…。」


「なに。」


「おれさ、けじめつけることにしたわ。」


「けじめって…なに。」


「もう無理、堪えられねぇわ。」


「なに、どうしたの。」


「俺自身、もうあいつらに振り回されるの嫌だし、関わって生きてると、ドントンダメになっていく気がしてさ。」


「だから、なんのことだよ。どうしたの。」


「もう俺たちに関わらないでくれって、頼みにいってくる。」


僕は耳を疑う。


「え、本気かよ。青山のことだからなにしてくるか分かんないって。」


「大丈夫だって。この星野様に任せとけって。じゃ…。」


「ちょっとまって!俺も行くよ。」


そんなわけで、今、僕と星野は廃墟で青山達を待っている。


「緊張してきた…。」


と僕がもらすと、


「俺も。」


と星野。


20分ぐらいして、青山達はやってきた。


お決まり通り取り巻き達もいる。


「なんだよ、わざわざ呼びだしやがって。」


「また殴られてぇーか、あぁ?」


と、取り巻き達が言う。


しだいにこちら側の緊張感が高まってきた中、星野が口を開いた。


「今日はあんたたちにお願いがあって来てもらったんだ。」


「あぁ?ふざけてんのか、お前。」


「今後、俺たちには関わらないでほしい。」


それを聞いて、一人の不良がフンと笑って近づいてきた。


「奴隷が調子のってんじゃねぇぞオラ!」


腹に一撃くらって、倒れる星野。


そのまま他の取り巻き達も加わって、囲んで星野に蹴りかかる。


(ほら言わんこっちゃない。どうすんだよ星野!)


そう心の中で唱えていると、星野がある物をポッケから取り出して見せた。


それを見た不良たちは恐怖の声をあげた。


「うおぉ、こいつ切ってきた!切ってきたぞ!」


「逃げろ!」


走り去ってゆく不良達。


星野はナイフを青山に向けながら、立ち上がって、汚れたズボンをパンパンと払った。


「な、たのむよ青山。俺たちにはもう関わらないでくれ。」


青山は黙っている。


やがてゆっくりと歩き出し、星野に近づいてくる。


ゆっくりと。


ゆっくりと。


「おい、正気か。」


青山は向けられたナイフの刃を、ぎゅっと掴んでいた。


「奴隷如きが生意気なんだよ。」


青山の手から血が滴りおちる。


「ちょっ、離せって。」


押し合いになる星野と青山。


その時、


星野がつまづいて、青山に上からかぶさる。


みると青山の腹から血がでていた。


「おめぇら、…ふざ…けんな。」


そのまま、青山は首の力を抜いて、目をつむった。


僕は横になって目をつむる青山をじっと見つめていた。


「ま、まじかよ…。」


青山に近づいて、肩をゆする星野。


「おい、青山!青山!」


青山は依然として目をつむっている。


カラン、とナイフのおちる音。


「し、死んでる…。」


え?青山が死んだ?


嘘だろ。嘘だといってくれ、だれか。


人ってこんなにあっさり死ぬもんなのか…?


僕の目の前に、それもさっきまでピンピンしてた人間が、死体として転がっている。


なのになんで僕はこうも平然としているのだろう。


星野は青ざめたような表情で、そして無理矢理自分を落ちつかせたような感じで、おもむろにこう言った。


「海野、隠さなきゃ。」


―激しく雨が降りしきる森の中、僕と星野は黒いビニールに入った死体を手分けして運んでいた。


ぬかるむ地面。


葉とレインコートが擦れあう音。


あたりは真っ暗闇で、頭上では激しく雷がなっている。


降り注ぐ雨。


どうしてこんなことになってしまったんだろう。


頭の中で考えが右へ左へ行き交う。


前方を行く星野はただもくもくと歩いている。


「ここらへんでいいだろ。」


黒いビニールに入ったソレを、地面に置く。


次に持ってきていたスコップで穴を掘る。


二人とも一言も交わさず掘った。


頭上で鳴り響く雷。


しきりに降る雨。


だいぶ掘り終わって、今度は死体を黒いビニールごと地面に埋める。


「ねぇ、ホントにやんの。」


「ここまできてなに言ってたんだ。ほら、早く。」


すっぽりと土の中にビニールがおさまる。


僕と星野はビニールに土を上からかけた。


土をかける途中、めまいが起きる。


グルグルと地面と森の木が混ざりだす。


なんとかこらえながら死体を埋め終わる。


星野が尻餅をつく。


頭上では五月蝿く、雷が鳴っていた。


―意識はそこで現実に戻される。


僕の回想はここで終わり。


オーディオからはそんなに名前も有名じゃないアーティストの曲が適当に流れている。


最初に流れていた曲はもうとっくに終わっていた。


僕は携帯電話を手に取り、履歴を確認する。


星野からはなんの連絡もない。


僕は部屋を出て、一階の台所に行きグラスに水を注いだ。


全部飲み干して、グラスをコツンと置く。


どうしてあんなことになったのか。


ああなるしかなかったのか。


あの方法以外になかったのだろうか。


考えをあれこれ張り巡らしてもキリがない。


時計をみる。


時刻は朝の4時。


頭を冷やすために、ランニングでもしてまたあの海にでも行こうか。


僕はたびたびあの星野に教えてもらった海にランニングがてら行っていた。


あそこに行くとなんだか気分が落ち着くのだ。


でも今日はやめとこう。


なんとなく気分がのらない。


体も心も、何かが乗っかったみたいにずっしりと重たい。


僕は部屋に戻り、ベッドに横になって再び目を閉じた。




夏休みが終わった。


早川さんへの嫌がらせは徐々に減ってきていた。


水嶋は相変わらず時々ホモよばわりされている。


だけど、星野はあの事件以来、学校には来ていない。


青山が行方不明になったことはすぐに広まり、ニュースでも報道された。


昼、掃除の時間に廊下をはわいていると、声をかけられる。


早瀬だった。


「星野くん、今日も休み?」


「うん、らしいね。」


「なんかあったの?」


早瀬の程よくふくらんだ唇。


そういえば最近早瀬とヤッてない。


そんなことをふと、脈略もなく考える。


「ないよ、なんにも。」


「うそ、だって最近おかしいよ。しんちゃん、なんか変。」


僕は何も返せず口ごもる。


「しんちゃん、なにか隠してるでしょ。」


しんちゃん、なにか隠してるでしょ……


しんちゃん、なにか隠してるでしょ……


僕はその言葉をリピート再生させながら、病院の待合室で座っていた。


病院独特の匂いが鼻の奥に侵入する。


僕はあまりこの匂いが好きじゃない。


「海野さーん。」


名前を呼ばれて部屋に入る。


中肉中背の髭を口回りに生やした男がイスに座っている。


向かい合って席に座る。


僕は自分の症状をゆっくりと説明した。


時々めまいに襲われること、心に不安のようなものが鬱積していることを。


全部を話し終えて、医者はこう言った。


「海野さんの場合は、ストレスからくるものでしょう。薬をだしときましょう。」


僕は薬を貰って、病院をあとにした。


家に帰ると、玄関前になにやら人影がみえる。


近づいてみると、刑事の田所さんだった。


「どうも。」


軽く頭をさげて会釈をする。


「どこに行ってたんだい。」


「病院です。」


「どこか悪いの?」


「いえ、」


それ以上探られたくなくて言うのをやめる。


「ちょっと二三、聞きたいことがあってね。」


「なんですか。」


「青山くんと君と星野くんは友達だったね。」


「はい。」


「その青山くんが行方不明になってから、星野くんは学校を休んでるね。

そのことと青山くんの件は関係してるのかな。」


「さぁ、たぶん関係ないと思います。」


「そうか、ありがとう。」


「それじゃ。」


僕は田所さんを振り切って家の中に入った。


自分の部屋に入ってパソコンとオーディオの電源を入れる。


そこからはついこの前適当にcd屋で中古でかった、クラシックの曲が流れてきた。


クラシックは音楽の授業で知って好きになった。


切なくも美しいメロディーが、部屋の中に響きだす。


聴いてるとこちらまでノスタルジックな気分になってくる。


パソコンのメールボックスを見ると、新たに受信したメールが一通あった。


星野からだった。


差出人


星野


件名 海野へ、


○○年9月16日 18時 32分


旅にでることに決めました。


メールにはただそれだけ書いてあった。


旅?どういうことだろう。


とりあえず僕は次の土曜日に星野の家にいくことにした。


―次の土曜日。


星野の家に来るのは久しぶりだった。


玄関が開かれると、星野のお母さんが明るく出迎えてくれた。


「あら、しんちゃんじゃない。入って入ってぇ。」


その様子を見て、この人は何も知らないんだな、と思う。


星野の葛藤も、僕らと青山のことも。


みると目の下にくまができていて、すこし痩せこけているようにも見える。


星野の家は今時珍しい二階建てだ。


いつも玄関から入るときに、木造建築の香ばしい木の香りが迎え入れてくれて、なんだか安心する。


この香りを嗅ぐと、なぜだか星野の家って感じがするのだ。


星野の部屋がある二階へ上がる。


ドアを開ける。


みると椅子にひょろっと座る星野の姿があった。


「よ。」


と星野。


「よ。」


と、僕も返す。


久しぶりに会ったのもあって、改まったような感じがしてなんだか気恥ずかしい。


「なんで学校こないの。」


「なんでだろな。急に気が抜けちゃったってゆうか…。なにかが消失しちゃったってゆうか…。


なんかさ、そんなところ行ってる場合じゃないって気がしたんだよね。


仮にも俺ひとりの殺人犯だし…、人ひとりの命奪っちゃってる訳だし。


漠然とそんなとこに行ってる場合じゃないって、思ったのかもな。」


部屋の中に沈黙が流れる。


そうしていると、部屋の中に星野のお母さんがお菓子とジュースをもって入ってきた。


「じゃ、ごゆっくりぃ。」


再び沈黙が流れる。


星野の母さんが痩せてる理由でも聞こうかと思ったけどやめておく。


そうだ、あのメールのことについて聞こう。


「あの、メールのことなんだけど…。」


「あぁ、あれね。」


星野はオレンジジュースを口に含んでから、


「そのまんまだよ。旅にでる。」


「旅ってどこにだよ。」


「んー、まだ考えてないけど、広島あたり?」


「広島って、すごい距離あんじゃん。」


「出来るだけ遠くに行きたいと思ってさ。」


「行ってそのあとどうすんの。お金は?」


「そのあとのことはそのあとさ。金は俺が小学生の頃から貯めてきた30

万円があるし。」


僕は「遠くに行く」という言葉にどうしても惹かれてしまった。


しばらく考えこんだあと、


「じゃあ、僕も行くよ。」


旅立ちは次の土曜日、出発は夜にすることに決まった。


出発前夜、僕はしばらく会えなくなるであろう早瀬にメールをうった。


件名 早瀬へ


しばらく会えなくなるかも、ごめん。


ではお元気で。


僕は携帯を枕元に置いた。


オーディオからは誰が歌ってるか覚えていないくらっしくの曲がかかってる。


気が付くと、僕は眠りの世界に誘われていた。



出発当日。


僕と星野は夜の駅で落ち合った。


とりあえず切符を買って、新幹線に乗る。


ルートはとくになし、気がおもむくままひたすら広島方面に向けて進む。


夜の電車は、人がまばらで少なかった。


星野は考え込んだように押し黙って、車窓の外をみている。


星野がナイフで青山を刺さなくても、逆に僕がやってたかもしれない。


星野はぼくのかわりにやってくれたのかもしれない。


僕が手を汚す前に。


青山にだって家族はいる。


家族はいまどんな心境なんだろうか。


星野がいなくなって、悲しんだりしてるんだろうか。


そんな事を思いつつ外を窓越しにみる。


くらくなった空のしたで、田園がひろがっていて、その向こうに山がひとつ、ふたつ連なっている。


夜空には星が瞬いている。


星野をみると、ぐーぐーと眠っている。


僕もイヤフォンを耳にはめ、目をつむった。


その夜は、しばらくいったさきの駅近くのベンチで野宿した。


次の日、途中、星野がおばあさんに親切に席をゆずったり、うまいと評判の照り焼きチキン弁当を二人で買って食べたりした。


どこの県にいったとかはあまり覚えてない。


ただ流れのままに駅に揺られて、時間が過ぎて良く。


あんなことがあった後だ、僕も星野も元気に旅を楽しむ、なんて気分には到底ならなかった。


なにかこう、責任や過ち、後悔などが見えなくて重いかたまりとなって僕らの心にのしかかっているようだった。


ただただ色んな地域の様々な景色だけが頭の中をぐるぐるまわる。


夕方には駅につく。


「よし、なんか食おう。」


と星野。


「うん、お腹減った。」


星野が見つけた、こじんまりとした居酒屋に入る。


「ご注文はなんにしましょう。」


「えっとー、ねぎま2本と、つくね2本、ぼんじり2本と手羽先ひとつ。あとコーラふたつ。」


「かしこまりました。」


10分後くらいしてテーブルにねぎまがやってくる。


星野ががぶりとねぎまを頬張る。


「うまい?」


「ふつう。」


「普通かよ。」


ふと テレビに目をやる。


ニュースの見出しには「東京都男子高校生2人行方不明。」と書かれてる。


「星野、行こ!」


「え、なんだよ。」


顔を見せないようにして会計をすませ、店をあとにする。


「なんだよ、まだ残ってたのに。」


「俺たちのことがニュースでやってんだ。ついに警察が捜査にのりだしたんだ。」


寝る場所を探すけど、あまりいい場所はない。


仕方なく、路地裏でダンボールをしいてそのうえに横になる。


「これじゃあ俺たち、まるっきりホームレスだな。」


背中と尻のしたはごつっとした冷たい地面の感触がする。

あちらこちらにきたない薄汚れたチラシやたばこの吸殻が捨てられていた。



ちゃりん、とドアを開ける音がする。


「なにしてんの、あんたたち。」



僕らが声のする方をみると、すらーっと細い体をしたちょっと化粧濃ゆめの感じの女が立っていた。


―「散らかってるから。」


女はエリと名乗った。


ソープランドで風俗嬢をやってるらしい。


しばらく歩くと、一軒のボロアパートがみえてくる。


「ここっすか?」


「そう。宿がないよりましでしょ。」


エリがドアを開けて、僕と星野は部屋にはいる。


「散らかってるから。」


部屋の中は宣言通り、散らかっていた。


「適当にくつろいでて。」


エリはシャワールームへと入っていった。


僕はなんでエリさんが見ずも知らない僕らを家に止めてくれるのだろうと不思議に思った。


物は散らかってるけど、いつか嗅いだことのある女性のいい匂いがする。


テレビをみてると、エリがシャワーから戻ってきた。


「見たら殺すから。」


エリはその場でおもむろに着替えはじめる。


自分のすぐ後ろで女の人が着替えてるそのシチュエーションに、少し胸がドキドキする。


エリはあたまにタオルを巻いた状態で、冷蔵庫からビールをとってプシュッと開けた。


「あんたたち、付き合いなさいよ。」


「え、でも僕ら…。」


「いいから、つべこべいわずに!」


エリはたわいもない話を延々と僕らに聞かせた。


僕と星野はただだまってそれを聞く。


ドン!と散らかったテーブルに肘をついてあぐらをかいた。


そしてじーっと僕と星野の顔をみつめて、顔を近づけてきた。


うすいタンクトップからはみっちりとした谷間がかすかに見える。


「なんかどっかでみた顔ねぇ。」


星野は事情をあらいざらいはなした。


青山達に関わるのが嫌で、旅にでるのを決意したと。


青山のことは話さなかった。


「ふーん、最近の若い子は複雑ねぇー。」


エリはするめをかじかじと噛みながら言う。


時折ふかくうなずいたり相槌をうったりして、僕らの話をきいて同情してくれた。


「じゃ、そろそろ寝るわ。明日朝はやいしさ。


いっとくけど変なことしたらただじゃすまないから。」


「しませんって。」


僕と星野はベッドのしたの床で寝ることになった。


光が消える。


「海野、おきてる?」


「うん、なに。」


「おれ、怖いよ、怖いんだ。人殺しとして世にニュースで広められて…。怖くてたまらない。ときどきどうしようもないほど怖いんだ。」


星野の声は、どこか震えていた。


僕には返す言葉がみつからなかった。


いや返しても気休めになるだけだと思った。


そのまま夜は更けていった。

ん?ここはどこだ?


あたりは赤黒く染められ、僕はその真ん中に立っている。


手汗が滲んで、鼓動がはやくなる。


「星野ー、早瀬ー。」


名前を読んでみるが、反応はない。


すると、いきなりまわりを覆う壁にたくさんの目が現れた。


「うわぁ。」


そうするとどこかから声がする。


≪お前は逃げられない、きっと、逃げられない。≫


力強く開かれた目は不気味に開いたり閉じたりを繰り返す。


「やめてくれー!誰かー!」


僕は叫ぶが、恐怖感がどんどんとにじり寄ってくる。


次の瞬間、僕は真っ白な空間にいた。


すると目の前に突然、青山が現れた。


お決まりの龍の柄のスカジャンを着て入る。


そしておもむろに青山は口を開いた。


「お前は逃げられない。俺からも、世界からも。」


「そんなっ……!」


その瞬間今度は僕の足元に急に穴が開き、僕はすっぽりと穴の中に落ちてしまった。


不気味な笑い声がする。


滑り落ちている間、また先ほど見た目が壁に現れる。


「ニゲラレナイ……ニゲラレナイ。」


どこに落ちるのかと思っていた矢先、僕は海の中に潜っていた。


(苦しい……!溺れ死ぬ!!)


水中のなかでぼやつく視界のなか下をのぞき込むと真っ黒な海の底が続いていた。


必死に体を動かす。


(こんなこと、前にもあったな。あのときと似ている、この感覚)


もう息がとまるかと思ったら、僕は目を覚まし、汗をびっちょりかいていることに気づいた。


(夢か……。)


僕は台所にいくために階段をおり、水道水をガラスに注ぎ入れ、飲んだ。


その時、まだかすかに手が震えていた。




翌朝、起きるとエリの姿はもうない。


仕事に出かけたのだろう。


僕たちも起きて、着替えをすまし、お礼の手紙を置いて家を出た。


再び新幹線で広島まで向かう。


星野と弁当を買って、新幹線にのりこむ。


そうして新幹線に揺られること3時間程度。


「おい、海野。乗り換え。」


星野に起こされて、ホームにでる。


階段をおりて反対側のホームにでる。


新幹線がくるのを立って待ってると、向かい側のホームに学生達の集団がみえる。


「う、」


すぐさま、グルグルとまわる視界。


めまい。吐き気。


フラッシュバックする記憶。


青山のしくじんなよ、の声が何回もあたまの中で再生される。


しくじんなよ…。しくじんなよ…。しくじんなよ…。


不良のあの汚い歯、


青山の笑ってるけど笑ってない目。


息が苦しい。


新幹線がつくなり、急いでなかにはいって目をつむった。


息をととのえる。


「おい、海野。大丈夫か?」


「うん、少し休めば大丈夫だから。」


心のなかで落ち着け、落ち着けと唱える。


そうしてる内に、しだいに睡魔が僕を襲った。


―「…い、海野、おい海野。着いたぞ。」


「あ、うん。」


気付くと駅についていた。


どうやら広島駅についたみたいだった。


ここまで長かったようで短かったようにも感じる。


あたりはすっかり暗い。


「今何時?」


と星野に聞く。


「8時だよ。」


そのまま、ふと見つけた広島焼きの屋台で夕食を済ます。


ふたたびブラブラと歩き出す。


ただなんとなく、歩く。


2人とも言葉は発さない。


僕と星野は足が木の棒のように疲れるまで歩きとおした。


僕はふとあることが思い浮かんだ。


「星野。」


星野は「ん?」と聞き返す。


そして星野に僕はこういった。


「星野、海がみたい。」




―僕達は、今海の前にいた。


真っ暗ななか、波の音が静かにきこえる。


僕らは海にむかって尻餅をついてそれを眺めている。


「いちどすっごい遠くまで、きてみたかったんだ。」


と僕が言う。


海の音がBGMのように流れている。


「大人になればいくらでもいけるさ。」


星野が言う。


「でもいまじゃなきゃだめなんだ。きっと。」


星野はしばらく間をおいてそれから「うん。」と返事する。


星野は一瞬口をつぐんで、それからこういった。


「今帰れば戻れるよ。」


「うん。」


上をみると、たくさんの星達が夜空に煌めいてる。


僕はそっと目をつむる。


そっと…。


波の音が優しく鳴っている。


ざざぁ、ざざぁ。



前に星野と一緒に見た青く広がるだだっ広い海。


あの時僕はあの海をみて、なにかが燃えていると感じた。


美術館でみた「夜の海」。


いまもどこかからか、暗く閉ざされた誰もいない美術館の中のあの絵の中から海の音が聞こえてくるような気がする。


以前幼い頃海の中で経験した水と一体になる感覚。


静かに、ゆるやかに―


すべすべとした透明の器の中で、僕の心が満たされていく━


黒い幕のなかで、小さなたくさんの星々が、輝く。


すぅーっと息を吸う。


そしてゆっくりと吐く。


僕の中に、僕が中に、


粒子のようになって、流れ出す。


ゆっくりと。


ゆっくりと。


そうだ、この感覚だ。


僕はこの感覚が欲しかったんだ。


僕の脳裏に今までの出来事が走馬灯となってよみがえる。


僕のお気に入りの部屋、不良の龍の模様が入ったスカジャン、岸谷のフワフワとした髪、星野とみた海、平山の冷たい目、青山の死んだ後の冷たい目、美術館の「夜の海」、早瀬の白くて綺麗な肌、電車の外から見た景色。


そっと……


そっと……


僕の宇宙が、そっと流れ出す。


僕の中の小さな宇宙。


だれにも見せることも出来ないし、見ることも出来ない。


小さな宇宙。


だれしも自分の宇宙を持っている。


僕も、星野も、早川さんも、岸谷だって、早瀬にもあるかもしれない。あの青山にも。


僕の心の奥、遠く、どこかからか聞こえてくる。


小さく、そして強く、


波の音、それは波の音だ。


僕の奥で、僕の宇宙が燃えている。


力強く、ブラックホール並みの引力を放って、僕の中心で光って燃えている。


爆ぜる海。


揺れる僕の心。


燃える宇宙。


頬を一筋の涙が伝う。


「星野、」


「ん?」


「帰ろう。」


「うん。」


すこしの時間を開けて、星野がつぶやく。


だれしも青春の道のりの途中、風にふかれて飛ばされそうなときがある。


僕らはいま苦しくもがいてあがいている、道のりのさなか。


みんなだれしもひとりぼっちで、傷を抱えながら自分の居場所を守ってる。


今はまだ苦しい道のりの途中かもしれない、でもこれから先歩いていれば小さな光が見えてくるかもしれない。


早川さんもこの僕も、あの青山でさえも、小さな水槽にいれられた金魚のようなものかもしれない。



波はゆっくりと、ゆったりと音をたてる。


僕らをここまで導いてきた海は優しく音をたてて広がる。


どこまでも、どこまでも続いてるであろう海。


この先には果たして何があるんだろう。

ふと僕は思った。


上空の星々は、いつまでも僕らを見守るかのように、光り輝いていた。




広島から戻って、星野は警察に全てを打ち明けた。


僕をかばって、星野は僕に森についてくるように命令した、と話した。


僕らは、未成年ということもあって、僕が3ヶ月と半月、星野は7年と3ヶ月という判決になった。


前に星野と香月と早瀬の4人で来た美術館のプラネタリウムに僕と早瀬はきていた。


天井にはまんべんなく綺麗なプラネタリウムが広がっている。


「星野くんにも見せてあげたいね。」


早瀬はそうつぶやいた。


「うん、そうだね。」


家に帰って、郵便受けの中身を確かめると、一通の手紙が入ってあった。






拝啓 海野君へ


肌寒い季節となってきました。


お元気ですか、海野君。


この前教えてくれたドビュッシーの月の光、良かったです。


また、いいのあったら教えてください。


こっちには図書館があって、月に何度か借りるのを許されます。


いろんな本があって面白いです。


最近読んだのは、殺人を犯したら、そのあとどういう風な人生を進んでいくことになるのか、ということをまとめた本です。


なかなか参考になって、考えされられました。


あれからいろいろ考え抜きましたが、やはりどんな相手だろうと人殺しはやってはいけないことだと思います。


とても反省しています。


時々、というよりいつもうなされながら寝ています。


夢にも青山君がでてきます。


たまにとてつもないくらい後悔と自責の念にかられることもあります。


そのときは、この苦しみは人を殺した罰なのだといいきかせて、耐えています。


海野君は彼女の早瀬さんを大事にしてやってください。


ps 君と毎日語りあかした楽しい日々を思い出して、いつも寂しさを紛らわしています。


星野より。


僕は手紙を大切に机の引き出しに入れた。


その数週間後、郵便パックで何かが届いた。


星野からで、その届け物には時間設定がされていた。


僕は封を切って、あるノートを取り出した。


一番上の表紙には「ホシノート」と雑にかかれていた。


僕はゆっくりとページをめくった。


『俺は、星野。星野龍一。』


最初のページはそれしか書いてなかった。


次のページをめくってみる。


『また青山に絡まれた。うざい。だけど本当にうざいのは家にかえってふんぞりかえっている父親と、ろくに料理もしない母親だ。』


次のページをめくる。


『またクソ親父が母をなぐってる。止めに入れば俺も殴られるから止めない。』


そこからはだいたいが両親との関係が悪い様子が延々と綴られていた。


ゆっくりと、恐る恐る読み進めていく。


『海野、あいつだけは信じられる。話してると、なんだか心がほぐれる気がする。』


『夕方、家に帰るとまた父親が酒におぼれている。酒臭い。それだけ。』


『飯時になっても、水一杯と適当に作られたおかゆ程度しかでてこない。俺は親から必要とされてないのか。これがいわゆるネグレクトってやつなのか。つらい。』


僕は一瞬目を疑った。


星野が、あの星野がネグレクトを受けていたなんて。

ページをめくる手が震える。


『パチンコで大負けしたからという身勝手な理由で、親父は部屋にこもった俺の腹を蹴ってきた。海野、あいつに話すか。いや、変な心配かけたくないから、やめとこう。』


『コンビニ指定でネットの通販のナイフを受け取ってきた。これを使って青山との関係を断つようにしむけるか、それとも酒臭いアイツをやるか。それともどっちとも。』


『いまや学校の給食と、わずかなバイト代で買うコンビニ飯が頼みの綱だが、あのクソ親父に許可なしにバイトしている事がばれ、その給料の半分以上をもってかれる。そろそろ精神的に限界か?』


『海野は俺にとってただひとりの友達だから、心配をかけたくない。だから今日も芝居をする。どうってことないって、風に。』


『クソクソクソ、ムシャクシャする。事件を起こす人間っていうのは割とこんな感じなんだろな。いてもたってもいられない、この感じ。』


『また言ってる。酒をなんで用意してないんだ、と。自分で買え。」


『ついに母親が出ていった。』


『よし、やろう。やるしかない、まずは青山からだ。』


『うまくいった。森にも埋めた。ナイフはどうしよう。どこに捨てる?』


『あとは親父だけ。でも、二人殺すと懲役何年くらうだろう。もしかしたら死刑もありえるのか?』


『悪い夢ばかりみる。親父は相変わらずアル中。どこか遠いところにいきたい。』


そう書かれていたページからしばらく白紙のページが続いた。


そして、最後にこう書かれていた。


『これを読んでいる頃には僕は檻の中だと思います。海野、君と話している時、俺は嫌なことを忘れることができました。奈々ちゃんを大事にしてください。檻の中は退屈だけど、家にいたときよりかはマシに感じます。最後にお願いがあるんだけど、このホシノートを瓶に詰めて、いつか二人でいったあの海に流してほしいんだ。それともうひとつ、ウミノートをかいて、僕がやったこと、君といろんな話をしたことを書き綴って、ひとつの本にして欲しい。家にいるときは辛かったけど、君といるときは全部忘れることができた。ありがとう、そしてまた会える日を楽しみにしています。

親友へ。」


ノートに上に水滴がぽつりと落ちた。


━━僕は暗い夜道、自転車であの海へと走っていた。


20分くらいで海についた。


家にちょうどいい大きさの瓶があったので、それにホシノートを詰めた。


僕は黒く流れる海に、思いっきり瓶を投げ入れた。


ホシノートはすぐに姿をけして、飲み込まれていった。














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