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 博士のやしきは、《カンパニ》から貸与されたものだという。備えつけの家具以外に空間を埋めるものはなく、がらんどうの部屋が何室も使われないまま閉ざされている。博士が仕事に出ていくと、この邸にいるのは、ぼくだけになる。ぼくは博士が帰ってくるまで、掃除や洗濯をして過ごす。外へ出ることは禁じられているから、食事は定期的に届けられる固形栄養を摂っている。

(博士は何を食べているのかな)

 固形栄養をかじりながら、ぼくは博士のことを考える。博士は邸で食事をしない。朝、ぼくが淹れた珈琲を飲んで出ていったあとは、夜遅くに帰ってきて、たまに紅茶をたしなむ程度だ。研究で忙しいのだろう。

かえで博士?」

 潮風にわずかに雨の匂いが混じりはじめた昼下がり、邸の扉が叩かれた。白衣を着た、三十代前半くらいの女の人だ。栗色の巻毛と雀斑そばかすという、梍博士と同じ特徴をもっている。

「いつものワクチン、持ってきたわ」

 楓博士はちいさく笑って、左手にげた風呂敷包みを軽く掲げてみせた。梍博士と顔は似ているけれど、笑み方は違う。梍博士の微笑は、穏やかで柔らかい。一方、楓博士のそれは、明るく勝気な色をしていて、すこし眩しい。

 ぼくたち《オルタナ》は、製造の過程で、免疫系の一部を抑制されている。いつか《シヴィタス》の部品になったときに拒絶反応を起こさないようにするための処置だ。同時に、ぼくたちを《マリアの子宮》の管理網から外へ出さないための機能システムでもある。定期的にワクチンの接種を受けなければ、ぼくたちの躰はたちまち日和見感染を起こして使いものにならなくなってしまうから。

「あなたが来られたということは、博士はしばらく戻らないんですね」

 応接室で、向かい合って座る。注射器の準備をしている楓博士に、ぼくは訊いた。

「そうね、三日くらいは研究室に缶詰かな」

 楓博士の指先には、小さなバイアル。透明な薬液の中に、暖炉の炎が溶けて、ゆらゆらと茜の光で綾取っている。

「じゃ、腕、出して」

「はい」

 ぼくは羽織の袖をまくった。あらわになったぼくの腕に目をとめて、楓博士は、わずかに、ほんとうにわずかにだけれど、かたちの良い眉をひそめた。ぼくの腕には、昨夜の痕が、まだ生々しく残っている。いとしいあとだ。博士が帰るまで消えなければ良いと思う。なぜ楓博士が顔をくもらせるのか、ぼくには不思議だった。

「あの……」

 透明な茜の光がぼくの中に注がれていくのを眺めながら、ぼくは楓博士に言ってみた。

「毎回、来ていただくのも、ご足労ですから、在庫を置いていってもらえたら、自分で打ちますよ」

「だめ」

「え?」

「これは私の役目だから」

 あなたが気にする必要はないのよ、と、楓博士はささやいて、ちいさく笑った。このときの微笑は、どこか寂しそうで、梍博士と、すこし似ていた。

「じゃ、また来るわね」

 ひらりと手を振って、楓博士は《マリアの子宮》に戻っていった。海から吹き上がる風が、ひゅうひゅうと街を冷やしていく。暖炉のまきを足して、ぼくは窓の外を眺める。丘の下に広がる街は、水墨画のように静かにたたずんで、窓の額縁にひっそりとおさまっている。黒く濡れた石畳に、ぼくの足が靴跡をつけることはない。海霧に煙った街の空気を、ぼくの喉が吸いこむことはない。触れることのない額縁の向こうの世界。隔絶された、現実味のない映像。

 腕に残った博士の跡を、そっと、なぞる。薄い皮膚の下で、ぼくの血は、とくとくと命を刻んでいる。指先に感じるぬくもりに、ぼくは微笑む。ぼくの躰は今日も正しく整えられ、ここでしあわせに生かされている。


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