#2 メビウスの螺旋

1

 冬にさしかかる街は鈍色にびいろにくすみ、夜がきても空はどこか薄い膜を張ったようだった。狭間の季節を越え、まことの冬にひたされれば、皓々こうこうと輝く天狼星シリウスが闇夜をくさまを眺めることができるだろうか。ぼくはまだ、生まれて間もない。ぼくのは、晴れ渡った夜空を、まだ映したことはない。

 このやしきは丘の上にあって、空も、街の風景も、容易たやすく望むことができる。けれど、それはぼくにとって、街の陳列窓ショーウィンドウと同じだった。眺めるだけで、手の届かない、理想フィクション

 緞帳を引いて、空を閉ざしたら、夜の幕開け。

 ぼくの躰に、華奢な影がおちる。小柄だけれど、少年型のぼくよりは背が高い。おとなになったばかりの、男性の体だ。

 すこしかさついた薄い皮膚が、刹那、ぼくの唇に触れて、かすかな吐息とともに、ざらざらとした熱がぬるりとぼくの内側にさしこまれる。牙の輪郭をたしかめるようになぞる尖った舌。ぬくもりを宿しながら、それはぼくの熱を吸っていく。このひとの温度は、ぼくよりも低い。

 寝具リネンの海に、ぼくは浮かぶ。このひとの背中に腕をまわすことも、腰に脚を絡めることも、禁じられたまま。これは、ぼくを組み敷いた最初の夜に、このひとがぼくに命じたことだった。行き場のないぼくの手は、敷布の波間を、ただ泳ぐ。揺れて、崩れて、溺れそうになるたび、きつく結んで、息をとめて。

「呼吸の仕方は教えたはずだよ」

「……っ、ごめんなさ……い……」

 気づいたこのひとが、すっと、ぼくの唇から自分のそれを離す。微かにひそめられた眉。体を起こす気配を感じたぼくは、とっさにうつむいていた顔を上げる。空気を求めるぼくの喉が、ひゅ、とこがらしに似た音を鳴らす。

「つづけて、ください」

 目を閉じて、このひとの温度を、熱を、迎える。首から肩をなぞり、胸へと辿たどる、ひんやりとしたてのひらが、ぼくの躰に、熱を灯していく。おしつぶすように円を描くこのひとの指のはらの下で、ぼくの胸に尖る一対の突起がうれしいとささやく。そう、うれしい。ぼくは、うれしい。このひとに触れられること。需要に応えられること。必要とされること。これは、そのあかし。熱も痛みも、すべて。そう、信じている。

「……っ、や……ぁ……っ」

 抑えきれない、声がこぼれる。だめだ、抑えなきゃ。このひとは、声をあげることを好まない。ふるえる唇をかみしめる。口の中に血の味がにじむ。躰の中心にさしこまれる異物。違う。異物じゃない。このひとの指だから、このひとのだから、異物なんかじゃ、ない。

「さすがに馴染むのは早くなったね」

 絶え間なく押し寄せる刺激の波。奔流の中で、ぼくは投げかけられる声にすがる。ほんのすこし満足そうな色をとかした声。ああ、しあわせだ。ぼくは今、しあわせだ。必要とされている。今、ここで、この瞬間、ぼくの躰は、ぼくは、このひとに必要とされている。うれしい。うれしいから、捧げられる。この躰なんて、いくらでも。ぼくはひらく。すべてを。このひとに宛てて。


――愛して、ください。


 その一言を、声とともに喉の奥へと沈めたまま。


――ぼくの命は、正しいですか?


 ぼくは問いつづける。この躰で、問いつづける。そして、このひとの体が、ぼくに答えを注ぐ。ぼくの命の正しさを、証明しつづけてくれる。


――あなたの心が、ぼくの命だ。


 目を閉じて、このひとを迎えいれる。これが、ぼくの需要。ぼくの命に課せられた義務。美しいとたたえられる、ぼくの躰。ぼくがもつ濡烏ぬれがらすの髪も、白磁の肌も、黒曜石の瞳も、すべて、このひとにつくられ、整えられた。

 由一〇――これが、ぼくの型番だ。ぼくの前につくられた試作品プロトタイプ――伊シリーズは、致命的な欠陥が見つかり、回収された。ぼくたち由群は、その改良版だった。それを、ぼくは誇りに思う。ぼくは、こうして、ちゃんと、ぼくを捧げられている。自分のために命を使ったという、伊群のようにはならない。

(博士)

 ゆれながら、ぼくは胸の奥で、このひとを、呼ぶ。

さいかち博士)

 ぼくを生み、生かしつづける、ただひとりの主の名を。


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