n+5

 わたしのからだは、新しい〝イサナ〟の躰とともに、再びやしきに搬入された。夜明け前の群青が、さらさらと立ちこめる海霧に白くかすんでいる。風はぎ、ひんやりとした静寂が、街を、わたしたちを、包んでいた。

「待っていた」

 門の前で、マスタは、馬車を降りたわたしたちを抱きしめた。主が、わたしたちを出迎えたのは、初めてだった。

「待ちわびていた」

 すらりとした主の腕が、わたしたちの背中に回る。華奢だけれど、かっしりとした、きれいな青年の腕だ。この腕の、元の持ち主は、どんな《オルタナ》だったのだろう。わたしは目を細める。着物越しに伝わる主の体温が、わたしの躰を染めていく。

「愛しています、主」

 わたしは返答する。正しく、この躰の定義のとおりに。

「愛しています」

 わたしたちは、異常皆無オールグリーンだと。





 窓の外に、茜の紗が広がっていた。まもなく陽が落ちる。夜を告げられる。

 イサナの髪を、わたしは整えていた。いつかのように――いつもの、ように。

「ありがとう。交代するね」

 イサナは微笑み、わたしの手から、はさみを取り上げる。その手は喉に伸びることなく、わたしに椅子へかけるよううながし、わたしの髪をいた。設定通りの、正しい所作だった。

 椅子にはイサナのぬくもりが残っていた。わたしの腿に、脚のはざまに、じわりとイサナのあたたかさがにじむ。わたしと同じ温度のはずなのに、あたたかく感じられて、わたしは、ぎゅっと、膝をとじる。

 イサナの手が、わたしの髪をすくう。鋏をあてる。マスタの望むかたちに整えるために。

「……や……」

 かしゃん、と、鋏の落ちる音が響く。無意識に、わたしは、鋏を振り払っていた。胸の奥に走ったひびから、言葉がしたたる。

「……いや、だ……切らないで……」

 整えないで。

「イコナ?」

 揃えないで。

「わたしは――」

 席を立つ。イサナのぬくもりが、わたしから離れる。振り返って、向かい合う。いだイサナの瞳に、ゆらぐわたしの瞳が映りこむ。

「……同じ……じゃない……」

 おんなじ、じゃない。

 ぱきり、と、胸の奥の硝子が砕け、破片を落とす。それははかなく明滅しながら、わたしの深淵に沈んでゆき、閉ざされた白い闇を払っていく。立ちこめていた霧が、晴れていく。


――終わりのときは、あなたの手で。


 躰の内側に、声が響く。懐かしい声。よみがえる言葉が、わたしを導く。

「わたしは……ここにいる」

 わたしは触れる。わたしの記憶に。《イノセンス》のひつぎに眠る、最初の〝イコナ〟の亡骸なきがらに。

「あなたは、ここにいる」

 イサナのからだに、手を伸ばす。白いイサナの頬に。

 遠い昔……最初のイサナが、わたしに触れたときのように。

「わたしたちは、等しくない」

 だから願える。わたしから、あなたに。

「わたしたちは、均しくない」

 だから望める。わたしから、わたしたちに。

「ひとりと、ひとりの、命だった」

 わたしはささやく。吐息が触れ合うまで、顔を寄せて。

「わたしのからだを、わたしにおしえて」

 白い頬から、黒い髪へ、指をすべらせながら。

「わたしのいのちを、わたしにつたえて」

 深くくらい水底から、想いを――心を、すくい上げるように。

「……イコナ……」

 イサナが呟く。深淵の瞳が、波紋を立てるようにゆらめく。

「……わたしたちは……」

 白妙の手が、わたしの頬を、そっと包む。わたしを見つめるイサナのも、そこに映るわたしのかおも、いつかと同じ。《イノセンス》の約束を交わした、わたしたちと、同じ。

「……あなたと、わたしは……」

 囁きにのせて、イサナの唇が、わたしのそれに、ふわりと重なる。絹の紗のように、柔らかく、優しく、わたしの呼吸をふさいでいく。白い影に躰を浮かべて、わたしたちの寝台の海に、ゆるやかな波を立てる。目を閉じて、限りなく広がる暗闇に、わたしは輪郭のくびきを解く。

「…………永遠に一緒じゃ、なかったの…………?」

 イサナの手が、わたしのえりを、おもむろに割る。なにも育まないわたしの胸を、イサナは含み、舌先でいじる。わたしが吐息をゆらすと、イサナはそれを、強く吸った。わたしの喉から、ひう、とかすれた声が漏れる。そのあいだにも、イサナの手は、わたしの肩から肋を伝い、腰から腿へと下りていく。わたしをなぞる、わたしと同じかたちの手。わたしに重なる、わたしと同じぬくもりの躰。おんなじだ。どこも違わない。なにひとつ異ならない。それでも、あたたかいと感じる、これは、わたしの温度だ。この躰は――《私》なんだ。

 私の温度が、わたしの温度を、わたしに伝える。

 私の手が、わたしの輪郭を、わたしに教える。透明だったわたしのかたちをなぞり、描き出していく。

 わたしが染まる。色づいていく。私に触れられた場所から。無色透明だったはずの、わたしという器に、わたしの色が、にじんでいく。わたしだけの色が、あふれていく。

 わたしの、意思の造形。わたしだけの、意志の色彩。

 私の指が、わたしの影に、辿たどりつく。問いかけるように、おもてをでる。未来を宿すことのない、わたしたちの器。今、この躰は、公共の資源リソースなんかじゃない。わたしのものだ。わたしだけのものだ。

 わたしはひらく。わたしのからだを、私ひとりにあてて。ひび割れた硝子の柩。その中に眠る、凍てついた白に、指先を届ける。幾度も殺し、葬ってきた、わたしの――私たちの、白い、しろい、無垢の亡骸。心の屍骸。

いて)

 ぎゅっと目をつむり、声をほどく。灯る熱を、あおるように。

(灼ききって。かし尽くして)

 このからだから、解き放って。

(もっと)

 触れて。伝えて。確かめさせて。

 わたしはここにいるって。わたしはここにあるって。

 わたしのからだを。わたしのこころを。

 わたしの意思を、意志を、遺志を。


 命を。


 代替可能オルタナティヴ――わたしたちは、同じでなければならなかった。個をもたず、自己も他者も、区別されず、等しく、均しく、いつでも替えのきく存在でありつづけなければならなかった。それが、《オルタナ》の需要であり、定義だったから。


――疑わず、安定性を保て。

――考えず、公共性を保て。

――表さず、調和性を保て。


 試験管の中で、繰り返し言い聞かされた言葉は、きっと、呪文だった。わたしたちの心を守る、封印だった。

 けれど、わたしは、疑ってしまった。わたしの在り方を。考えてしまった。わたしという存在を。そして今、こうして表している。わたしの望みを。わたしの願いを。

 このからだから。このこころから。

「……さいごまで……泣けなかった……」

 目をあけて、わたしは微笑む。

「…………ね……」

 私の手を、そっと取る。指を濡らす透明な雫が、つう、と銀色の糸を引いてきらめく。これが、涙なら、よかったのに。

「叶えて、くれる……?」

 私の両腕を、わたしは導く。整いきらない呼吸にゆれる、細く弱い、わたしの首へ。

「わたしに……」

 どうか。

「自由を」


――《シヴィタス》の意志の下、異常皆無オールグリーンを維持せよ。


 無垢な声が、遠くきこえた。

 閉ざしたまぶたの裏が、赤く染まっていく。


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